第86期 #11

集中、ひらめき、愛、覚醒

 部屋に入ったわたしがまず目にしたのは、彼女のまどろむ姿だった。彼女は確かにまどろんでいた、というのは窓辺でとろんとしていたというような軟弱な意味合いではなく、これから机の木目に沿って内側に染み込むところだから決して話しかけてはいけません決して、という固い意思を感じさせる体勢で突っ伏していた様をそういっているのだ。
 それは幼少期における母親の愛情の不足を疑わせるに十分な過激さを備えてもいたので、わたしは彼女に近い窓を開けることにした。その窓は曲者で、まずすんなりとは開かない上に、盛りのついた猫のような音を立てるので、彼女は飛び起きて、わたしに不満気な顔を見せるはずだった。
 どうしたことか、その日に限って窓はすっと開いた。夕立が迫っているらしく、空は一面(これはこれで綺麗な)グレーで、生暖かい風が目の前を横切っていった。わたしはしばし呆然とした。5-56の仕業だろうか、それともシリコンスプレーか。いずれにせよ666系の所業だと憤慨するわたしのすぐ側で、彼女の額はいよいよ木目を読み始めていた。
 湿気とは無関係に瑞々しい髪が四方八方に拡がって、上から見ると外国の毒蜘蛛のようだった。一束つまんで持ち上げてみたが、たちまち指の間から滑り落ち、本体は微動だにしなかった。
 だらりと垂れた右手の下には鞄があって、ジッパーのすき間からペットボトルが蓋を覗かせていた。開けて飲んでみたが、彼女の指先に力が戻ることはなかった。
 母親が情の薄い人だったとは思わないが、わたしはそこで彼女を諦めて、隣の椅子に腰掛けた。誰かが置いていった文庫本を手にとっていたずらにページをめくっていると、視界の端から彼女の手がするすると伸びてペットボトルに迫った。わたしはそれを払いのけて、ぬるい紅茶を一口飲んだ。
 彼女は蠢いて、突っ伏したままではあったものの顔の向きを少し変え、口を開いた。
「ひどい」
「ねえ」
「ひどい親だ」
「学校では先生と呼びなさい」
「ひどい教師だ」
「若い頃は熱心だったのに」
 それを聞いて、ちょうど部屋に入ってきた若い教師が引きつった笑みを浮かべた。わたしは立ち上がって彼を迎えた。
「そんな嫌そうな顔しないでよ。やりにくいなあ、みたいな」
「してませんよ。勘弁してくださいよ」
「冗談よ」
 はあ、と彼は溜め息とも返事ともとれる声を漏らした。
 彼女はううん、と唸って、不満気な顔をこちらに向けた。



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