第87期 #16

茜色ノスタルジー

 透明な空の向こう、高いところで、冷たい風が吹いている。
 歩を進めるたびに、かさりかさりと足の下に崩れる枯れ草が心地良い。
 遠い山の端には、落ちたばかりの太陽の残滓が、水彩画のような透明感で、見事なグラデーションを描いている。
 覆いかかるススキを掻き分けながら、前を揺れる背中に声をかける。
「おい、」
「んー?」
 茜が振り向く。細い肩越しに、大きな瞳がこちらを見る。
「まだ?」
「もうちょっと」
「日が暮れるよ」
「わかってる」
 小さな掌でススキを掻き分け、かさりかさりと進む背中をついていく。
 秋に染まる空気を、虫の声が満たしていた。何かが頭上をかすめる気配に驚いて、足元に落ちていた視線を上げて目を開く。
 濃さを増した空の薄明かりの下を、いっぱいにトンボが満たしていた。少し飛んでは止まり、また少し飛んでは止まりを繰り返す者、一心不乱に仲間を掻き分けて飛ぶ者、それらが空のキャンバスの上で砂鉄のように蠢いている光景は、少し気持ち悪いものだった。
「茜、あれ」
 呼び止めると、茜はちょっと振り向き、小さな頭をかくん、と後ろに倒して空を見上げる。
「あー…」
「あれ、なに」
「アキアカネ」
「アカネ?」
「ばか」
 しばらくそうやって、二人でトンボを見続けた。
「すげえな、数」
「近くに池があるから。小さいけど」
「池があると、なに?」
「そこに卵を産む」
「へー…」
 縦に二匹繋がって飛んでいるトンボがいた。前のトンボがオス、後ろのトンボがメス。オスのお尻の先端にはカギがついていて、それでメスを捕まえる。捕まえられたメスは、連結したまま水辺へ行って産卵するのだと、茜は淡々と教えてくれた。
「…こわくないのかな」
 ぽつりと、茜が最後に落とした言葉に振り返る。
 茜は、最初に首を傾けた姿勢のままで、じっと上を見ている。
「…こわいよね」
 顔は見えなかった。でも肩が細い。首も細い。全身が細い。
 何も言えなかった。どうして、とも、あいつら虫だし、とも、大丈夫だよ、とも。
 …大丈夫、なんて。
 だから黙って、砂鉄のように蠢くトンボをずっと、見つめていた。
「…でもさ、」
 ひっそりと、茜が呟く。
「卵、産むしね」
「…ん」
「だからさ、きっと、いいんだ」
 さやさやと風が吹く。冷たい風。近づく冬と夜のにおい。
 いつしか、トンボは減っていた。
「行こうか」
「うん」
 かさり、かさりと、枯れ草を踏んで歩いていく。



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