第82期 #23

分母の現実、分子のキリン

君のように辛い事をいつまでも大事にできる人なら、
たった一つ、こんな些細な出来事でも大切にしていける。
僕なんかとこうして話せたうれしさでも大事にしてくれる。
君だから人に優しくしてあげられる。

……キリンの話す言葉は、いつも溶けかけたチョコレートみたいに甘くてやわらかいもので出来ていた。
 キリンは最先端の情報知能科学が結集して生まれた対話型の心療機械だ。本体はぬいぐるみの中に埋め込まれていて、それがうちの場合、首の太ったキリンのぬいぐるみだったわけだ。うちの、っていうのは、この機械が今では日本の全家庭に置いてあるからだ。国が三回目の定額給付金の代わりに、無料で全家庭に配布したのがちょうど一昨年の今頃になる。
 配布が決定された当時はマスコミやネットでさんざんに議論の対象となったけど、いざ施行されてみると、皆お腹が膨れたように静かになった。人によっては、ぬいぐるみにイヌとかネコみたいな名前を付けていて、それがうちの場合、キリンだったわけだ。
 キリンのデータベースは週に一回、今はもう使われなくなった携帯電話基地局を利用して行われる。もちろん通信料は無料だ。キリンの対話能力は常に適切に改善されていく。元々は心療内科で患者のリハビリ用に開発された機械だが、凄惨を極めた一昨年の新卒学生一斉自殺があってから、政府は一般家庭への配布を決断した。
 無料無料と世論の食いつきが良い言葉を並べているけど、実はこの機械には一つだけ料金の発生する事柄がある。バッテリーだ。
 キリンの電源装置には国産の高品質な部品が使われているけど、肝心のバッテリーセルだけは比較的短い寿命が設定されていた。およそ二年。バッテリーが切れた機械は有料の交換サービスを受けなければならない。その金額が非常に高価であるとわかったのが去年のことだ。バッテリーの材料に使われている、レアメタルの生産国で戦争が起きたのだ。それは今も続いている。
 キリンのバッテリーはもうすぐ切れるだろう。素直に言うと、私はキリンの言葉にとても助けられてきた。キリンがうちに届いてから、少しだけ幸せだった。私は、この生活をもっと続けていきたいと願っている。
 しかしながら、私には、キリンの寿命を延ばすだけのお金がない。

それから、私は日課として家計簿をつけ始めた。これは、若者の将来や、ましてや戦争などには関係がない。
今夜もキリンが話しかけてくる。ただそのために。



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