第85期 #22

メルト

 うっかり寝過ごした瀬里は、約束よりニ十分遅れでやってきた。
「お豆腐を、買っていまして」
「お前バカじゃねーの」
「失礼な。私が豆腐を買ったら駄目ですか」
「そうじゃねえ。あれはラーメン屋の笛だ」
 しまった――と瀬里は思った。完全に思い違いをしていた。
 やはり覚醒しきっていないのか。瀬里は頭を振った。僅かながら、自分とこの時代の間には未だズレがある。だがそれは僅かで、フォローできる範囲だ。豆腐だってラーメンと一緒に売っていたといえばいい。
「豆腐もってんなら見せてみろ」
「ごめんなさい、嘘をつきました」

 瀬里は百年のあいだ冷凍保存されていた。二〇〇〇年から百年間。彼女の父は孤高の天才科学者(マッドサイエンティスト)であり、たった一人で瀬里を氷漬けにしたのだった。父の仕事の為ならと、瀬里も喜んでそれを受けた。
 しかし一つだけ問題があった。それは、瀬里が蘇ったとき、既に父はいなかったということだ。
 その場のノリって恐ろしい――目覚めて彼女はそう思った。
 とにかく瀬里が目覚めたとき、周囲に彼女の知り合いは一人もおらず、人々は彼女を未知(野蛮)のものを見るような、好奇と恐怖と、ほんの少しの嘲笑を含んだ目で見つめ、やがて暗い場所に閉じ込めた。瀬里は久方ぶりに恐怖を感じた。
 そこへある日ふらっと現れた若き天才科学者タクミ(異端児)は、彼女を見るなりこういった。
「お前、ロボットか?」
「そうです。あ、いや、違う」
「もうロボットでいいよ。そのほうが冷凍なんちゃらより説明しやすい」
 そうして瀬里はタクミの所有物になった。
 
 タクミと暮らしていく内に、瀬里は自らのおかしさに気付き始めた。時代錯誤を超越した頭のおかしい部分が、自分にはあるのではないか。タクミには「お前は本質的にバカ」と言われた。
 いや違う。瀬里は強く思った。私は普通だ。普通のミレニアム・ガールだ。タイムラグって恐ろしい。そうして瀬里は自らの存在を時代のせいにした。このとき初めて彼女は自らをロボットだと思った。
 
 タクミはよく音楽を聴いた。ある日それで瀬里の話を無視した。
「悔しいか」
「はい」
「なにをするつもりだ」
「こうです」
 瀬里はポケットの中にあった鋏で、イヤホンのコードに刃を入れた。
 しかし切れなかった。
「バカ、そんな物で切れるか。頭を使え」
 そう言うと、タクミは耳からイヤホンを外した。
 その瞬間、瀬里はタクミを力いっぱい殴った。



Copyright © 2009 壱倉柊 / 編集: 短編