第86期 #15
「さつきは今日からやよいなの」
あの日、やよいがベランダから落ちた。落ちたやよいの顔はひしゃげた蛙みたいになっていて、あれはきっとやよいじゃないんだと、そう思った。両手を広げて落ちたから、きっと天使のように空に飛んで行ったのだ。わたしは孫の手と薬缶を元に戻してからお父さんを呼びに行った。
それからお父さんが死体の服をめくって傷痕を確認し、さつきだとわかると舌打ちをして蹴飛ばした。
こうして死体はさつきとして処理され、わたしはやよいという双子の姉に成りすますことができた。
「可愛いのはやよいだけだよ」
お父さんはわたしの頭をよく撫でるようになった。お父さんの手が触れるたび、首筋の裏の深いところがぶるっと震えて身構えそうになるが、お父さんはそんなわたしに本当に気が付いていないようだった。お父さんはわたしを殴った手で、当たり前のようにわたしに優しく触れる。
ある晩、切れた電球を取り替えようとテーブルに椅子を重ねて登ったときのこと。なにかの気配を感じて見下ろすと、敷きっぱなしの布団の上にやよいが浮かんでいた。やよいは手を広げ、それがまるで呼んでいるようだったので、わたしはやよいの胸めがけて飛び降りた。胸に触れる寸前でやよいは消え去り、着地したわたしの踵はお父さんの枕を踏みつけていた。
それからやよいは鏡の中に現れるようになったが、いつも心苦しそうにうつむいていた。
ある日。お父さんは深酒をして眠り込んでいた。わたしはテーブルと椅子を積み上げ、その一番上から手をいっぱいに広げて飛び降りた。狙いは寸分違わず、お父さんの首を踵で踏み潰す確かな感触があった。わたしは服を脱ぎ捨てて痣と火傷痕を見せつけたが、お父さんは鼻血を出しながらいびきをかいていた。
わたしはお風呂で不安と涙と踵の汚れを洗い流し、ジュースを飲んでからお母さんに電話した。お父さんは既に息をしていなかった。
お父さんのことも事故として処理され、やがて、わたしはお母さんに引き取られた。お母さんは男の人と一緒に暮らしていて、わたしをうとましく思っているのがわかった。
ある晩、目を覚ますと、男の人が私の顔をまじまじと見つめていたので、わたしはいたずらっぽく男の人の布団に潜り込んだ。上に乗っても抵抗はなく、わたしはそっと下腹部に手を這わせた。
「やよいちゃん可愛いよ」
隣ではお母さんが寝息を立てていて、たまらなく悔しかった。