第82期 #28

雪山の夢

 此処三日と鳴っていないケータイ。社会に居る皆は、僕とは関係の無い所で、自分の仕事に励み、連絡の無いまま、五日が過ぎて、来ないメッセージを確認して、僕は六月の畳の上で横になり、まどろむ。そして夢を見た――。
 カメラ片手に、青暗い中、ぼんやりと雪面の波状が浮かび上がる、月明かりに照らされた雪山を、風も無い中、勾配の急な斜面を、登って、登って、此処まで来ればと、一本の樹氷の前で、腰深く雪に埋もれた体を翻し、臨むは黒く透き通った空気を、紺色に染める淡い星空と、向こう山下、地表の皴に囲まれて、小さく集まった、町の光。綺麗だ、此れを写真に撮ろう、巧く撮れるだろうかと眺めていると、町の光が、幾重もの筋になって、僕に向かって飛んで来た。幾筋も幾筋も、飛んで来ては目の前で、弓状に跳ね上がり、遠い星空へ帰って逝くのを、僕は唯々見送った。目の前を過ぎ去って行く物に、どうシャッターを切ればいいのか、判らない。シャッターに掛けた僕の指は、背筋から連なって、そのまま固まっていた。
 僕が登ってきた、雪山の、下の方から、声が聞こえて来る。「まさー、まさー」と、僕の名を呼ぶ、母親の声で、僕は、あぁなんでこんな雪深い所まで、僕を追い掛けて、あなたも来てしまったか、僕なら一人、降りて帰れる、僕を探しに来て、現に今、道の逸れた雪の中に、入ろうとしてしまっているのは、あなたではないかと、僕は心細くなる。僕は帰れるよ、でもあなたは、雪山に登った息子を、連れ戻そうと、其れしか頭に無くて、このままでは、僕を探しに来たあなたが、遭難してしまう、深い雪にはまって、死んでしまう。そう思うと、居ても立っても居られず、僕まで酷く寂しく、心許無くなって、耐えられず口から「おーい、おーい」と、喉のはち切れんばかりに、声を振り絞ろうとするも、どうにも喉と声が噛み合わず、出てくるしゃがれた声は、目の前に広がる世界に響こうとしない。母の居る世界の向こうまで、届こうとしない。目の前一杯の空気に、受け入れられない声に、勘寒く、もう一度、腹一杯、喉を強く開き切って、「おーい」と声が出たと思えば、其処に不釣合いな大きな声が、部屋の壁に酷く当たり、声が出たと同時に目を覚まし、そして僕はまだ手元に残って居た物を思い出した。



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