第82期 #5
「なに考えてるの?」
役所に婚姻届けを提出し終えて、近所の喫茶でコーヒーカップを片手に呆けているぼくに麻衣が話しかける。
なんでもない。そう答えたところで自分が自分に納得するわけでもないし、何も考えていないわけではない。それは彼女もぼくの表情から読み取っているのであろう。
結婚は諦めだ、と昔知り合いがよく口ずさんでいたものだが、ぼくは決して彼女と家族になったことを後悔したり、人生の諦めだとは微塵も思っていないつもりだ。
役所に書類を提出するまでの瞬間まではこれからの幸せを想像するくらいの高揚感を覚えていた。余韻、余裕、安心感ともいえる気持ちだ。
しかし、今のこの気持ちはなんなのだろうか。
何かを置き去りにしたような微弱な喪失感。
頭の片隅にあるなにかの記憶。
彼女の顔をみつめて幸せに浸れない自分がもどかしい。
窓ガラスにうつる自分が婚姻届を提出する前の自分にみえ、ぼくをみて同情するような目をしたり、「これから幸せになれよ」と見送る目、見下す目、いろんな意味に見とれる目をしている。
…ダメだな。――ため息ひとつ。
いつまでも引きずっていてはダメだとあれだけ自分に言い聞かせたのに。自分でも気づかぬうちに本能的にモトカノのことを思い出していた。
窓ガラスに映る自分に微笑みつつ思う。
悪いな。あのときのお前は確かに人生を謳歌し青春してはバカをやり未来のことなど何も考えずに彼女と幸せに暮らしていただろうが、今のおれにとってはこれからの幸せのほうが大切なんだ。
手元にあったおしぼりで窓を拭く。
「おーい。無視ですかぁ? なに考えてたの?」
「なんでもない。なんでもないんだよ、亜衣」