第84期 #10
煙草の煙が儚く弱い龍を描いていた。
男は椅子に座り、背凭れに上半身の体重を乗せ、ギターを右手で抱え、
おぼろげと宙に舞う白い獣を見上げていた。
外は、男の心の様に禍々しく黒い闇に、涙とも血とも見える様な雨が絶えること無く降っていた。
男の部屋のすぐ横にあるベランダの床は少しずつ濡れている幅を広げ、
徐々に床の白さを漆黒の世界へと創り上げていた。
男はずっと前から降っていた雨の音に気付き、外をゆっくりと見た。
その目は焦点があっておらず、目の前の状況を見ず、
遠い何処かを見ているようだった。
左手に持っていた煙草の灰の塊がぽとりと落ち、フローリングの床に落ち、
落ちた衝撃で肺の塊は男の心の様に散り散りになった。
男は煙草の灰が落ちた事に気付かず、少ししてから手に持っていた煙草を灰皿においた。
その後、呼吸する時の身体の揺れと心臓の動き以外の動きは全く無かった。
暫くその状態が続き、その間、外の雨は強弱が変わるも止む気配は一切無かった。
空はアスファルトに似た重苦しく冷たい雲が覆っており、
世界はコンクリートの箱の中の様に無機質で暗いものとなっていた。
男は深く息を吐き、上体を起こし、ギターを弾き始めた。
奏でる音は不快でも心地良くもなく、ただその音が在る、そんな音だった。
誰の心にも届かず、弾いているその男の心にさえも届かぬ、
何も生み出さない音がそこにあった。
男はギターを弾くのを止めた。
ギターを椅子の横にあるギタースタンドに立てて、目を閉じた。
そのまま、男は何かを考えていた。
結論が出たのかは分からないが、男は目を開き、椅子からゆっくりとゆっくりと立ち上がった。
その姿は生きている人間とは思えない程に生気が無く無気力な立ち上がり方だった。
男はそのまま歩を進め、家を出て、雨の中、傘をささずに何処かへ消えた。
その際、男は先程落とした煙草の灰を全く気付かずに踏み付けて去った。
男はいつ、煙草の灰を踏んだ事に気付くだろう。
多分、気付く事は無いだろう。
雨が靴の中に入り込み、洗い流してしまうから。