第86期 #16

スナック

「めぐみさあん。」
声を掛ける。けれど彼女は振り返らない。きっとめぐみさんでは無いのだろう。
「スナックめぐみ」から出てきた中年の女性は、太った背中を丸めて隣に並んだ「スナックゆか」に入っていく。じゃあゆかさんだね。私達は勝手にそう決める。

幼い頃、母から「あすこには行っちゃあいけませんよ。」と言われた場所に、私達は居る。六歳のころからずっと、二十歳になったら行こうと二人で決めていた場所だった。ここには沢山の大人が出入りを繰り返している。きっと子供をどの学校にやるかとか、どの先生を付けようかとか、どんな自転車を与えてやろうか、そんなことを相談する場所に違いない。六歳だった私達はそんな事を話しながらくつくつ笑った。
ある日、父が顔を真っ赤にしてふらふらしながら帰ってきたのを見て、泣き叫んだのを覚えている。けれどそんな私を母は横に押しやって、歩みもままならない父を大声で叱り始めた。
父も母もおかしくなってしまった!私は怖くなって縁側から隣の家の庭に逃げた。落ちていた松ぼっくりを握りしめ、汗で重くしぼんでいくのを待ってから、二階のちいちゃんの部屋の窓に向かって投げた。ちいちゃんが窓から顔を出して、「今行くよ。」と小さな声で言った。
「あの場所って何なんだろうねえ。」
ちいちゃんは抱えてきたラムネのビンを一本、私に渡してくれた。きんきんに冷えていて、おいしいラムネ。縁側でそれを、二人で飲んだ。
「お父さんがね、おかしくなっちゃった。あの場所から帰ってきたんだわきっと。」
「うちのパパもね、この間、あの場所に、知らない女の人と入っていったの。」
「何の話しあいしてるのかしら。」
「うちらの学校の話じゃないかな。」
私達はラムネのビンが空になってもずっと話し続けた。私の家から、怒鳴り声と物の割れる音がし出した。

私達は今、あの場所、にいる。
「ねえねえ、あんずさんが洗濯物干してるよ。」
「あんな換気扇の近くじゃあ、変な臭いしちゃうのにね。」
私達はあの場所を散策しながら、好き勝手お喋りした。
このスナックの中で、今度はどんな大人がどんな相談をしてるのかしら。
私とちいちゃんはもう二十歳になった。だからそこに入れるけれど、入ろっか、とはどっちも絶対に言わなかった。



Copyright © 2009 借る刊 / 編集: 短編