第87期 #8

『悲しい話』と朝焼けの炎

 私とて『悲しい』話は好きではない。でも惹きつけられてしまうから、私が瞬きをした瞬間に、私の右手が『悲しい話』に伸びてしまっているのだろう。
 私はおかしいのではないか、と思っても、その心内を明かせる人間は誰一人としていない。それはつまり、私が誰にも心を開いてこなかった結果であり、また私に誰も心を開かなかった、という結果でもあるのかもしれない。答えはわからない。正直、わかりたくもない。
 わかりたくないのなら、その部分に触れなければいい。
 だけど心の奥底では、本当は、いつも薄暗い炎が燃え滾っているから、だから右手が『悲しい話』に伸びて行くんだ。きっと。
 
 朝焼けが本の中に染み込む。
 私が先月から読み続けていた『悲しい話』が、朝焼けに塗らされて、キラキラと輝いているようだ。
 私の内側は普段より遥かに燃え滾り、薄暗さは消えていた。しかしその代わりとでもいうのか、炎は暗黒であった。
 何か、抑え切れない衝動があった。今から始まる『日常』を、全て燃やし尽くしてしまいたいという願望があった。
 私は頭を振った。そんなことはダメだ。
 しかし私の目に映る朝焼けは、もはや漆黒であった。しかもその黒が、私の目の前で、永遠に佇むのではないかとさえ、思えた。
 私は動き出さなくちゃいけないんだ、と思った。
 
 彼はそれからスカートを履いて、化粧をして、女になった。
 彼の心内にいつも燻っていた漆黒の炎は、彼が彼女になった瞬間、呆気なく消えた。
 彼は、自分自身を、彼女になることで、見つけ出したのであった。
 彼女の前ではもはや、朝焼けは無限大の希望である。
 『悲しい話』を『楽しい話』に生まれ変わらせ、彼女は今日も、笑顔で化粧をする。



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