第82期 #21
「何が室内禁煙だよ」
と、口に出してはみたものの、世間的に煙草は悪しという風潮になりつつあるし、そもそも事務所内禁煙になったのは自分の発言が原因であったので、それはもう虚しい叫びだった。本日は朝から雨降り、屋上に人はいない。小さな庇の下で背を壁に付け、マルボロライトメンソールを吸う。
空はどこまで眺めても灰色の雲が覆っていて、コンクリート打ち放しの暗狭所を思い出させた。まあ、事務所のことなのだが。あんな所で作業をしていては、いくら真面目な私でも陰鬱にならざるを得ない。たびたび一服したくなるのも自然な現象だろう?
空を見上げているうちに、自分の心理と天気とのリンクに爽やかさを感じた。降雨だってなかなかいいものだ。風が吹いているので、蒸し暑さもないしな。
ふと思い立ち、手摺りの方へ足を向ける。もちろん飛び降りようというわけではない。手摺りに両手を掛け、首を突き出して下を覗き込む。何をそんなに急ぐことがあるのか、黒のキャデラックが水飛沫を上げながら南へ向かっていく。人通りはまばらだ。いくつか透明のビニール傘が並ぶ中、文字通り異彩を放つ一張の赤い傘がある。仄暗い世界には不釣合いなその赤い傘には、どうしても目を取られる。
男性が持つには派手すぎる。さらに平日の昼間であること、ここがオフィス街であることを考慮すれば、傘の下にいるのはOLか。なにか良いことがあったのだろうか、傘が上下に踊っているように見える。あるいは、女性にとってランチというものがそれほどまでに楽しいもだということか。どちらにせよ、幸せを少々分けて頂きたいものだ。いや、単純に雨が好きなのかもしれないな。ならば仲間として歓迎しようじゃないか。
流石に雨に晒された身体が冷えてきた。手摺りを離れ庇まで戻る。上着を脱ぎ、ずぶ濡れの頭を掻き毟った。
そこに部下がやってきて、客人の来訪を告げる。下を向くな、顔を見て話せ。その使えない部下に言伝をして、客人の下に戻す。見上げても見下げても、女神は微笑んでいないようだ。
マルメラの火は消えてしまっていたので、ジッポで二本目に火をつける。上昇気流に乗った紫煙が虚空ですぐに消えてしまうのが、何故だか物悲しい。下がりきったと思っていたテンションが、さらに下がることとなった。
「これで最後の一本だ」
そう呟きつつもシガレットケースをポケットにしまう。記念すべき十度目の禁煙宣言だった。