第84期 #11
電車。俺の向かいの席で知的障害者が笑っている。
実に微笑ましい事だ。
彼は時に爆発的に笑い、その度に周りの客は顔をしかめるが、俺はそれをとても可愛らしく思う。
障害者を屈託なく受け入れる俺。
彼と目が合わないよう、執拗に吊り革を眺めたり、不自然に首をねじってわざわざ遠い窓から景色を眺めたりしている客達に比して、豊かな心を持った俺は、彼と目が合えば優しく微笑み返す。
幅広い価値観。
全く、こんな俺をクラスの女どもに見せてやりたいものだ。
まあ、スポーツの技能と不良っぽさぐらいでしか男を計れない、そんな女達が俺の魅力に気付くにはもう少し年齢を重ねないと…。
などと考えていると、いつの間に近づいてきたのか、知的障害者が俺の席の前に立っていた。
立っているのはいいのだが、こういう奴らには他人に対する心の距離感というものが無いのか、この男は、自分と俺の爪先が当たるぐらいまで接近してきている。
おっと、「こういう奴ら」と言ったのは、敢えてフランクな言葉を使うことによって彼らとの壁を…
「本能寺で待ってる!」
あまりの大声に、俺を含め、障害者周囲二メートルの人間が一瞬痙攣した。
声の主は当然、俺の前で笑っている知的障害者の彼で、その目は完全に俺を見据えていた。
え、なにこれどうすりゃいいの?
周りの客達も俺をチラチラと見ているが、それは同情の目、好奇の目、そしてなぜか蔑むような目と、俺にとって何の得にもならない目ばかりだった。
冷房の風が冷や汗をさらに冷やす。
とりあえず微笑みかけてみたが、彼はますます嬉しくなったのか
「本能寺でずっとずっとずっとずっと待ってる!」
とさらに大声で連呼し、ついには飛び跳ね始めた。
まずい。
やっぱ俺こういう人ムリだ。
接し方分かんない。
ていうか何、本能寺って。京都の?訳わかんね。なんかもう泣きそう
その時だった。
「ちょっと、あんたやめなさいよ」
女の声だ。
思わず俺が謝りそうになったが、その言葉は障害者の男に向けて発せられたものだったらしい。
女は、男の目をまっすぐ見ていた。
そして、男がしょんぼりしながら「ごめんなさい」と言うのを見た女は、普通の顔で俺に会釈し、右手の作成途中のメール画面に視線を戻した。
車内に安堵の空気が満ちた。
女は、俺と同じクラスの女子だった。
あの会釈。たぶん俺は、彼女にまだ顔すら覚えられていないのだろうな。