第85期 #5

小さな手のひら

研究室の扉は、いつも無防備。
大切な書類の山は、読み放題だ。
読んでも分かりっこないのに、憎らしいどころか愛しい。
こっそり忍び込んでから、もう数時間。
部屋の主は、未だ戻らず。
それをいいことに、主の白衣に袖を通し、主の机にうつ伏せた。
微かな残り香に顔を埋めて目を閉じれば、主の温かさまで感じる。
窓が綺麗な夕暮れに染まる頃、研究室に向かう靴音が聞こえた。
主が戻る前に、白衣を脱いで元の場所に戻した。
そして、足音をたてないようにソファーに座った。
それと同時に扉が開いて、私の体がトクンと音をたてた。
「ん?どうした?」
「別に。」
「久しぶりだな。元気してたか?」
「それは、こっちのセリフたと思うけど?」
「そうだな…ごめん。」
別に悪くもないのに、謝るところも大好き。
「今日は、絶対に帰るんだよね?」
「ん?何でだ?」
何でもない。だた、少しでも一緒に居たいだけ。
でも、そんなこと言わない。
「分かった。帰るよ。」
そう言って、大きな手のひらは、私の頭を優しく撫でる。
離れ際に残る指先の感覚が、切なくてたまらない。
一緒にいれば居るほど寂しくなるから、せめて家に着くまでの一時は、手のひらだけでも重ね合わせていたい。
「お兄ちゃん。」
「ん?どうした?」
「本当に悪いと思ってるなら、家に帰るまで手を繋いでいい?」
「いくら兄弟でも、高校生の女の子と手を繋いでたら、勘違いされないか?」
「じゃあ、いいよ。繋がなくて!」
怒ってなんかないよ。ただ…寂しいだけだよ。
好きなだけなんだよ。
お互い小さな手のひらだった頃。
あの頃は、何も言わなくたって、私の小さな手のひらを包んでくれたよね。
「帰ろう…でも、少し遠回りしてな。」
少し遠回りは、人通りの少ない帰り道。
恥ずかしいのか、私の顔も見ずにそっと指に触れてから、繋ぎ合わさった手のひら。
好きだから、兄弟だって、高校生になったって、手を繋ぎたい。
「繋いで」と頼んだのは、私の方。
「いいよ」と繋いでくれたのは、私の大好きな人。
それなのに、私はきっと、また泣いてしまう。
幸せの錯覚に惑わされて、思いを声に出してしまわないように。
そっと深呼吸して、繋いだ手をぎゅっと握りしめた。



Copyright © 2009 由香子 / 編集: 短編