第82期 #36

花火の夜

 小説や映画では簡単に人が出会ったり事件が起こるのに、僕の生活はうまくいかない。今日は隣町で大きな花火大会があるというのに、僕は夕方から夜明けちかくまで働かなければいけない。

 勤務者用の緑色のバスが1分も遅れることも早まることもなくちょうどの時間にやってきて乗り込む。すでに何人もシートに座っている。みんな目の色が青黒い。きっと僕も同じような表情をしているんだろう。浴衣姿の女の子や路上で踊っているダンサーたちの喧騒を、走るバスの中から振り向きながら眺め、やがて残像すら消え去って、車窓は映画のように夕暮れの鉄塔を映し出す。あれが僕の工場だ。

(こんなことなら写真館を継ぐべきだった)

 僕は今もクヨクヨしている。田舎ではほそぼそと写真屋をやっていた。これからは映画だよ! と反発して都へとびだしたのだった。

 作業服に着替え、機械を操作しながらビスケットの包装を始める。今月から館内BGMが野鳥の鳴き声から、なぜかマイケル・ジャクソンに変ったので、僕は疲れると、ここがマイケルの音楽の中だったらいいのにな、と夢想する。

 僕はマイケル船長とともに大王イカと闘っていて、その様子がカメラを通して全世界に放映されているのだ。

 どこかの幸せな恋人たちがビスケットをかじりながら「この映画、タコね! あ、イカね!」なんて野次をとばしていて、僕はマイケルのサイドシートで狼のマスクをかぶっているのだ。できることなら、隣にマリリン・モンローがいてほしい。

「あたしモンロー嫌いよ!」

 再び幸せな恋人たちが野次をとばして、僕はしっかりその声を聞きとっている。そして、その悪意のない幸せな野次にうっとりと聞きほれながら、大王イカをフライパンで炙り、とびっきりのウイスキーでマイケルと乾杯するのだ。夜明けがやってきて、僕は緑色のバスの、ラッキーシートに乗り込む。

……今日は仕事の間、いつもよりマイケルワールドが頭の中で広がっていって、結局仕事が終るまでずっと僕はあっちにいたのだった。もちろん僕の乗り込むバスにラッキーシートなんかない。ミニスカートのマリリンもいない。僕はやっぱり小説や映画のように、誰かと出会ったり、事件に巻き込まれずに一日を過ごした。

 きっと町は花火客の賑わいの残り香を漂わせているだろう。でも、今日はなんだかいい気分なんだ。僕は腹が減ったので、今からちょいと市場へいってイカを買ってこようと思ってるのさ。



Copyright © 2009 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編