第85期 #21

 鍋を囲みながら「読むとは知識と推論能力の組合せのことだよ」なんて話をさっきから何時間も哲夫とモト子がつづけているのを、俺は意味もわからずニヤニヤとうなづいていた。まったく文学なんて古臭いや。

 哲夫の部屋にきているというのに、まるで俺が主人であるかのようにさっきから哲夫にポン酢を足してやったり、酒がなくなったモト子から

「洋介、ビールないよ」

とアルミ缶をペコペコ鳴らされて、ひとりでコンビニエンスストアまで買いにいったのも俺だった。

「目が受けた衝撃を、文学世界に書き直すことによって、我々文士は文学という手段で感性に抵抗する」

 哲夫の言っていることは、俺には理解できそうで、イマイチはっきりわからず、なんだか力士に首根をつかまれて宙ぶらりんにされている小人のような気持ちになる。

(ああ、いてえな)

 バスの中で首を傾けて眠ったせいで、捻挫したようだ。哲夫のうちに向うバスのなかで、モト子が「哲夫くんと話していると息するのが苦しいくらいにドキドキしてくる」と言っていたのを思い出す。俺は夜勤明けで本当は一日中寝ていたかったのに。まったく。

「そんなに哲夫と話あうならお前ら付き合っちゃえばいいじゃん」

 俺がモト子をひやかすと「哲夫くんには知性のきらめきがあるけど、洋介にはキラキラしてない名刀のしなやかさがある」と真面目に返されて、それは哲夫と話しているみたいだった。

 鍋のスープも蒸発してしまうほど二人の議論が白熱するのをぼんやり聞いていると、甘い花の匂いがして、いつのまにかアキさんが隣にいた。哲夫は見向きもしないし、アキさんはアキさんでストッキングを脱ぎだして、ポイっと投げはなった。俺はアキさんの脚に見とれてしまう。そのうちベルが鳴って、夜の仕事を終えたユカリさんも帰ってきた。

「アキー、今日どうだった」
「うーん、思い出したくない」
「洋介くんウオッカ飲まない?」
「飲むー」
「どうなの警備って」
「夜のデパートは遊園地ですよ」

 ウォッカにライムを搾ったのを3つ作って、俺たち3人も酒盛りをはじめる。ユカリさんが鞄から出した「客から貰ったいいとこのスルメ」をツマミに話がはずむ。

 まだ哲夫と俺が高校生で彼が文学なんかに目覚めていなかったころ、俺たちはいつまでも子供のままで、誰からも縛られずにいたいな、なんて語りあったことがあった。俺はもう縛られる側になりつつあるけど、哲夫は相変わらずだよな。なんてさ。




Copyright © 2009 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編