第86期 #25
いつものように喫茶店で冷たいコーヒーを飲んでいた女の隣の席に、ウサギのぬいぐるみを抱いている男が座った。反射的に見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった女であるが、不快感はなく、もう一度視線をやると、そのぬいぐるみは昔女が眠るときに抱いていたものだった。ぬいぐるみは耳が汚れていて、そんなところまで似ていた。
男は着ていたコートを脱いで向かいの椅子にかけたが、コートを脱いだ男は影のようにしんみりしていて、そのコートも男も、女にはさびしくみえた。唯一、ウサギのぬいぐるみだけが、生き生きとしているのだった。
まもなく男は、左手にウサギを右脇にコートを抱えて女より先に席を立ったけれど、そのあと床に一枚の紙が残されていた。好奇心にまけて女が拾い読みしてみると、それは小説のようで、猿が女を肩車して浅草へ行くという意味不明な話だった。
(へんなの)
そう思いながらも、その用紙を女は思わず、自分が読んでいた「十月号付録・御馳走ブック」に挟んで、店を出た。
女は雑誌の編集者であった。その日も午前中はライターの久保内象と打ち合わせがある。場所は六本木にある「オカズ」という店で、女が訪ねると久保内はすでに待っていた。この店は名前を裏切るような甘味の店で、今回取り上げるのは「マコマコ」という菓子である。マカロンを大きくしたものに、赤い飾りがついている。
「クボゾーさん、はやいわねえ」
「うん。僕はマコマコもいいけど、ここのワップル大好きなんだ」
早速マコマコの写真を撮り、久保内と文章の打ち合わせを終えた女は、今朝の喫茶店でみかけたウサギの男と猿が女を肩車する小説のことを話した。猿が肩車、と聞いた久保内は曇り空のような表情をした。こういう久保内を女は見たことがなかった。
「君が会ったのは昔、猿だった人なんだ」
「え?」
「今は猿じゃない」
「よくわからないわ」
「うん……時間、あるかい」
久保内は女を連れて、六本木のとあるビルへ向かった。<カラスの蝶ビル>につくと、久保内は鞄からゾウの付け鼻をとりだし、一時的にゾウになった。
「驚かせたね。でも人間としてだけで生きて行くには辛すぎるって人たちが、世の中にはいるんだよ」
久保内が剣豪めいた男に話すと、まもなくスカートを穿いた老人がきた。
「どの仮面を選ぶか。それも、君の生きかたなんだよ」
老人は女を二階のソファ席に案内した。女は兎の仮面を身につけた。