第87期 #27

ネコムラサキ

 あの頃の僕らには何ら語る程の物語はなく、それでも過ぎていく時間を有るがままに享受し続ける、そんな図書館のように揺るぎない生活がそこにあった。ただ、僕が彼女に出会ったあの夏の日は、例え向こう十年分の物語をあさったとて、そこに既視感を得られることはないだろう。
 彼女の愛称はネコムラサキ、本名は猫田紫。どこにでもいる転校生で、卒業を間近に控えた僕らにとっては別段重要なイベントではなかったにしても、特段かまわずには居られないそんな存在だった。

 夏休み、僕らの住む町にはかくれんぼ山と呼ばれる大きな山があった。そこは広くて都合の良い遊び場所なのだが、熊が出没するという噂のせいで、僕らはピンと張られたロープの下をしゃがんで入らなければならなかった。

「まだぁぁぁ!」
 突然、鬼をしていた奴が叫んだ。かくれんぼだったので「まーだだよ」のことかと思ったが、それを鬼が呼ぶのは間違っている。加えてその声が尋常ではない響きを含んでいたのもあって、僕は隠れ家にしていた倒木の下から抜け出し、声の方を見た。
 熊だ。
 それも大人の背を軽がると越える巨体。黒く逆立つ毛皮を纏う理不尽の化身。
 その足元には、ぼろ屑のような体躯がひとつ。
 震えすら止まり、視線と姿勢を固定したまま僕は静止した。他のやつらも同じだろう。コマ送りのような時間が流れ、熊の姿が見えなくなって、やっと、僕らは泣く事を許された。
 一見して死んでいるように見えたそいつは、まだ腹でふっふっと息をしていた。それなのに、僕はどうしたらいいのか分からなくて、大人を呼んで来ようにもその間にこいつが死んでしまったらとか考え出して、結局動けないのだった。
「ねぇ、あなた達。秘密を守れる?」
 ネコムラサキだった。
「守れるのなら、あなた達全員を助けてあげられるかもしれない」
 正直言ってその時の僕らに、彼女の言葉を解するだけの余裕は無かっただろう。
「その代わり」
 だけどこの状況から助かるのであれば、と僕らは首を振ってお願いしていた。もう、最後まで聞いてなんていられない。
「わかった。じゃあ、目を閉じて」
 言われた通りに目を瞑った。すると。

 気が付けば二学期が始まっていた。卒業を間近に控えた僕らには何ら語る程の出来事は無く、山で熊に襲撃もされなければ、そもそもそんな山など存在しなかった。斜め前の席でネコの目が紫色に笑う。僕らはそんな誰にも語れない秘密を持っている。



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