第86期 #10
台所の冷蔵庫には母の生首があった。
振り向くと父が鉈を持っていた。
そう言えば今日は祝日だった。
コンプレッサーの音が響いている。
「最初は確かに寒いわよね。でも、慣れてくるとどんどん快適になるわよ」
約十三時間程私より冷蔵庫暦の長い母が、ぼーっとしていた私に声をかける。
「だってここ、結局は春夏秋冬問わず涼しいじゃない? 一定の気候って重要よ。快適の要素だと思うの」
そりゃ母さんは快適だろうさ。隣にキムチがないんだから。
私は隣にキムチと納豆があるんだぞ。コンボだぞ。何も対策せずに食べたら間違いなくアウトだぞコンボ。母さんみたいに枯れた年頃じゃないんだぞ私。現役女子高校生なんだぞ十六歳。
次に父さんが冷蔵庫を開けたら納豆とキムチの位置を変えるように言わなきゃ。
「美紀は私にそっくりね」
「いきなり何?」
「どんな時でも能天気な顔しているところが、私の若い頃にそっくり」
「でもお父さんはそういう母さんが好きだったんでしょ?」
「うん」
母さんは話が長い。特に『私に似てる』系の話題は危険だ。こういうとき私はいつも父の思い出を引っ張り出して対処している。母は思い出に酔うタイプなのだ。
「あ、大変! 牛乳の賞味期限が切れそう! お父さんに早く飲むように言わなきゃ」
「でもうちで牛乳飲むの、私達だけだよ」
「あら、そうだったわ。どうしましょう」
全く、母は実に暢気だ。
自分の状況を理解しているのだろうかこの人は。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「お母さん、ちゃんとお父さんにお願いしたの? 『管理』」
「あ」
あぁ、やっぱり。母さんは今この幸せのせいで一番にやらなきゃいけないことを忘れてしまっていた。思わず溜息をつく私。
「そういう美紀はどうなの?」
「お父さんには冷蔵庫をもらったときから言ってあるもん」
「あらまぁ」
「お母さんの冷蔵庫、『管理』が難しいんじゃない?」
「うん。でも大丈夫よ。きっとお父さんはわかってくれているわ」
「本当にそうならいいんだけど」
私の冷蔵庫は1人だけだが、母の冷蔵庫は4人だ。もしお父さんが忘れてたら折角の愛情がパーだ。
あ、そう言えばあいつの隣に置いたケーキ、食べ忘れたな。どうしよう。
「ねぇ、美紀」
「ん?」
「私今、とっても幸せよ」
「……うん。私も」
母は長年の夢が叶ったことでまだ酔っているらしい。
私もこのキムチ納豆が無ければ酔っているところなのだが。人生世知辛いものだ。