第82期 #20
彼の名前は矢村守――二十六歳、独身。
時間は午後三時十五分
目の前に立ちはだかる大きな壁と対峙していた。
カラカラ……カララン。
「……今日最大のビッグウェーブを乗り越えたと思ったら早々に次なる試練とは――神様も根性悪いなぁ。」
と、会社の洋式トイレ便座に深々と腰をかけ腕を組みながら守は呟いた。
「まさかぁ――トイレットペーパーが十センチしか残ってなかったとは……。」
トイレットペーパーホルダーの「芯」だけになった元トイレットペーパーを見つめながら計算してみたが状況が「芯」だけでは打開出来ない事は明白であった
項垂れて一人呟く守の脳内に『声を殺して泣く/人生に抗う』という二択が現れては消えていった
念のためズボンのポケットを探ってみたが出てきたのは破けたコンビニレシートとガムが一枚……
脳内の選択肢が『人生をやり直す/人生に抗う』に変化したが目の前の現実には何の変化もなかった
「――これは、かなり特殊な方法を思いつかないと越えられない壁だな。」
性格のなせる業か無意識に『人生に抗う』を守は選択していた
「……いやいや、待てよ……約五分前に俺が個室トイレに入った時には十センチ残っていたわけだから……」
守の脳内に一人の偉人の顔が浮かび上がった
「――ありがとうございますアインシュタイン先生! 今こそ一般性相対理論を立証する時です!」
守は晴れ晴れとした笑顔で一人叫んだが脳内に浮かんだアインシュタインの顔のディテールがかなり曖昧だったのは言うまでもない……
「確か光速に近づくほど時間の流れが遅くなり――光速を超えてしまった場合は時間を戻る事ができるはず……と何かの本で読んだ覚えがあるぞ!」
出所が曖昧な知識であったが……今の守には一点突端な理論であるため迷いは一切無かった
そしてホルダーに掛かった「芯」の上に両手を軽くそえた
「つまり、この芯を光速以上の速度で回転させると時間が戻り――新品のトイレットペーパーが現れるわけだ!」
と、叫ぶと同時に両手を交互に動かし「芯」を回転させた
――回転、回転、また回転
少しずつだが回転速度が上がる
信じられない速度で両手が動いた
「芯」の回転速度は音速を超え――そして光速を超えて時間が逆行した
彼の名前は矢村守――二十六歳、独身。
時間は午後三時十五分
目の前に立ちはだかる大きな壁と対峙していた。