第87期 #9

或る心地好く耐え難き話

 伴うは最早野良猫のみという夜闇の帰り道で、前方に呆と照っているのはコンビニエンスストアの灯りである。
 ガラスに貼り付く様にして若者が二人、店内で雑誌を読み耽っていた。それはむしろ、居所の無い住まいから誘われ出でて、雑誌に顔を喰い付かれているかの如くである。彼らは一様に輪郭を失しながら、全くの匿名な形をしていた。
 この冷え々々とした灯りの下、三つ並んだ塵箱の脇に、それは在った。否、嘗て無かった事を在らしめた様に、無いものが在った事を無くしながら在った。
 鞄の底を弄って鍵を取り、扉を開けた。妻はどんなに帰りが遅くなろうとも、起きて待っている女であった。
 いつもの茶碗に僅かに盛った冷飯に熱い茶を注いでいると、妻が冷蔵庫から漬物を取り出して卓の上に置いた。人参と山芋であった。
「そこにさ、無いものが在ったよ」
 妻は小首を傾げたまま山芋を一切れ摘み、唯黙って前歯を忙しなく動かしながら食していた。
 翌朝、扉を開け陽光を浴びて漸く、塵箱の脇に在った昨夜のそれを思い出した。思い出して、それまで忘れていた事が靴底に滲んだ。駅までの路上に、暗い足跡が一つずつ染みて行く様であった。
 昼、街の角々に陣取った弁当屋に、人々が屯していた。無い在るものが無からしめられて行くその風景に、一つの情景が重なる。木製椅子の軋みと人肌の臭い、直ぐに弾けて消える囁き声、記憶の片隅に在った無いものを嘗て在らしめた事が確かに在ったのであった。
 Yの姿が在った。その情景の中でYは、在る無いものの隣の席に座っていた筈であった。殆ど口を利いた事の無かった男である。が、同窓名簿を調べ、Yに連絡を取った。
「はあ、わからないなあ。悪いね、力になれなくて」
 無いものが在ったという記憶がYの中に在った事が無からしめられているのであろうか。そうであれば、無いものが在るという事が嘗て在った事が、記憶の中に確かに在る無いものとして在る様に思えた。
 あの時、Yは隣で笑っていた。それは在る無いものの中で、無い事を在らしめながら無からしめられていく事によってのみ在る何かであった。

「この間言った無いもの、もう在ることを無くしてしまってたよ」
 茶漬けを啜り、向かい合って座る妻に、そう言った。妻は茄子の漬物を額の高さまで持ち上げ、だらりと下がったそれを口から迎えに行って喰った。
「漬かって無い」
 そう呟く妻は、白目の無い眼球で正面を見据えていた。



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