第85期 #9

少年ロケット

「あの海の向こうには、何があるの?」
「さあ、何かしらね」
 そんな会話をふと頭に浮かべた、物心ついて間もないような子供が一人。夜中に布団から抜け出し、パジャマの上からぶかぶかのコートを羽織って、家を飛び出した。寒風が吹きすさぶ真冬の澄み切った星空に包まれながら、彼は些細な疑問を解決すべく、その小さな足を一歩踏み出す。
 行き先をはっきり決めていたわけではなかった。ただ行きたい方向に、誰もいない道のど真ん中を闊歩する。好奇心に掻き立てられ、最初はゆっくりだった歩行のスピードも、時間を追うごとにどんどん速まっていく。
 寒風は依然牙を剥き続けていた。木々に僅かに残された葉を次々と食いちぎる。ありとあらゆる生物の気力を根こそぎ奪い去る。路上に点在する水溜まりの時間はもうすでに止めてしまっていた。
 足を速めれば速めるほど、そんな寒風はより猛威を振るって彼に襲いかかる。だが、彼は全く怯もうとせず、さらに走るスピードを増していく。

 いったいどれだけ走ったことか。それなのに、彼が疲れることは決してなかった。走れど走れど力は尽きず、さらに勢いが増すばかり。
 行く先々では土の割れた田畑ばかりが目の前に広がっていたが、彼が進むのを躊躇うことはなかった。ただ真っすぐ、その上を駆け抜けるだけ。少なくとも、現時点で彼を止めるものなど何ひとつ存在しなかった。
 さらに時間が経てば、何度も何度も力強く蹴っていたはずの地面の手応えまでも失っていく。足だけでなく、身体中の重みが影を潜め始めた。風が彼の身体を地面から巻き上げようとしているのだ。
 彼は風の誘いに乗った。最後にしっかり、勢いよく地面を蹴りつける。
 上へ上へと巻き上げる風の流れにうまく乗り、彼の身体はぐんぐん上昇していく。それと同時に、羽織っていたコートは風に剥ぎ取られ、地面すら見えない暗闇に沈んでいった。

 寒いだとか痛いだとか、そんな余計な感覚は、コートと共にすべて地上で脱ぎ捨てられた。浮力をも身につけた小さな身体が、夜空を駆け抜ける閃光へと成り代わる。
 それでも、いまだにあの些細な疑問を解決できてはいなかった。あの海のずっと先には、いったい何があるのだろうか。
 わからない。
 わからないからこそ、今でも彼は一筋の流れ星となって、夜空を切り裂き続けるのだ。



Copyright © 2009 謙悟 / 編集: 短編