第86期 #30

エンドレストラック

〈スタートラインは皆一緒〉などという浅はかな戯言をこの世に解き放ったのは一体どこのどいつなのか。ちなみに言っておくが、これは僕自身の才能の無さに対する愚痴などでは断じてない。現に今、スタート地点において、僕の両隣のレーンは遥か前方と後方なのだ。つまり、スタートは皆孤独というべきなのだ。
 そんなことを走りながらも考えていたから、五年前、僕はこの四百メートルの舞台で君に敗れたのだ。いや、きっと敗北はそれ以前に決まっていたのだろう。誰もレースの号砲が真のスタートとは言っていない。ありがちな文句だがそういうことだ。〈始まる前から、勝負は決まっていた〉。何だか意味がネジ曲げられた気もするが、とにかく僕は負けたのだ。ところでこの〈だから、僕は負けたのだ〉という言葉は、文末に添えるだけでいつでも筆を置くことができそうだ。そんなことを考えているから、僕は君に負けたのだ。
「戯言を解放させすぎだろう」
 君は言う。
「そうかな」
「閉じこもって小説ばかり書いてるせいだ」
「君こそ、パソコンと対峙してばかりだろ」
「それはお前も同じさ」
「残念、僕は手書き派なんだ」
 二人は思うまま解放する。
 僕は赤いトラックに目をやった。
 スタート、カーブ、直線、スタート。丸いトラックは回帰する。始まりと終わり、それは所詮人為的なものだ。ぐるぐると、僕は半永久的に回り続ける。君はどうだい。昔、陸上競技のエロ小説を読んだ。あの主人公は、こんな薄い競技服を着て、性欲が体外に溢れ出るのを抑えられたのか。否、大丈夫か。レース中のランナーはみな全身性感帯か、あるいは全身不感帯だ。ちなみに僕は前者で、だから走ってきた。
 君は、どうかな。

 そんなことばかり考えていたので、五年経ってもやっぱり僕は君に敗れて、エクスタシーを感じながら終わりへとなだれ込んだ。君は笑っている。僕は恍惚としている。
 あれ? 
 文末にくる筈の言葉が、どこを間違ったか文頭に来ているぞ。
 終りが、始まりに。
 あるいは、これから何かがあるのかもしれない。
 あるいは、僕の中で何かが終ったのかもしれない。

 僕と君は、背を向け合って、全くの逆方向に歩きだした。
「十歩で振り返って、バン、な」
「うん」
 僕は答えて十歩進んで、そしてそのまま十一歩目も踏んだ。
 十二歩、十三歩。進んでいく。
 もしかすると、ただの天邪鬼なのかもしれない。
 銃声は聞こえてこない。君もそうなのかな。



Copyright © 2009 壱倉柊 / 編集: 短編