第83期 #6
自動改札を擦り抜けるときや、エスカレーターに乗ったとき、大切な何かを忘れているんじゃないかなと、ふと気になってしまうことがある。
僕はそんな感じが嫌いではない。
なにか、懐かしい気持ちがする。過去に後ろ髪をひかれる感じ。
感傷的なとは思いたくないけれども、もう二度と戻ることのない過去に想いを馳せているのかもしれないのだから、充分センチメンタルなのかもしれない。
久しぶりに映画を観たせいか、眼がとても疲れた。
僕が椅子の背をたおして目を閉じていると、すぐ傍でTVを観ていたはずのケイの安らかな寝息が聞こえてきた。
彼女の掌には、未だに傷の名残がある。自分で石を掌に擦りつけたのだ。
自傷癖があるわけではなかったけれども、もうどこにも逃げ場がなくて咄嗟に傷つけてしまったのだと思う。
あのときケイは、深夜にぼくの部屋から飛び出した。歩いて家に帰ると言い張って、譲らなかった。
むろん、そんなことできるはずもない。目黒から神奈川まで歩くなんて。
やっとなだめすかして連れ戻したけれど、どうしても部屋のなかに入ろうとしなかった。
ドアを開けたまま、ぼくは横になった。
「勝手にしろ!」
あれから、いっしょに暮らすようになった。最後にふたりで銭湯にいったのは、いつだったか。
あのアパートは、まだあるだろうか。
若いって素晴らしいことだけれども、怖いことかもしれない。
映画のあと入った喫茶店で、ケイがいった言葉を思い出した。
「時々ね、自分の心の中の物を小箱に入れて、海に捨てられたらどんなにいいかと思うの」
ぼくはそれには答えずに
「ふたりで齢を重ねてゆくってことは、素晴らしいことだよね」といった。
彼女は何も言わずに遠くを見るような目をした。
ぼくは、そんなケイのなにも映じてはいない、その眸を盗み見ながら思った。
大粒の涙を流すキミをもう二度と見たくない。
これまでに幾度となく、僕はそれを経験してきた。
実は、キミのこと世界中でいちばん嫌いだったかもしれない。
でも、ぼくも少しは大人になったよ。
キミのいいところ、いやなところ、すべてを受け入れるよ。
もうぼくは、自分のことを考えない。
考えだすと、苦しみはじめるだけだから。
だから……。
僕がキミの小箱をゆずり受けるよ。
キミを救うためならば、一緒に地獄にだって堕ちるさ。
キミを護るために生まれてきたんだから。