第85期 #16

不惑

 中学のときの立志式は校長の話が長かっただけで、何かをしたいと思うことはなかった。三十路の節目は失業中で、親の情けで食いつないでいた。そして今日、私は四十歳の誕生日を迎えた。
 今まだ私は何をなすべきか、何ができるか、わかっていない。その証拠に、今なお天職と言えるものはおろか、定職と言えるほどに続けられている仕事すらない。住所も転々とし、人付き合いももはやその構築にすら倦んでいた。今日この日を祝ってくれる人など、いるはずもなかった。奮発して買ったホールケーキも、切り分ける必要はない。皿さえも出さず紙箱を開いてそのままテーブルの上に置いて、私はフォークだけを用意した。
 今が良いとは思わない。だから私は何かを探し続けて、転職を繰り返しているのだと思う。しかしだからこそ、私は常に周囲に馴染んでいなくていつも疎外感を持っているのだと、思い直す。過去に過ちがあるのではないかという疑問が、思い浮かぶ。紅茶のティーバッグを入れたカップにお湯を注ぎながら、私は記憶を洗ってみた。
 私は、そのすべてを明瞭に思い返せないほどにたくさんの選択をしてきた。しかし、思い返した中に、違う選択をすれば良かったと思えるものはなかった。それはしかし、どのひとつを取っても、強固な意志によってその選択をしたからといったことではなかった。だから違う選択をした場合の成功が、まったく思い描けない。気づいたときには少々冷めてしまった紅茶に溶け切らないミルクのまだら模様のように、描くことができない。私は仕方なく少しだけカップにお湯を足した。
 結局、今と同じだった。ずっと迷っていて、悩んでいて、何もなしえずにいた。何も身に付かず、何も持てず、それが今に続いている。しかし時間だけは確かに過ぎていて、つまり私はずっと今に抗しようとあがき続けていた。思っていたことも、今と同じに違いない。
 だから、私は無駄なことをしていると遠い過去から知っていたと思う。知っていても改めなかったことに、私の過ちがあったのだ。
 四十歳になった今日、気がついた。惑うことが、無意味であることに。もう惑うことなく今を過ごし、いつか私がなすべきことが、できることがわかる日を待とう。「四十にして惑わず」、私は生まれて初めて論語の教えるところを実践できそうだ。だがしかし、目の前のケーキと紅茶は論語にはあまりにも不釣合いで、私は自嘲気味に笑わざるをえなかった。



Copyright © 2009 黒田皐月 / 編集: 短編