# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | さよならの夜 | 三毛猫 澪 | 1000 |
2 | タマネギ | アンデッド | 993 |
3 | 日記 | Loc | 1000 |
4 | 鳴るよズキンズキンと | 健太 | 1000 |
5 | 裏返し | リベルテゆき | 931 |
6 | 久遠なる闇 | 河内伝太郎 | 973 |
7 | クランベリージャムにコンドーム | 虎太郎 | 1000 |
8 | White is Colorful | takako | 987 |
9 | 翼 | 新田大輔 | 992 |
10 | ごちそうさま | ゆうき | 645 |
11 | 星に願いを | りん | 993 |
12 | 春 | やじるし | 1000 |
13 | 遺言 | 千恵蔵 | 770 |
14 | 恐怖 | のい | 750 |
15 | 意思→言葉→音→雑音 | 佐々原 海 | 764 |
16 | 目 | 1970 | 1000 |
17 | 告白 | 駒 | 1000 |
18 | 母の十字架 | 井上新雪 | 965 |
19 | 妖精 | てつげたmk2 | 867 |
20 | 1000^63こきんこかんしょてん | 影山影司 | 889 |
21 | 怒るよね | 何名 | 529 |
22 | 無神教の祭典 | えぬじぃ | 1000 |
23 | 双子 | 多崎籤 | 1000 |
24 | ある日、ヒトリー。 | コクトー珈琲 | 916 |
25 | 餃子屋 リー | 5or6 | 585 |
26 | 初恋は実らない | おひるねX | 992 |
27 | 僕にできること | ベル | 996 |
28 | 布団の黴 | K | 1000 |
29 | 彼女にはそれがない | 鼻 | 818 |
30 | ウッドストック | リバー | 993 |
31 | たったひとつのKiss | SANA | 770 |
32 | 中一 | わら | 1000 |
33 | 友 たち | 金武宗基 | 260 |
34 | 『脳を漬ける』 | 石川楡井 | 1000 |
35 | アカシック・レコードをめぐる物語 異界編 | 黒田皐月 | 1000 |
36 | 境界の言葉 | euReka | 997 |
37 | CP対称性の破れ | 笹帽子 | 1000 |
38 | ロマンティック・ミライ | 彼岸堂 | 957 |
39 | ある晴れた夕暮れに | 高橋唯 | 1000 |
40 | 三島スーツ | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
41 | 柿 | 群青 | 900 |
42 | 姉の首 | qbc | 1000 |
43 | 伝奇「雷轟万化蛙物語」 | クマの子 | 1000 |
44 | こどもが読んでも安心な、おとな向けの童話 | yasu | 969 |
45 | 北へ | 壱倉柊 | 939 |
46 | アイスクリーム | 篤間仁 | 1000 |
47 | チェリー | 山崎豊樹 | 1000 |
残照の翳りゆく部屋にひとり、ストーブの炎が赤くゆらめくのをじっと眺めていた。
じりじりと燃える炎に誘われ、くすみかけていた記憶が泡のように浮かびあがる。幼かったころ、暖かな羽に守られた空間は、とてもやすらかだった。しかし成長するにしたがい無遠慮な外界の手に曝され、柔らかな私の胸は血の赤で滲んでいった。
そんな私の前に現れたあなたは、たったひとつの優しさであり最後の居場所だった。だから未だにそこから離れられず悩まされている。あれから幾年も経つというのに。
こんな静かな夜は、ひとりで泣くにはあまりに寂しすぎて左胸の下あたりが「痛いよ」と、涙をながす。あともうどのくらいこうしていなければいけないの。
新しい恋人ができれば忘れられるかと、他の誰かとつきあったりもした。枯葉が舞う並木道を寄り添い歩いても、腕の中につつまれ愛を囁かれても、思い出すのはあなたのことばかり。もしも隣にいるのがあなただったらと、つい考えてしまった。ううん、比べるのではなくて呼ばれているのだと思う。あの低い声で。語尾を上げる独特の抑揚で私の名前を呼ぶあなた。ふと気配を感じ振り返ってみる。けれど、そこには誰もいなくて。ただ、風が過ぎ去ってゆくだけ。わかっているのに酷く落胆してしまう。
忘れようとすればするほど、輝いていたあのころの記憶は鮮やかに甦り、私を苦しめる。ほんと意地悪なひと。
私の気持ちは、あなたが悲しい言葉を口にしたあの日のまま、いまも閉ざされ歩きだせないでいる。凍りついた時計の針に貫かれ、あなたの面影から抜けだせない。
なんて勝手な人なの。私のことなんてとっくに放り出して、ちゃっかり新しい彼女と暮らしているというのに。それなのに、あなたは私のなかに住み着いたまま、ちっとも別れようとしてくれない。どうすればさよならしてくれるの。
ストーブの炎が赤から青白い色にかわり、ユラユラと揺らぎはじめた。汗が滲むほど暑いのに、体は際限なく凍え、瞬きさえ億劫になる。もう疲れたよ。
胸の奥に澱んだ思考は、この部屋の底に沈む一酸化炭素の波長に寄り添い、曖昧な色になってとけはじめ。
あなたがいけないの。あなたが別れてくれないから。だから、それなら……いっそ私から。
さようなら。大好きだったあなた。これでもう二度とあなたに悩まされることはない。
きれいさっぱり。そう、きれいさっぱり、なにもかも無かったことにするの。
先ず見えたのは白だった。白に線状の筋が通っている。それは高い天井だった。よく見れば丸みもある。
ドーム状の天井か? ここはどこだ?
私は視界を360度動かす。周り一面緑がある。
畑か? なぜ私はここに?
解らなかった。それだけではない。身体がピクリとも動かなかった。
一体何がどうなっているのか。いや、冷静になって考えよう。
ここは多分ドーム内の空間。結構な広さもある。周りの様子を見るに、プラント施設だろうか。屋内で人工的に植物を培養・繁殖させる区域。
なぜ私がそんな場所にいるのか。そして動けないのか。解らない。もっと考える必要がある。
――そもそも、私は誰だ? 何者だ?
考えた結果、やはり解らない。何かがすっぽり抜け落ちていた。
その時、低い駆動音と共に白の天井が動き始める。上下が口のようにスムーズに開かれると、そこには黒い空があった。
星が瞬く夜空かと思ったが、違う。青く美しい惑星が見える。これは多分宇宙空間。だとしたらここは宇宙船か何か。
『気がツいタか』
デジタル音が混じった声が頭の中に響く。
見ると奇妙な生物が立っていた。白い肌の子供みたいな風貌で、腹と頭部が異常に肥大している。口はなく、目が大きい。
後頭部の半分は機械で中の空洞が見えていた。
『収穫ノ時』
彼はそう言うと私を掴んだ。
『地球で育ッたソの中ノ一部だケが適応スる』
彼が私を引っこ抜く。そして私の皮を剥き始めた。
――そもそも動けない私がなぜ周囲を見渡せたのか。目さえ動いた感覚もない。大体私に目など付いているのか?
機械仕掛けの後頭部がぱっくり開く。彼は自分の空洞に私を押し込んだ。
私の脳が頭の中に収納されて後頭部が閉じた頃、私は明確な自己を取り戻していた。記憶も鮮明となり全てを把握した。
私は自分が根を張っていた仮初めの地を見下ろす。そこにはモニターと一体型のアイセンサーが設置されている。接続されていたセンサーが今まで私の目の代わりになっていた。
――自分の脳を地球上で育み、選別してプラントに移した後、刈り取る――。
私達は太古の昔からそれを繰り返してきた。私達の脳は地球の環境でしか成長出来なかったから。
その過程で、私達の幼精脳は地球人類の食用にもなってしまった。悲しいことだ。
私は自分の脳を育んだ青き故郷を眺めた。
遠ざかる美しい母に別れを告げる。
私の目から一滴だけ涙が零れた。
とある小学校のクラスでは、宿題として毎日の日記が決められていた。前日のうちに書かれた日記を提出し、それを毎日教諭がチェックする。
ある日、教諭は一人の女子生徒の日記がおかしいことに気づく。はじめはふざけているのかと思っていた教諭だったが、数日のうちにおかしさの理由に気づいた。その女子生徒の日記には次の日、即ち教諭が日記をチェックするその日の出来事が書かれていた。女子生徒の日記は一日ずれていたのだ。
教諭は驚くと同時に、これを金儲けに利用できないかと考えた。
株、為替、競馬
しかしそのどれもが小学生が日記に書くようなことではないし、それを書くようしむけることもできそうになかった。教諭があれこれ考えを巡らす間にも、女子生徒の日記には翌日のテレビ番組のたわいない感想や、翌日の友達との会話が書かれていく。そんな金にもならない未来の日記に、教諭は歯がゆい思いをしながら目を通していた。そして悩みに悩んだ末に、教諭は「宝くじ」という結論を得た。それは自分で好きな番号を選び、発売〆切の翌日に当選番号を発表する類のものである。これなら数字を書くだけでいいし、しむけるのも簡単そうだと踏んだ。
しかし大金を得るためには、宝くじの発売が終わる前に――つまり日記を書くその日に、女子生徒の日記を読まなければならない。教諭はまず、女子生徒に宝くじの話題をして興味を持たせた。はじめはうまくいかずに苛立ちをつのらせたが、数週間つづけた結果、女子生徒は日記に宝くじの当選番号を書いてきた。それは確かに当選番号だった。
そして教諭は行動に移した。宝くじ〆切日のホームルームを使って、生徒たちにその日の宿題をするように告げた。そのまま女子生徒の日記をみて、当選番号を知ろうとしたのだ。生徒たちは次々と日記を書きはじめる。が、女子生徒だけは日記を書かなかった。冷静さを装いながら教諭は促すが、女子生徒は「書けない」「どうして書けないのかわからない」と言うばかりで、一向に鉛筆を走らせない。早くしないと売り場が閉まってしまう。焦りから徐々に語気が強まっていく教諭に、ついに女子生徒は泣き出した。その泣き声で怒りは頂点に達する。
「どうして書かないんだ!」
教諭は怒鳴りあげると、鬼の形相で女子生徒の首に手をかけた。
女子生徒は「書かなかった」のではなく「書けなかった」ことに、元教諭は牢屋の中で気づくこととなる……。
ある日の夕暮れのこと。狼の俺様、それに双子のリスのどんどんとぐりぐりの三匹が腹減った腹減った言いながらブナの木に噛り付いていると「見てる方が辛いからやめろ」と熊のベア吉に叱られた。ベア吉は背中に鮭を乗っけている。
「だったら食い物よこせ」と俺様は吠えた。するとベア吉は俺様たちの目の前に、まだ濡れている鮭を放り投げた。俺様は鮭に飛びついて貪り始めた。どんどんが「なんでくれるの?」と愛らしい声でベア吉に訊ねる。
「鮭は飽きた」
「じゃあ何を食べるの?」
「今は人間だな。鮭や蜂の巣なんてダサいぜ」やめろ。
「人間ってどんな味?」今度はぐりぐりがベア吉に聞いた。聞くなよ。
「人間は文明の味がする」俺様は鮭を噴出しそうになる。
「文明の味ってどんな味?」ぐりぐりはよっぽど人間の味に興味があるらしい。
「一言で言えば、鉄の味だな」それは血の味だバカ。
「どんな人を食べたの?」どんどんが聞いた。
「今日は婆さんを食った。鉄と少し薬の味がした」確かにそうだった。
「おいしかった?」
「不味かった」確かに婆さんは不味かった。
「ごちそうさま」これ以上は耐えられない。さっさとここから離れよう。
「じゃあなリス共」
どんどんとぐりぐりはハモりながら「ばいばーい」と前足を振ってきた。俺様は尻尾を振ってそれに応える。日はすでに落ちていた。俺様は森の奥へと歩き出す。奥に行くほど闇は濃くなる。人間は文明の味がする。ベア吉の言葉が俺様の体で燻る。俺様は茶色い地面に口を擦り付けて顔を綺麗にする。口の中はまだ鮭臭い。そうだ河で口を洗ってこよう。ついでに風呂も済ませよう。すると森の中で何かが鳴いているのに俺様は気付く。俺様の腹じゃない、さっき鮭喰ったし。それに雷でも鳥でもない。いや、やはり鳴いているのは俺様の腹だ。しかし鳴いているのは腹の外側だ。腹にくっきり残っているこの一筋の古傷が鳴いているのだ。あのバカ熊、思い出しちまったじゃねえか。気がつくと俺様は駆け出していた。水へ河へと走り出していた。河に着くなり俺様は固そうな水面に首突っ込んで、口の中をぶくぶくぶくさせた。さっさと失せろ鮭の味、今はそういう気分じゃないんだ。腹の古傷はまだ鳴る、ズキンズキンと鳴く。俺様はそれをかき消そうと、またぶくぶくする。ズキンズキンうるせぇよ。今更鳴くな。
文明の味。真っ赤なあの娘を食ったときは、そんな味はしなかったけどな。
雲ひとつない真っ青な晴天・・すれ違う人々は皆さわやかな軽装と笑顔だ。五月ゴールデンウィーク北海道では今年の最高気温を記録した。それなのに私達は折りたたみでもなく、大人使用の大きくて長い傘を二本も持ち、しっかりと大雨準備オッケーの格好で旅先の動物園行きの無料バスへ乗り込んだ。天気予報は旅先のホテル内テレビニュースで何回も何回も確認したはずなのに・・ん?!旅先?!またやってしまった!!何回も確認したのは自分の住んでいる町の天気予報だった・・ウキウキがまたいつもどうりどんよりに変わる。さあ!いつもの一日が始まるんだ!ここからすべてがリンクする。動物園に着いた。早速歩き始めるが大きな二本の傘と雨具の入ったずっしりとしたバッグが歩きを鈍らせる。せっかく喜ばせようと連れてきた小さな娘も周りの装いと真逆な自分たちにさすがに気付き最高の不安顔・・動物どころの気分じゃない。もたもたしていると後ろからツアーで来たらしい観光客のご夫婦が「すみません、カメラお願いしてよろしいですか?」と・・勿論笑顔で引き受けシャッターを押そうとしたその瞬間!!ガシャーーン!!!カメラを落としてしまった!手が滑った・・カメラはうんともすんとも動かなくなってしまった。壊れた。平謝りに謝り弁償しますと言う私。そしてそのご夫婦は「いえいえ、大丈夫ですよ!私たちも無理にお願いしたんですし、お気になさらないでくださいね!!」でも申し訳ない気持ちで一杯な私もどうして良いか分からず・・そうこうしているうちにツアーの時間がありますのでとそのご夫婦は沢山の人ごみの中足早に去っていってしまった。ごめんなさい。ご夫婦に対しても隣にいる娘にも・・・娘は今の目の前で起きた事実にとうとう泣いてしまった。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 自分は今目の前に居る人物に対して 笑顔になってもらう
努力を絶やさず努めているつもりだ。一緒に過ごす仲間や家族さまざまな場合でもいつもいつも心がけている。・・・それが空回り 裏返し 失敗の連続・・・情けない。自分自身にもがく毎日。せめて娘だけはそう・・私のようになって欲しくないなと願うばかりだが DNAは恐ろしい・・それでも明日も明後日も笑顔だけで生きてゆく。
君は、ゆっくりと目を開いた。意識がまだ確立されておらず、再び目を閉じ、さらに また開ける。その繰り返しを数回行ってから、何とか体を起き上がらせた。日はまだ昇っていないようだが、時間の問題だ。既に空は白みがかかっている。
大きな深呼吸をしてから、まだ涼しい外に出る。
肌寒く感じさせる風が荒野をかけ巡っている。君は一瞬だけ体を固くしたものの、すぐに解いて目的地に向かう。淵について下をのぞき見る。深い穴の下に水が小さな輝きをたたえている。君は小さく頷いて、それから下へと続く階段を下りて行った。
水は冷えていた。しかし決して攻撃的なものではなく、柔らかく、むしろ心地良い程度だ。君が手ですくいあげる度に、大きな波紋が残る。泥が混じって水の色が悪くなるころ、君は階段を登った。
太陽が姿を現す。暑い日差しが今日も荒野を焼く。しばらくするとさっきまでの風もただの熱風と変わる。君はため息を一つ吐く。それから小屋の中に戻った。
気づいた時、既に君はいなかった。どこに行ってしまったのかと辺りを見回してみたが、どこにもいる気がしない。とりあえず探すのはあきらめる。
いつの間にか空は晴れ渡っていた。さっきまで降っていた雨は、小さな水たまりを残して消え去ったようだ。風が水の上を優しく撫でている。
「うーん」
大きな伸びを一つ。そして立ち上がる。窓から見える空は橙色に染まり、太陽がもう沈もうとしていることを知らせてくれる。気温はもう下がる一方だ。明日また日が昇るまで暖かくはならない。
だが私は、この肌寒さが嫌いではない。むしろ好きな方だ。夏のジメジメした空気と違って、さらさらで澄み切っている。着々と冬へ向けて地球は準備を始めているのだ。
――また、冬が来る。君と初めてあったのは冬だった。窓の向こうに見える橙色は薄くなり、夜の到来を告げる。
私は永久の安らぎを求めている。そう、私は探求者。約束の楽園を求めて独り彷徨う哀れな旅人。
彼方の地は、気の遠くなるほど遠くそれと同時に手を伸ばせば容易に手の届くほど近い。時には、水中を。時には、燃え盛る業火のなかを。時には、蒼く澄み渡ったあの大空を。
私は求め彷徨った。そして、ついに私は辿り着いた。美しい真赤な大海に浮かび私は瞼を閉じた。それと同時に久遠なる闇が私を優しく包み込んだ。
クランベリージャムを作っていた農家の青年とヘルパーロボットは、世界恐慌による売り上げ不振に悩んでいた。
どうしたらクランベリージャムを大ブレイクさせて、あたらしい洗濯機と養老の滝のジオラマが買えるのだろうか。
そんなある日、ネットでコンドームにアイスクリームを詰めて投げつけあうという奇祭の風景を目の当たりにし、アイスクリームの変わりにクランベリージャムの方が高級感があって満足度が高くなるのではと考え企業に売り込むことにした。
カジュアルに奇祭を楽しめる、名付けて「カジュアル奇祭」の第一歩としてプレゼンの資料を準備しコンドームメーカーに乗り込んだ青年の見たモノは、コンドームに肉じゃがを詰め込むという新たなマニュフェスト製作中の家内制手工業現場であった。そして出迎えた社長はいう。
「クランベリージャムの酸っぱさは、コンドームにはあわない」
絶望する青年。だが、そこに突っ込んできた飛行機から降りてきたパイロットが死ぬ直前にクランベリージャムを欲しがったため、全国にクランベリージャムブームが起きる。メーカーもそれに乗りクランベリージャム入りのコンドームを売り爆発的なヒットを記録するが、同時に肉じゃがを推進する政党から嫌がらせの無言電話がかかるようになった。でもクランベリージャムが大ヒットし、「カジュアル奇祭」が国民の定番行事となったことにより、誰も困るものはいなかった。
「やりましたね博士」
「ふっふっふ、よもやアレがゴムだとは誰も気づくまい」
ディスプレイには子供達が無邪気にヘリウムを入れぷくぷくに膨らましたコンドームを片手に、仲良く遊んでいる姿がまざまざと映し出されている。そう、ちょっと小さめのバルーンアート用風船などという偽りの謳い文句を付けて街中で可愛い着ぐるみ人形に配布させているコンドームを手にしながら。
「彼らは全く気づきませんね博士」
「当然だよ、色々と危ない薬剤使って誘発剤作用とか効てるから」
そんな他愛のないやりとのさなかも子供達は天真爛漫な笑みを顔いっぱいにくしゃくしゃになるほど浮かべて遊び回っている。保護者である親は近くで見守っているものの特に何のアクションもない。
「僕達はついにここまで来てしまったんですね……」研究員が博士に問いかける。
「ああ…」思わせぶりな何かを匂わせながら博士は一旦言葉と動作を切った。
……ん?
タイトルがおかしくないか?
押し入れの中を掃除していると、不思議なものを見つけた。クレヨンだ。どこにでも売っている12色入りのクレヨン。もう随分と古いものらしく、箱はすっかりくすんでしまっている。
しかしこのクレヨン、箱を開けると白いクレヨンしか入っていないのだ。整然と並んだ12本の「白」は、いずれもほとんど使われた形跡がない。そしてその一つ一つには名前が書かれていた。
えりこ、ゆか、よしみ……
その中には私の名前もあった。私はすぐに思い出した。この不思議なクレヨンが生まれたいきさつを。
20年前、私は絵を描くのが好きな幼稚園児だった。カラフルなクレヨンを使って、白い画用紙に次々と命を吹き込んで行く。私のクレヨンはみるみるうちに短くなっていった。しかし、白いクレヨンだけはほとんど使うことがなかった。紙はもともと白いのだから、白いクレヨンをこすりつけても何も変わらない。他のクレヨンが持つことさえ困難になるほど小さく擦り減ってしまっても、白だけは相変わらず新品同様だった。
そして他の園児達のクレヨンも同様に、白だけはなかなか長さが変わらなかった。私はいつも不思議に思っていた。どうしてこんな意味の無い色がクレヨンの中にあるのだろうか? もしかしたら何か凄い使い道があるんじゃないだろうか? 結局その答えは出ないまま、私は卒園を間近に迎えた。豆粒ほどの小ささになったクレヨンを見た先生は何のためらいもなくそれらを捨てようとしたが、私は白を捨てることだけを拒んだ。「もしかしたら白いクレヨンもいつか役に立つ日が来るかも知れない。一度も使わずに捨ててしまうのは勿体無い」そう主張したのだ。
こうして私は他の園児のものも含め、ほとんど使われなかった白を保管することになった。誰のものか見分けがつくように一つ一つに名前を書き、私のクレヨン箱に収めたのだ。
この日の夜、私は懐かしさから久しぶりに幼稚園の卒園記念アルバムを引っ張り出してみた。クレヨンに書かれた一人一人の顔を写真で確認していく。忘れかけていた思い出が甦る。
えりこはいつも泣いていた。ゆかは誰よりもオシャレだった。よしみは本を読むのが得意だった。私は絵を描くのが好きだった。
あれから20年の月日が経ったが、相変わらず白いクレヨンが何の役に立つかはわからないままだ。でも、白いクレヨンは私の色褪せた記憶を鮮やかに塗り直した。
あの人は誰だろう?
なぜあの人はあんなに楽しそうにしているのだろう?
俺は毎日がつまらないのに、なぜあの人はあんなに笑っているのだろう?
俺は何も感じないのに、なぜあの人はあんなに輝いてるのだろう?
俺もあの人のようになりたい。でもなれない気がする。あの人は選ばれた人。俺は違う。
運命は変えられない。
運命には逆らえない。
運命は受け入れるしかない。
輝く彼女は俺に近づいてこう言う。
「なぜ君はそんなに頑張るの?」
いや俺は頑張ってなんかいない。頑張る気になんてならない。頑張っても自分は変えられない気がするから……。
輝く彼女はこう言う。
「君は君でいいじゃない。君は十分頑張っているよ」
その時僕は彼女の心の中を見た。僕の心の中は小さく自分がいるだけで精一杯なのに、彼女の心の中は広く、まるできれいな草原のようだった。
君のようになるにはどうしたらいいの?
「私は別にいつも自然体でいるだけよ」
嘘だ!
何か方法があるはずだ。それが何なのか教えてくれ!!
「もっとちゃんと探して」
彼女はそう言い残して行った。輝く遠い世界へ。
俺は彼女を追いかけようとしたができなかった。追いかけようとも、追いかける翼がなかったから。翼を手に入れよう。もう一度会って話を聞こう。それから毎日どうすれば翼が手に入るのか考えた。
ちゃんと探して?
さっぱりわからない。
理解に苦しんでとうとう投げ出した。もうどうでもいい。俺なんかもうどうでもいいよ!
その時、そんな自分が嫌いな自分がいることに気づいた。まだあきらめたくない自分が自分の中にいた。お前がいるからいつも苦しいんだ。いつも抵抗してそんなに俺が苦しむのを見たいのか! もう一人の自分は何も言わない。ただじっとしているだけだった。どいつもこいつも、ちくしょう……馬鹿にしやがって……。
そして気がついた。俺って馬鹿だったんだ。これじゃ見つかるものも探し出せないな……。
変に納得がいった。その時本当の自分の心が開き、広がっていった。この感じ、あの子と同じ世界だった。翼がなくても、ここに辿り着けた。
希望の光が輝き、新しい道が開ける。そんな気がしたんだ。
なぜ君はそんなに楽しそうにしているの?
なぜ君はそんなに笑っているの?
なぜ君はそんなに輝いているの?
誰かがそう聞いてきた。俺は彼女に近づけたのかな?
男は夕食と朝食をまったく食べない。
それでは昼食にご馳走を食べるのかというと、そうでもない。コンビニで買ってきたおにぎりを一つ食べるだけなのだ。それもけっして美味しそうには食べない。
食べるという行為が嫌いなわけではない。むしろ、少し前までは大食家であったのだ。昼食しか食べられなくなったのは、あの夢を見るようになってからだった。
目の前に御馳走が並んでいる夢だ。大食家だった男は嬉しそうにその食事を平らげた。
「少し物足りないな……もっと食べたい」と思った。
次の日も夢を見た。
目の前に御馳走が並んでいる夢だ。
大食家だった男は嬉しそうにその食事も平らげた。
「これくらいが適量だな」と思った。
次の日も、また次の日も夢を見た。
目の前に御馳走が並んでいる夢だ。大食家だった男は嬉しそうにその食事を平らげていく。
「ちょっと多いな……」と思った。
ある朝は起きたあとに、朝食が喉を通らなかった。
それならば夢の中の御馳走を食べなければいいと思うだろう。
男もそれを試した。
ところが御馳走を完食しなければ夢から覚めることができなかったのだ。夢の中での食事の量は日に日に増えていく。毎日のように寝坊が続いた。そして男は夕食も食べないことにしたのだが……。
あの夢を見るようになってから三ヶ月。男はもう限界であった。
そして男はビルの最上階から飛び降りた。落ちていく途中で男は気絶してしまった。
気づいた時、目の前には終わりの見えないほどの御馳走が並んでいた。
日曜日の夜は恐怖だ。布団の上でやり残したことを探す。明日への、今週への漠然とした不安が、胃を押しつぶす。
頭を掻き毟りたくなるが、頭髪の残量が気になってやめた。つむじを触るたび母に、「禿げてない?」と、頭頂部を向けていた頃が懐かしい。
そうだ、明日の一講目は、確か出席を取らない。電車で大学まで一時間と三十分なので、普段は六時半に起きなければならないが、これなら八時までいける。明日の朝に対する絶望感が少し和らいだ。
ふと机の上のパソコンに目をやる。傍らにペンタブレットが備わっているが、技術が伴わなければ、正に宝の持ち腐れだった。一万四千円程もしたのに。パソコンのCドライブの奥には、見られると恥ずかしい、書きかけの物語が、エロ画像と一緒に眠っている。夢想を表現する技術が欲しい。拳をぎゅっと握ると、爪が掌に食い込んだ。痛いからすぐやめた。
二講目の生物学は、先生がレジュメを配って、それを読み上げるだけの、無意義な講義だ。レジュメを後から友達にコピーさせてもらえばいい。そんな友達はいないけど。
その後には昼休があるので、三講目に間に合うには十時に家を出ればいい。
高校の頃の皆はどうしているだろう。どうしようもないゴミッカス達だったけど、今では自分もその一員であった事を思い知らされる。夏休みに皆を誘って遊ぼうかと考えたけど、二ヶ月も先の事だったので、考えるのをやめた。
三講目はなんだったろうか。もう学校のことを考えたくない。
時計に目をやると二時を三分程回っている。丑三つ時に部屋を暗くするのは厭だ。傍らに置いてあった漫画に手を伸ばすが、既読した内容は酷く退屈なので、すぐに放った。
一昨日、金曜日、帰宅してから現在に至るまで、一体何をしていたのか。何もしていなかったようにも思える。それではこの倦怠感の正体は、一体何だというのか。
突然、巨大な闇が、向後の闇が頭上にのしかかる。学校を辞めることなど考えられないが、もしかしたらと、そう思ってしまう。それよりも、今の趣味を将来続けていられるだろうか。いつか、自らの拙い技術を見限って、自己を表現することを止めるだろうか。それこそ考えたくもない事であったが、何分、有り得ない事ではなかった。
思考の波に恐怖した僕は、部屋の明かりを消すと、布団に抱かれるように、身を包んだ。ずっとこうしていられたらいい。そう思った。
もう明日は学校に行かない。
「遺産はどうなるのかな」
「まあ、三等分だろうな」
「遺産がそんなにたくさんあるとは思えないけどね……」
父親の葬式も終わり、三人の兄弟が遺産について話し合っているところへ、父親の弟、つまり彼らの叔父が入ってきた。
「葬式が終わったら、これを再生してくれって……。兄さんの遺言かもしれない」
そう言って差し出したのは、一本のカセットテープだった。親族を集めて、さっそく再生してみる。
『……えー、わしもそう長くはない。そこでな。遺言しておこうと思う――』
懐かしい声だった。兄弟達は三人とも、母親の死に目は揃って見届けたのだけれども、父親の死に目には間に合わなかった。
『……あー、遺産についてだが、三千万ほどある』
「そんなにあるのか!」
長男がびっくりしたように呟く。だが、驚くのはまだ早かった。
『……しかし、お前らみたいな親不孝者に、やる金はない』
「なんだって!!」
全員が耳を疑った。
『……遺言だ。わしの全財産を、誰にも使われないよう、庭の松の木の下に埋めてくれ。以上』
再生が終わる。重苦しい沈黙。
「続きは無いのか……」
耐えきれなくなった、次男が口を開いた。
「親父はいつも、俺たちを驚かせるのが好きだったけれど……」
「ちょっと待って」
三男があることを思い出した。
「確かカセットテープを使った遺言は無効なはずだよ」
「本当か!!」
「そういえば、前にテレビでそんなことを言っていたな」
「ああ良かった。無効だ、無効!」
「じゃあ、仲良く一千万ずつ分けよう」
兄弟達は遺産を三等分することで納得し、カセットテープも処分してしまった。
子供達の様子を雲の上から見守りながら、男は残念そうに呟いた。
「やはり言うとおりにしなかったのか。松の木の下を掘っていれば、一億円の当たりくじが埋まっていたのに……」
布団の中で私は息を潜めていた。
暑い…今は夏、布団の中に潜っていればそれはそれは、汗がふきでて頭が朦朧としてくる
だが、私は顔をあげようとはしなかった。
布団の中で耳を塞いでも聞こえる女の喘ぎ声、獣のような男の息遣い…あれは私の母と父。
いつも私を抱いてくれる母の手は父の男根を握り、いつも私を撫でてくれる父の手は母の乳房へとのびて、快楽を貪っていた…
翌朝の私はパジャマをぐっしょりと濡らし、顔は青ざめ、濡れた服で一晩を過ごしたせいか風邪をこじらせていた
心配した母が私のパジャマを脱がせようとボタンに手をのばしてきたが、昨日の恐怖により母の手を振り払ってしまった
「どうした?」
私を心配する母の顔はいつもと少しも違うところはなかったが、母に隠された獣のような裏の顔を知った今となっては、素直に甘えることは出来なかった
私は首をふり、自分でパジャマを脱ぎ始めたが、熱のせいか、指に力が入らず結局は母に脱がされた、布団に寝かされ私はふと、眠りにつく瞬間に
「わたし、お母さんのこと…嫌いになるかもし…れない…」
「あ゛ぁー…んあぁーう゛ぁー」
生命の誕生、女性にとっては今までで一番とも言える苦痛と喜び、達成感
「女の子ですよ」
私は喜びと達成感の中で看護師の声を聞き、BGMとして我が子の産声を聞いた。
私は産後の疲れからか我が子を一瞬抱いた後眠りについた
「わたしお母さんのこと嫌いになるかもしれない」幼い私のあの日の言葉が夢の中でこだまする、この娘も私を恐ろしいと思うだろうか、汚らわしいと私が触れることさえ、嫌がるだろうか…
そして、この娘も好きな人と出会い、これを素晴らしいことなのだと、感じるようになれるのだろうか…
「ねぇ…ママぁ…」
娘が言いにくそうに私に近寄る
「なぁに?」
私は娘が言う言葉をきっと幼い頃から知っている。
街で売られている煌びやかな毛皮のコートにうんざりとしながら、道を歩く。
肉屋の前はもっとうんざりだ。
何がロース美味いだ、ヒレが最高級だ……寒々しい。
裏路地まで歩いてくると、ネコが飛んできた。
ネコの悲鳴が聞こえた。
次に少女の笑い言葉が飛んできた。
──可愛そうに……助けてと悲鳴をあげて意思を伝えているのに……。
ネコを優しく抱きしめようとすると、少女は私からネコを乱暴に奪い取り、地面に叩きつけた。
ネコの悲痛な声が漏れた。
そして少女が私を向いて口を動かした。
──「ネコの言葉なんてわかるワケがないでしょ?」ですか。
──でも痛がっているのは分かるんじゃないんですか?
──言葉が通じないんだから、関係ない。そうですか……。
少女の表情には三日月が浮かんでいた。
少女が壁にたたきつけられた。
少女の悲鳴が漏れる。
遠い異国の地、柄の悪そうな男が下種な笑いを浮かべる。
いつぞやネコを虐めていた少女は、私を見て助けを求めた。
──『……言葉が分からない相手に残酷になれる』……。
男は私を無視して、少女へと近付く。
目の前の異人に萎縮する少女。
──全くその通りです。何を言っているのか分からなければ……
私は少女の姿をネコに重ねた。
──どんなに残酷なことも気付かない。あなたの同一種ですね。
服が引き裂かれる。
少女の悲鳴。
それらの音は相手には届かない。
肉屋の前でふと足を止める。
赤く筋の通った肉。それを見て思わず目を背ける。
──特別な肉が手に入った? 身が引き締まったオスの肉?
──いえ、遠慮しておきます。肉が苦手なんでね。
だって、そうでしょう?
ここに並んでいる肉は雑音の中から生まれた肉に違いない……。
だけど、その雑音が音となり、言葉の中から意思を感じ取れるのなら……
とてもそこの肉を食べようとは思わない。
その昔、江戸の町に吉蔵というたいそう噂好きな男がおってな、噂を聞きつけると人には話さずにはいられない性格だったそうだ。
「おい八よ、聞いたことあるか。赤間ヶ関っつうところに耳の無い坊さんがいるってよ」
「またおめえさんの噂話か、その話はこの江戸でも有名じゃねえか。いまさらなんだってんだい」
今からする話の腰を折られたことにもめげず吉蔵は話し出して
「いやいやいやいや、そんな上っ面だけの話で満足しちゃつまんねえだろう。しかしね、俺は不思議なんだよ。耳に般若心経書き忘れちまったから耳をとられちまったんだろう。じゃあ一物は無事だったのかねって。無事だったとしたらそれはそれで和尚さんも嫌だったんじゃねえかなとね」
「またおめえはすぐ茶化すんだから。おめえ、そんなのは適当にうっちゃっとけばいいんだよ」
「芳一もせっかく見えなくなったんだから逆にやっつけちまえばよかったのにな。でも目暗だから無理かね」
「吉蔵よ、その芳一って坊さんも可哀想じゃねえか。目も見えねえのにその上、耳まで取られちゃたまったもんじゃねえや。そいつを馬鹿にするのはよくねえよ」
「おいおいおい八よ、勘違いしてもらっちゃ困るな。俺には芳一に耳をつけてやることはできねぇ。だからせめて芳一の話に尾ひれでもつけてやろうって思って面白おかしく話して回ってるのさ」
「吉蔵よ、あんまり茶化してると今におめえさんのもとにお侍さんがやってきてとっちめられるぞ」
「へへへ、そうしたら話の種になって良いってもんだ」
呆れる八兵衛を尻目に吉蔵は帰っていった。その晩のこと、吉蔵が寝ていると誰かが戸をあける音がして、吉蔵の長屋へ音も無くすうっと入ってきました。
「うぬか、あること無いこと吹聴し平家の名を汚す者は。お前もあの坊主と同じように耳をむしりとってやろうか、それともどこか違うところが良いか」
吉蔵は驚きのあまり声も出ない。しかしやっとのことで震える声を絞り出して
「しかしお侍様、私めはもうすでにあなた様に目を取られております」
「それはどういうことだ」
不思議がる侍に吉蔵は一言
「へえ、私はもうあなた様の噂話に目が無い、ということで」
侍はしばし黙ったあと
「ふむ。この状況でその機転、気に入ったぞ。殿の下でその才、存分に発揮せい」
そういうと侍は吉蔵の腕を掴んで夜の闇へ消えていった。それ以来、吉蔵の姿を見た者はいないという話だ。
男は織田のことを好いていた。人格がどうとか人相がどうとかではない。一個人として、恋愛の対象として男は織田のことを好いていた。ずっとずっと長い間胸にその思いを秘め続けていたのだ。だからその日、男の胸中が溢れてしまったのはどうしようもないことだったのかもしれない。
織田は夕焼けに照らされた帰路の途中、男に告白された。お前のことが好きだと。愛していると。同じ男である友人から告白されてしまった。当然のことながら織田は慌て戸惑った。いきなり何を言い出すんだこいつは、と目の前で真摯に自分のことを見つめている男の頭のことを心配してしまったほどだった。だが見つめてくる瞳に冗談の色は伺えない。織田は男の告白が真実であるということを悟った。
「……ごめん。お前の想いには答えられない」
沈黙を破ったのは、そんな織田の一声だった。織田には男色なんて趣味はなかったし、好きな異性がいたのだ。
「深津か……」
そう男が呟く。織田は一体どんな顔をしたらいいのやら分からなかったが、事実であったので頷くことにした。
「あんな女……あんな女のどこがいいんだよ!」
男が吠える。
「俺の方がお前のことを知っている。お前の好きな食べ物も、好きな本のジャンルも音楽も、もちろん嫌いなものだって深津なんかよりも知ってる。あんな女よりもお前に尽くすことが出来るんだ」
「でも、お前は男じゃないか」
織田が反論する。男は顔を真っ赤にして目に涙を溜めると、織田の服の裾を掴んで縋り付くかのように跪いた。
「お願いだ。お願いだよ織田。俺を好きだって言ってくれよ」
「……僕は柳葉のことが好きだよ。いい奴だと思ってる。でも、それは友達としての想いだ。恋愛感情なんかじゃない」
「織田、織田」
「しつこいぞ」
織田は一喝すると、男の手を振り払って一人歩き始めた。その背後で男がしくしくと泣いている。織田の胸がちくりと痛み、そして同時に大きな決意が生まれていた。深津に告白する。男とは言え、一人の人間の告白を断ったのだ、けじめをつけねばならないと思っていた。
翌日。織田の目の前には深津が立っていた。
「深津。俺、お前のことが好きだ。大好きなんだ」
「ごめんなさい。私あなたの想いには答えらない」
沈黙を破ったのは鈴のように鳴り響いた深津の可愛らしい声だった。
「柳葉か……」
そう織田が呟く。深津は目を伏せがちにぎこちなく頷いた。
母がカトリックということを、私はあの日まで知らなかった。あの日というのは、もともと体が弱く働くことができなかった父がついに体調を崩し、最後の入院をしてから二ヶ月ほど経った、あの日である。
あの日、私は夕方のアルバイトを終えてから、病院へ向かった。その頃の父の容体は重く、体に刺さった色々な管が父の命を支えていた。
エレベーターを父のいる3階で降り、目の前にある自動販売機でお茶を買っていた。ガタンという音と共に現れたペットボトルを取り出そうとすると、ガラガラッとドアのあく音が薄暗い院内に響き渡った。一瞬、母が来たのかと思ったが、ここに来る前に電話で、今夜はパートで遅れると言っていたのを思い出した。ここから出たくないと強情に言い張るペットボトルを力ずくで取り出し、父の病室へ向かった。
ドアを開けて目に入ったのは、静かに眠る父だった。口元が笑っているようにも見えた。薄暗くついている電気はそのままに、そばに置いてある冷たいパイプ椅子に腰掛け、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。そしてもう一度父に目をやったとき、私はやっと異変に気づいた。父の命を支えている管が、一本残らず全て抜かれ床に垂れていたのだった。立ち上がった私は驚きで固まってしまった体を力づくで動かしてナースコールを押し、大きな声を出した。
「誰か来て!」
視線は椅子の足元に取られた。自転車の鍵が落ちていた。一瞬、呼吸を忘れた。
バタバタと近付いてくる足音を聞きハッとすると、すぐにそれを拾いジーンズのポケットにしまった。
蛍光灯が煌々と付き、いつのまにか医師がきて、初めは一人だった看護婦も何人か増え、父を囲って何か慌ただしくしていたが、私は一歩退いたところでぼおっと立ち尽くしていた。無意識に助からないことに気づいていた。
握っていたペットボトルをつい落としてしまったとき、ハッとした私は、呼吸を意識した。
息を吸うと、いつも優しい父が、頭を撫でてくれたときの感触を思い出した。そして息を吐くと、台所で私たちのやり取りを微笑ましそうに眺める母の姿が思い出された。それから先程の、笑って横たわる父の顔がわたしの視界を支配した。もう一呼吸した私は、医師たちを横目に病院の外へ向かった。
向かった先は駐輪場だった。母が立っている。十字架を両手に持ち、背中を丸めながら。母の体は震えていた。
彼の名前は矢村守――二十六歳、独身。
午前十二時五十分、夜食の醤油カップラーメンを食べ終えたところである。
守にはスープに浮いた「油の玉」を一つ一つ繋ぎ合わせるという変わった趣味があった
もちろん今夜も右手に割り箸を握り締め慎重に「油の玉」を繋ぎ合わせていった
いつもなら途中で飽きてしまうのだが――今日の守は違っていた
ニュータイプの如く的確に一つ一つ繋ぎあらせ三十分後には直径約十センチと五ミリの油の玉が二つになっていた
そして、緊張で震える割り箸の先で残った油の玉を一つに繋ぎ合わせた
達成感で身体が満たされたその瞬間――カップラーメンの容器の上で小さな爆発が起こった
暫くすると爆発は納まり、カップラーメンの容器の上には人影のようなものが見えた
「えーと……アナタ様は誰ですか?。」
と、守は割り箸を握り締めたまま訊ねた
「私はカップラーメンのスープに浮いた油を一つにしたときに召喚される『カップラーメンの妖精』ですみょん!」
身長約三十センチ、大きな瞳に腰まで伸びた長く蒼い髪、抱えたレンゲ、原色系のコスチューム、そして――背中から生えた四枚の羽を「ぱたぱた」とはためかせてラーメンの妖精さんは元気にいっぱいに答えた……
「ず、ずいぶんとピンポイントな召喚フラグなんですね――」
守は召喚理由もさることながらラーメンの妖精が発する萌え系アニメ声優のような声と独特の語尾に少々目眩を覚えた
しかし、そんな守の健康状態など無視して何やら嬉しそうに守の頭の周辺をくるくると羽ばたきながら妖精さんは続けた――
「私を呼び出してくれたご褒美に時間を三十分戻してあげるみょん!」
「へ? 三十分前……ちょっと待った!」
「三十分前」という基本的な何かに気づいてしまった守はラーメンの妖精に向かって叫んだが……妖精さんは魔法のレンゲを大きく振り下ろしていた――
「グッドラックだみょん!」
――守の居る空間がホワイトアウトした。
彼の名前は矢村守――二十六歳、独身。
午前十二時五十分、夜食の醤油カップラーメンを食べ終えたところである。
きそくが、ある。じぶんのげんこうをひとつもってはいれ。ただし、くうはくやくとうてん、だくてん、すてがな、ひらがな、ろくじゅうさんしゅるいのもじだけをつかい、すべてをいちじとかんさんしてせんじぴったりのげんこう。かんじやかたかな、いこくのもじはふきょかとする。
ちずをたどると、そこはしょてんというよりなにかのきねんひのようなたてものがあった。まどもまるみもなく、まるでしきちないをうめつくすためだけにつくられたのか、とおもうほど、しかくくてそっけない。
いりぐちはやすぶしんのじどうとびら。かぎのかわりにもっともやすいしへいをいちまい、よみとりきにいれるととびらがひらく。がいけんのいんしょうそのまま、ないめんもまったくかざりけがない、きのうび。おそろしくたかいてんじょうと、りんかくがぼやけてまったくしょうたいのみえないきょうれつなでんとう。
かべにすいちょくにたてかけらたいどうしきのはしご。いっぺんにつきいちだい、ごうけいよんだいがしほうのかべにとりついている。
にびいろのゆかのうえに、ひとりがけのいすとつくえとたいぷらいたがいちだい。たいぷらいたは、ろくじゅうさんもじのみがいんじされている。いすにこしかけ、まちがえないようにちゅういぶかくたいぷらいたをだけん。
ふるめかしい めかにかる のかんしょくがぶんしょうをよどみなくおとしこむ。ちょうどせんもじうちおわると、でんしおんがげじょうしました、とつげる。きんこのかぎがひらいたのだ。
そうだ。きんこだ。
かべ、かべ、かべ、かべ、すべてがきんこでおおわれている。ぎんこうにおいてあるかしきんことおなじしゅるいだろう。はしごをのぼる。とびおりればいのちをうしなうたかさへたっする。とちゅう、いくらかとびらがひらいたままのからっぽのきんこをみつけた。
みどりのあかりをつけて、わたしのきんこはわたしのほんをさしだした。ひょうしをめくると、さきほどうちこんだわたしのぶんしょうがいんさつされている。
わたしはようやく、じゅうのひゃくはちじゅうきゅうじょうのきんこのうち、ひとつがわたしのためによういされているのだとしる。
バットで殴られて怒んない人なんて居るのかしらん。
と、思っていたけど案外、怒んない人が多い。寧ろ殴られた本人よりもその周りの人たちが怒る場合が多い。本人はそれどころじゃないって、僕なんか眼中にない様子だ。
じゃあと、試しに怒っていた人を殴ったら、その人たちは痛がって蹲るばっかりでさっきみたいに怒る様子がない。それどころか逃げ出しちゃったりする。
僕は正直ちょっと絶望していた。乱れきった現代日本って話は本当だったんだ。普通の反応の仕方をみんなが忘れている。
落胆した気分のまま、僕は紙パックのジュースを飲みながら前を歩いている女子高生の後頭部めがけてバットを下ろす。
ごすんと音がして女子高生はそのまま前にべしゃっと倒れた。
かと思いきや、べしゃっと言う音は紙パックのジュースを落とした音で、女子高生は膝をついただけだった。
栗色に染まった傷んだ髪が布のように翻って、血の垂れた顔で僕を般若のように睨み付けた。
「あにしやがんだてめえ!」
女子高生は頭から血を流しながら僕の横っ腹を革靴で蹴っ飛ばしてきた。
そうそう、そうだよ普通。ぼおっと納得していると、いつの間にか取り落としてしまったバットを女子高生は拾い上げ、僕に向かって大きく振りかぶった。
「そりゃ怒るよね。」
ごしゃん
無神教の僧が「今日は我らの祭典がある」と誘ってきた。神を信じない人々に興味があったので、ついていくことにした。
案内されたのは薄汚い路地裏で、この街に長く住んでいた僕でも初めて見るようなところだ。壁際に散乱するガラクタやシミが、普段はここが浮浪者の寝床だということを教えてくれる。
だが今はその壁際に人々がまばらに並んでいた。服装は不揃いだったが、誰もが地味な格好だというところは共通している。こんな祭に参加するのは貧民ばかりと思っていたが、見れば血色のいい金持ち風の人物もちらほらと目に付く。
いよいよ祭りがはじまった。一人の男を乗せた山車が引かれてくる。乗せられていたのはひどい皮膚病に侵された男で、大声でわめいていた。
「我こそは不幸な人間なり。幼き時分より病に苦しみ、祈りを重ねても癒えることなく、今に至るも醜い姿。神はいずこにありや!」
その男はたしかに醜悪な姿だ。しかし叫ぶその声は生き生きしており、ひどく楽しそうだった。
さらに別の山車が現れる。次の人物は粗末な布切れをまとい、皮膚が垂れる不健康な痩せ方をした男だ。
「我こそは不幸な人間なり。正当な努力により富を掴み、悪事に手を汚さなかったにもかかわらず、不運により一文無しに落ちぶれた。神はいずこにありや!」
そう訴える彼の眼にも暗い色はなく、活力に満ち溢れた光が宿っている。
そんな山車が何台か通ったところで、教会の鐘の音が響いた。
「祈りの時間だ!」
そんな声がした。懐中時計を見ればちょうど礼拝の時間で、今頃大聖堂では神父と信者達が、手を合わせて神にひざまづいていることだろう。
あたりを見回すと、ここでも一同が揃ったポーズをとっていた。だがそれは胸を張って両足でしっかりと立ち、両手を大きく広げて演説するような格好だ。
そして皆で同じ文句を唱和しはじめる。
「神などいない。神を信じるな。神など甘え。神を信じるな。神など逃避。神を信じるな」
その後も延々と神を否定する主張の声が続く。
僕はふと疑問に思い、隣で案内してくれていた僧に小声でささやきかけた。
「なぜ、神を非難するのではなく否定するのですか? 単に神は、すべての人間を幸福にしたくないだけかもしれないのに」
僧は口の両端を吊り上げて答える。
「本当は、我々がもっとも敬虔なのだよ」
その表情があまりにも歪んでいたので、僕は彼が笑っているということにしばらく気づかなかった。
双子の子犬がいる。
学校の最寄り駅から二つ目、家の最寄り駅からは四つ目、各駅停車しかとまらないさびれた駅の近くに貸し農園がある。駅からは歩いて十分ほど。そこを家族で借りていて、交代で水まきや間引きや収穫をすることになっている。今日はあたしが当番の日だった。
学校帰りの途中で電車から降りて改札を通り、人通りの少ないゆるやかな坂を下りていく。信号のところで左に折れ、そのまま真っ直ぐいくと、農作業の道具とかを売っている雑貨屋さんがあって、店の入り口から離れた端っこのほうに、そっくりな二匹の子犬が繋がれている。
たぶん雑種で、シベリアンハスキーみたいな顔をしていた。一匹は伏せて、重ねた前足の上に頭を置いて、やる気なさそうにしている。もう一匹はお座りで、怪しい人間がいないかと目を光らせて、ちゃんと番犬の役目を果たしている。
やる気なさそうな子は触らせてくれるのだけれど、ちゃんと番犬をしている子は触ろうとすると吠えてくる。やる気なさそうな子を撫でているときも、わうわう吠えてくる。そうやって吠えられるたび、そのうちお前も撫でさすってやるんだからと胸に誓う。
農園に着いて、水をまく前にいくつか収穫する。広い敷地を六畳ぐらいずつに仕切っていて、家庭菜園の延長みたいな感じだ。サヤエンドウとシソ、それから苺ができていた。
水をまいていると、隣の農園を借りているおじいさんがやってきて、あたしを見つけると会釈をした。今日は会釈の人かと思いながら、あたしも会釈を返す。この前会ったときは、今の時期は何が採れるかとか、気軽な感じに話しかけてきた。
会釈のおじいさんと気軽なおじいさんがいる。見た目はまったくおんなじで、確かめたことはないけれど、双子なんじゃないかなと思っている。雑貨屋さんに繋がれていた、あの二匹の子犬みたいに。
ただいま、と家に帰ったころには日が暮れていて、辺りは薄暗かった。収穫したものを冷蔵庫に入れ、自分の部屋に入ると、双子の姉がベッドに寝そべっていた。あたしはベッドの横を背もたれにして座り、姉に今日の農園のことを、主に双子の子犬と双子のおじいさんのことを話した。
双子のあたしたちが別の双子たちの話をする。ふと、その構図が面白くなって、ちょっとくらくらする。あたしは何でもなく話しながら、こっそり胸を躍らせる。姉は気のない相槌を打ちながらも、どこか楽しそうにあたしの話を聞いている。
むかしむかし、独という国にヒトリーという政治家がいました。彼は与えられた任務をこなし周囲の信頼を集めていき、最後には一国の主にまでのぼりつめたのでした。彼は生来が生真面目な性格で、一度築いた地位を守るため自分の国を守るため、くる日もくる日も時間も忘れて働きました。やがて部下たちは彼をチヤホヤし始め、彼もまたすべてが自分の思い通りになると思うようになりました。そして、ある時ヒトリーがふと周りを見回すとそこには誰もいません。そこにいるのはヒトリーのみ。そう、ヒトリーは一人になってしまったのです。周囲の部下たちは彼の独裁ぶりに愛想をつかし一人減り二人減り、国民もこんな独裁者に国はまかせてられないと、みんな逃げ出してしまったのでした。哀しみにくれたヒトリーは途方にくれ何をしていいかも分からずただひたすら歩き続けました。そうしているうちに、どれぐらいかぶりに誰かに出くわしました。話を聞くと彼は名前をトナカイ侍と言うらしいです。ヒトリーが歩き続けるうちに時空の狭間に迷い込んだようです。トナカイ侍ははじめ興奮気味にヒトリーに近寄ってきました。トナカイ侍の話によると生き別れになった主従関係の三太を探しているらしくヒトリーこそまさにその三太だというのです。ヒトリーが時間も忘れて歩いているうちにかつての風貌は見る影もなく自慢のチョビ髭は真っ白のもじゃもじゃになってしまっていたのでした。トナカイ侍は形見の赤い三角帽をヒトリーにかぶせやや興奮気味に逢いたかった逢いたかったと泣き叫んでいます。ヒトリーはヒトリーで何度も自分の過去の栄光をやや誇張気味にまくしたてました。自分は三太なんて名前じゃないと何度話してもトナカイ侍は分かってくれません。そこでヒトリーはトナカイ侍がひいていたソリにのって自分の国に戻って証拠を見せようということになりました。ヒトリーとトナカイ侍は長い間空を旅しました。彼らがソリに乗って空を行く様は人々によって語り継がれましたが、その後の彼らを知る者は誰もいませんでした。そりに乗って空を行くサンタの姿は哀しみにくれたヒトリーの最後の姿であり、あの大きな袋には過去の栄光の軍服やら何やらが詰まっていたのでしょうか。
踏切防止キャンペーンの期間に
駅前の商店街は
軒並みシャッターを下ろし
交差点に一軒だけ開いている
中華料理屋の店長は中国人
店前に屋台を出し
ニンニクの効いた餃子の美味しそうな匂いを溢れさせて
隣がシャッター閉まっているのをいいことに
これでもかと匂いを撒き散らして
アイヤー!
と
餃子を焼き続けて
山のように餃子の箱を積み上げて
疎らなお客にアピールしながら
餃子を焼き続けて
アイヤー!
と
疎らなお客に餃子を売るのだが
ちっとも売れない
アイヤー!
中国人の店長はタイムサービスだと
値段を下げて
勢いよく餃子を焼き続け
アイヤー!
と
渾身の力で胸を叩き
そして
何故か苦虫を噛み潰した顔をして
体を小さく震わせた
餃子、さっぱり、売れない
アイヤー!
中国人の店長は屋台の中から飛び出し
閉まっているシャッターを片っ端から蹴り上げて鬱憤を晴らすと
アイヤー!
と
渾身の力で胸を叩き
そして
何故か苦虫を噛み潰した顔をして
体を小さく震わせた
餃子、百円に、するね
もはや採算など考えなかった
これは聖戦である
中華人民四千年の歴史を
たかだか百年に一回の不況によって
コケにされてたまるかアルヨ!
アイヤー!
*
上着を頭にかけられて
両手を手錠をかけられて
店長がパトカーに連行されていく
どうやら近所の住民達に
うるさいと通報されたらしい
最後の客の俺は
餃子の袋を握り締めながら
店長の乗せたパトカーを
桜の舞う坂道に消えていくまで
ずっと眺めていた
眺めていた
先生がきっぱりといった。たかしくん、あなたは居残りよ。
ぼくはちょっと怖かった。クラスのみんなはざわざわとして、どんどん教室からでて行く。そのうちに静かになった。
先生がいつもより一歩近づいている。ハーモニカは吸う時と吹く時の音が違うのよ。とか、端っこから一つずつ吹いて見なさいとか。時間がたつと周りが静かになる。音楽は嫌いじゃないけど、ハーモニカはいつまでもできなかった。ハーモニカの音がやけに大きく響くように感じる頃、やっと短い曲ができるようになった。
なにかものすごく嬉しくなった。それから、先生と一緒に教室を出て廊下を並んで歩いてから、分かれて下駄箱のふたを開けた。
今日は特別授業です、と先生がいった。皆さん静かに音楽室に移動してください。みんなが笛やハーモニカを持ってざわざわしていると。
すぐに、男の音楽の先生がきて、太鼓の係りを決める。テストをします。と、いった。
ニコニコ笑いながらピアノを弾く男の先生の表情が、ウンウンと挨拶しているときと黙ってるときがあって、黙っているときの太鼓はとても難しかった。
きのうの先生のようにやることを一つ一つ教えてくれたらいいのに、と思いながら玲子先生のほうを見たら、ピアノの音を聞いてるのか、目をつぶってうっとりとしている。
どうしたらいいのかわからずに、自分でだめだなぁと思う太鼓はみっともなく恥ずかしい、すぐにハイ次のひとと先生が言った。
何も知らのに、教えてもいないこと、なのにテストをするのはひどいなぁと思った、音楽の特別授業はつまらない。
ハイ、太鼓はピアノから一番遠いところにたってください。まず太鼓の位置を決めると、笛の人たちが黒板の前に並んだ、その前にハーモニカのぼくたちを並ばせると。ピアノ横に立ってにっこりと笑った。自信がなかった。もう一度練習したかった。でも、ピアノが伴奏を始めると、いちにっさん! と、合奏が始まった。
まるで雑音だメロディーは聞き取れない。テストに合格したばかりの太鼓係も、ぼわぼわ、いわせているが伴奏のピアノとすれ違い、打ち消しあって、響きは、団子になってしまって、ちっとも楽しくない。せっかく練習して出来る様になったのに、ハーモニカの音は、まるでごみの山に座っているようだ。とくに先生の声なんかぜんぜん聞き取れない。いいんだ、僕は先生なんか大嫌いだから。先生の声なんか聞こえないほうがいい。
敷いてからいく日が過ぎたのかはわからないが、ふと裏返してみると、黒ゴマをまぶしたような黴が布団に付着していた。庭を掃除していた大家さんに訊ねると、フローリングの床のうえにそのまま布団を敷きっぱなしにしていたら、湿気が溜まって黴がはえやすいという。
「それじゃあ、布団の位置を毎日すこしずつずらせばいいんですかね」
「毎日干せばいいんだよ」
干した布団は、どういう理くつかは知らないが、たしかに気分がいいし、黴もはえにくいのだろう。「はぁ、そうですか」といって、部屋にまた戻った。それにしても、布団である。このままにしておくわけにもいかない、ためしに濡れタオルでこすってみても、黴はいっこうにそのままだった。おもいきって、鋏で黴ぶぶんの布だけを切ってみると、白い綿が見えた。
こんどは、白い綿をどうすればいいのかということになった。切り取った黴はこのままゴミ箱に棄てるにしても、綿が丸見えなのは不恰好だ。しかし、布団の裏を誰に見せるわけでもない。そのままにしておくのがいいだろう。意外にすんなり納得してしまった。
つぎの日の朝、布団の裏に黴ははえておらず、その部分には綿だけがあった。なのだけれども、どうにも居心地がわるい。怪我をして血が流れているのに、かさぶたが出来上がっていないような気持になる。布団は肌でないから、意思とは関係なくかさぶたが出来上がって、知らないうちにもとどおりに治まっているということはない。毎日布団を干したとしても、見える綿は見える綿のままである。綿隠しのため、布をその場しのぎに用意したところで、ツギハギがツギハギでなくなることはない。
これからは、布団を干さない生活を改善すべきである。そう思ったけれど、いまは布団問題が先決で、それ以外のことに気をまわしている暇はない。眠りながら夢を見ているときだって、綿は綿のままフローリングにふれているのだ。ゾクッとして、もしかすると、背中にも黴がはえているかもしれないと思い、鏡で確認すると、ただの肌だった。とうぜんのはなしだった。かりに、背中に黴がはえていたとしたらどうだろう。いや、それはそれで、二、三日日光を浴びれば治癒するような気はする。なんといっても人間である。
玄関を出るときに、新しい布団を買えば万事が解決するということに気がついた。布団は買い替えがきくのである。同時に、そのためにはお金がいるということにも気がついた。
僕には彼女がいる。
面白いものを見つけたら写真を撮って彼女に見せるし、嫌なことがあったら彼女に慰めてもらう。
好きな音楽、好きな本、好きな食べ物。僕と彼女の性格は似通っているようで、最低限の言葉さえあれば僕らは意思の疎通がとれる。
いままで友達もいなく、いつも一人ぼっちだった僕にとって、彼女はとても貴重な存在だ。
でもひとつ、もしもひとつだけ彼女に望むことができるとしたら、それは刺激だ。
やさしい彼女は僕のどんなことも赦してくれる。
でも、同時にそれが退屈でもあるのだ。
もちろん、今まで恋愛に対して何の努力もしてこなかった僕にしては、ここまでの女性は上等だと思う。やはり、これ以上を求めるのは贅沢なのだろうか。
などと、いまこんなことで僕が悩んでいるのには理由がある。
たった今、恋人とは別の女性に告白をされたのだ。
美人だ。
美人だが、着ている服や化粧の趣味、表情を見る限りでは、この女性は今まで僕が避けてきた類の人種で、付き合ったとしても、趣味はおろか会話すら通じないかもしれない、という不安さえ感じる。
でも、あろうことか僕は、いきなり現れたこの会話のできない女と交際しようか迷っているのだ。
この女性の放つ不安の香りは、美貌と入り混じり、怪しい魅力となっている。
今の恋人が持っていない、持っていてはいけないないものを、この女性は持っている。
しかし、今の彼女とは今まで喧嘩もなく過ごしてきたし、結婚した後の幸せな家庭だって容易に想像できる。
それを今ここで捨てるのか。
逆に、この怪しい女との生活を考えるが、こちらは全く予想がつかない。
唯一想像できたのは…。
いけない。そんな一時の快楽で今の彼女を捨てるなんて。
そのあと色々と考えたが、結局、答えを持って帰ることにした。
そして、帰ってから恋人に電話をかけ、今日のことを話してみる。
「今日さ、女の人に告白されたんだけど…」
「なにそれ。ふらなきゃ殺すからね」
今まで聞いたことのない彼女の鋭角な声に背中が粟立つ。
僕が好きだった女の子のことを話そう。丸顔で、背の低い女の子だった。自分の感情に素直で、よく笑い、よく泣く女の子だった。
放課後、彼女はよく一人で音楽を聴いていた。ヘッドフォンから流れている音楽にあわせた小さな鼻歌と、遠くにきこえる吹奏楽部の管楽器、廊下に響く靴の音。僕は彼女とは違うグループにいたので、それを遠巻きに見ているだけで、結局声をかけたことは無い。
彼女はあるとき急に学校にこなくなった。たまにきても、気分が悪いと言って保健室に入り浸っていた。ほかの人が話しているのを聞く限り、彼氏に振られたとか、家族と折り合いが悪いとか、そんな理由がいくつも重なったんだという。本当のところは、知らない。学期が変わるころ、彼女は静かに学校を辞めた。
当時、僕は彼女のどこか壊れてしまいそうな雰囲気や、あやうさに惹かれて、それがなにか特別な、瑞々しい感性のようなものの表れであるように思っていた。今思うと、彼女は単にちょっと心の弱い普通の女の子だったんだろう。壊れやすいからといって、透明とは限らない。ダイヤモンドだってきらきらと光輝いている。
それでも、僕は彼女のことが好きだった。今でも好きだ。彼女のことを思って何十回何百回何千回とオナニーした。自宅のトイレで、放課後の教室で、デパートの屋上で、ありとあらゆる場所で彼女のことを考えながらオナニーした。一日に最高8回した。最後のほうは何も出なかったけれど、それでも僕の右手は留まるところを知らず、あまりの摩擦熱に地球が温暖化してペンギンさんやシロクマさんが困ってしまってワンワンワワン、アマゾンの熱帯雨林はすべて砂漠と化し、太平洋からは水分が蒸発、塩分濃度が高まったことで、浮き輪が無くても体が浮くかわりに全ての魚介類が死滅。そして残された人類は僕と彼女だけになった。僕は叫んだ!世界の中心で!愛を!一方その頃、高まる塩分濃度と比例して急速に進化を遂げたイルカたちは、死の惑星と化した地球からの脱出を試みるべく、宇宙船の建造。自らの質量を虚数へと変えて超光速で遥か遠宇宙を目指し旅立つってなんだよこれ。わけわかんねー。実際、地球は滅びてないしおれは彼女でオナニーしてないしそもそも彼女なんていないよ。仕事だってないよ。無職だよ。この不況でお先真っ暗だよ。だから夢ぐらいみさせてくれよ。くそ!世界滅びろ!もしくは全人類が愛と平和に目覚めますように!
思春期の男子とは至極面倒な生き物だ。第二次性徴が始まって以来、胸の中は性欲がどろどろ渦を巻き、それでいて頭の中は詩人の如き清潔な感性が咲き乱れている。そうした鬩ぎ合いの中で、男子は大人になっていく。
昼休みの教室に男子が一人。平岡崇、十三歳。遊びにも行かず机に肘をつき、窓の外を眺めて物憂げにため息をついている。
「崇、コンドームって知ってる?」
二人の男子がやって来るなりそう言った。崇は彼らを一瞥したきり窓の外に視線を戻し、うんざりした様子で鼻から息を抜いた。
「アメリカの最新コンピューターが収められたドームのことじゃないんだぜ!」
「うわ、それスゲーありそう!」
二人は崇の真横ではしゃいだ。食事中の女子数名が露骨に嫌な視線を投げている。
「なあ崇、知ってるか?」
繰り返されて崇はようやく彼らに向き直った。
「僕らには最も縁遠い存在のひとつだよ」
二人はようやく崇の異変に気づき、怪訝な顔を向けた。
「お前、どうかしたか?」
崇は友人を見上げて、小さな声で答えた。
「僕はね、嫌になったんだ」
「何が?」
やれやれと呟きながら崇は首を振った。
「こんなにも醜い、人間の営みというものがだね、嫌になったのだよ」
言い終わると崇はため息をついた。
「ふーん、そうか」
二人はそう言い残すと教室からそそくさと出て行ってしまった。
「あ……」
崇は二人の背中を追って間抜けな声を出した。もっと詮索してほしかったのだ。
友人が消えたドアの近くに、数人の女子が群れていた。それが目に入るや崇は顔を顰めて元の姿勢に戻った。改めて昨夜の光景を思い出す。
崇は見た。初めて裏ビデオを見た。そして隠されていた真実を知ったのだ。
朝が来ると全てが違って見えた。特に女性が違って見えた。
崇は教室を見渡した。クラスのマドンナ南さん、幼なじみの沙弥、そして思いを寄せている佐倉さん。みんな、あんなものがついているのか。
窓の外に視線を戻し、崇はため息をついた。嫌だ嫌だ、人間なんて嫌だ。
「おーい、何してんだ?」
廊下から男子の声がした。
「ほら、コンドームだよ!」
さっきの友人が声を張り上げている。ぼんやりと聞きながら崇は思う。そういうことは金輪際嫌だ。これからは仏のように生きよう。
「コンドームに水入れてるんだよ!」
「すげえ、まだ入るぞ!」
廊下は大勢の男子で賑わい始め、誰かが叫んだ。
「みんな早く来いよ!」
崇はもう駆け出していた。
愛という字は
屋根の下に心と友
屋根の上には横殴りの雨風
友 反 友 反 友 反
鏡にうつる我の
愛でる行為は我を知る
義に殉じて戦死した
そんなことにつらすぎて
現実逃避に幸せになろうと
結局我は子をおろし
父母と同じ道を抜け
生きてる感謝と謝ります
死んだ人を二度も三度も殺す我
人の偽善がゆるせなく
我の偽善に気付かずに
寄生虫の我のまま
我のままに 義を通そうと
そんな忠義は自己矛盾
死人の屍口実に
生きる権利の寄生虫
人の痛みがわかるひと
そんな他人がほしすぎて
そんな自分は痛すぎる
なるしすと
成る死す人
家族四人で、ちゃぶ台を囲みながら昼食をとっている時、父ちゃんがきゅうりの浅漬けを頬張りながら何か思い出したように、あ、と声を上げた。
「そういやタク坊ももう十歳になったんじゃ」
それを聞いて母ちゃんも、あ、と箸を咥えながら言った。ボケている祖父ちゃんは口を半開きにしたまま、味噌汁の椀を見つめている。
「すっかり忘れとった。母ちゃん、糠床の用意だ」
「そ、そうね」
母ちゃんは台所に駆け込んでいく。一体、何の話か分からない僕は味噌汁を啜った。母ちゃんがプラスチックのバケツのような糠床を持ってきて、僕の目の前に置いた。父ちゃんは箸を休めて腕を捲ると「タク坊、頭貸せ」と言った。
父ちゃんは僕の後頭部をちょっといじった。パッといきなり頭がスースーし始めた。
「飯時に悪いな、じっちゃん」
祖父ちゃんがあうと唸る。父ちゃんは僕の頭から優しく持ち上げた、ピンクの物体を僕に見せた。
「これをな、漬けるんじゃ」
僕の頭は朦朧としていた。父ちゃんの話も理解出来ない。手元から箸が畳に落ちた。
「一晩漬ければええ。そうやって大人になっていくんじゃ。俺もじっちゃんもそうやって大人になってきたんだ。心配いらん、切った脳髄は二晩で元に戻る」
父ちゃんは僕の脳を糠床に入れ、丁寧に糠と揉み込みながら容器に沈めた。
「ようく漬かれ、ようく漬かれ」
僕は夢を見ているような心地だった。糠床の海で泳ぐ夢。脳は離れているのに、そんな光景が瞼の奥に広がる。母ちゃんが糠床の蓋を閉めて、台所に持って行った。僕は自分の脳の寝床を見る為、着いていく。
「タク坊もお願いするのよ。ようく漬かれ、ようく漬かれって」
母ちゃんは流しの下の醤油の瓶やら味噌のパックやらを出すと、冷えたその奥に僕の脳を収めた。僕は何とも恍惚にそれを眺めていた。ようく漬かれ、ようく漬かれ、僕の脳よ、ようく漬かれ。
「あら、これ何かしら」
母ちゃんがその奥に、もう一つ似たような容器を見つけて、引っ張り出した。蓋を開けると小蠅が数匹飛んだ。
「あら、ヤダ」
「どうした」
父ちゃんが様子を見に来る。母ちゃんは容器の中を見せると、父ちゃんが口を大きく開けて言葉を失った。
「お前、まさかこれ、じっちゃんの脳じゃねえかっ!!」
数十年間忘れ去られ、糠床に漬かり続けた脳を祖父ちゃんの頭に戻すと、祖父ちゃんはしゃきっと背筋を伸ばして、ものの一時間で脳科学に関する論文三十ページを書き上げた。
漱石の『吾輩は猫である』にある。二十四時間の出来事を洩れなく書いて、洩れなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう――と。だから、この世界のすべての事象を記録しているアカシック・レコードは、世界そのものよりも大きな存在ということとなる。それが世界の内に存在することは、不可能なのだ――。
「でも実際ここにあるんだな、これが」
私に対座する男の掌には、漆黒の小さな球体がある。それがアカシック・レコードであることは、今日の新聞の内容を昨日のうちに一字一句に至るまですべて正確に出し、それを一週間も続けたのだから、肯定せざるを得ない。
「なぜだ」
漆黒の小さな球体は、問いに答えることはない。その代わりに男が、アカシック・レコードは事象を記録しているだけのものであって理由を持つものではない、と答えた。
「なあ、いい加減こだわるのはやめたらどうだ」
男は私に付き合うことにいい加減に疲れてきたようだ。どこを見ているのかわからない目をして、掌で球体を転がしている。私が思索を続けると、間の抜けた声で、お前の次の問いは、と言った。腹が立つ、関係ない問いでもしてやれ。
「なぜ漱石がこれほど売れたのか。言っただろう、これに理由を訊いても無駄だ」
男に機先を制された。いや、今のは私がどうかしていた。私が急に問いを変えようが、それを含めてアカシック・レコードには記録されているのだ。力が抜けるとコーヒーが飲みたくなった。男の分も用意してカップを渡すと、男は急に驚いた顔を私に向けた。
「何を驚く。ただのコーヒーだ」
男はカップを受け取ると、ばつが悪そうに私から顔をそむけた。私がさらに畳み掛けると、男は、今は言えない、とだけ答えた。何なのかと思ったが、コーヒーが冷めてしまいそうなので、とりあえずそちらを先にした。
飲み終えたカップを流し台に置いて水を注ぐ。カップから水があふれるのを見たとき、私はふと気がついた。水道の蛇口を閉めて、男に駆け寄った。
「もしも私たちのいる世界の外の世界があって、アカシック・レコードはその外の世界の存在だとしたら? そして今ここにある球体は、私たちの世界の中にその一部が現れた形だとしたら?」
男は破顔した。
「お前が今その答えを導き出すと、ここにあったよ」
だがしかし、アカシック・レコードが私の回答の正否を示すことはない。漆黒の小さな球体は、男の掌にそこだけの闇のようにあるだけだった。
雲と空、つないだ手と手、さよならとこんにちは――そんな、何かと何かの境界からこぼれ落ちた言葉をいくも拾いあつめて――――僕は博物館をつくった。
「このお店……」三十代くらいの上品な女性が、展示物を見渡しながら僕に尋ねる。「いったい何のお店ですか?」
博物館は静かな住宅地の中にある。だからよく画廊か何かと間違える客がいるのだ。
僕は微笑しながら答える。
「申し訳ありません。ここは博物館なんです」
「博物館? じゃあこれは何ですか?」
「それは、おととしの秋にみつけた《ドングリとリスの境界からこぼれ落ちた言葉》ですね」
「ドングリと、リス?」
「ええ。もみじ狩りへ行ったときに森の中で拾った言葉なんです。読み方や意味は不明ですが」
「そうですか……」女性は展示された言葉をじっと眺める――自分の言葉を探すように――あるいは困惑しながら。「世の中にはいろんな言葉があるんですね……。初めて見る言葉なのに、どこかなつかしいような……」
ある老人は、きまって火曜日になると博物館へやってくる。
「《一万円札と売春婦の境界からこぼれ落ちた言葉》か。くだらん」老人は大抵の言葉にケチをつける。「どうせ意味など無いのだろう?」
「いいえ、意味を知ることが出来ないだけです」僕は老人に説明する。「ある研究によると、古い時代の人類は、そのような境界の言葉を自在に使いこなしていたそうですよ。もちろん、文献などは残っておりませんが」
「ふん。言葉というのはな、それぞれが別々に分かれているから意味があるんだ。あんたの集めてる曖昧な言葉なんて、そもそも言葉とは呼べんのさ……。なになに……《火曜日と老人の境界からこぼれ落ちた言葉》だと? これはワシのことか?」
あるとき、ふいに昔の恋人が博物館にあらわれた。
「元気だった?」彼女は、少し疲れたような顔をして言った。「あなた、また変なこと始めたのね……」
「別に変じゃないさ……。君こそ元気だったかい?」
彼女は何も答えず、展示物を興味なく眺めた。
「あなた、まだ詩は書いてるの?」
「いいや。詩なんて書いたことないよ」
彼女は軽く溜め息をついた。
「《流れ星と人さし指の境界――》か……。取って付けたような組合わせね」
「組合わせはどうでもいいのさ。そこに言葉をみつけることが大切なんだよ」
彼女は、僕を見て微笑した。
「あなたって何も変わらないのね……。そんな言葉、どこにも存在しないのよ」
この束の間の待ち時間、「CP対称性の破れ」について、お二人さんにお教えしよう!
ここに映画館の椅子。映画館の椅子、ひじ掛けに飲み物とか置けるホルダーあるね。このホルダーが今夜の主役。ホルダーに置くものは、コーラ(映画館にぴったりな飲み物はコーラ! オレンジジュースは軟弱な選択だ、ウーロン茶は廃絶されるべきだ!)、あるいは一番ちっこいポップコーン(キャラメルも認許!)。映画館の椅子をぐるりと環状に配し、円の内側向きにひとびとを座らせる。彼らは手に手にコーラあるいはポップコーンを揚げる。革命の民は鋤と鍬を手にする!
だが。自らの第二魂であるColaあるいはPopcornを、左右どちらのホルダーにおけばいいのか、彼らには、わから、ない。
馬手のホルダーにおけば、右の人は憤慨するやもしれず、かといって弓手のホルダーにおくのも躊躇ってしまう。しかし(そう、哀れな観客はこう考えて慄く!)、左右両方のホルダーが左右両方の金城の城主に押さえられれば、自分はホルダーを使えぬのだ、ああもはや! これはまさに我が国に相応しい喜悲劇だ!
そういうわけで。映画館の椅子のホルダーは、左右どちらにも属さなくって。しっかり対称性を保持してて。
だが。円環の一点で、一人の娘が動く。
美妙に滑る優しい黒髪を、風の滲む左手でやわらかくなでつけながら(これぞ我らの希求せしもの!)、右手に持ったPを、そのまま右のホルダーに差し込む! それを見た彼女の右の座席の英国風紳士は、しめたとばかりCを右のホルダーへ滑り込ます! その右の夫人も、微笑と共にPを右のホルダーへ!
ほらほらおわかりか!? CP対称性は破られたのだ、この連鎖で! ホルダーの所有権がどちら側に属するか、円環の全員に言い渡されたのだこの刹那! 草原を駆けくだる炎! まさに!
「ごめん、ちょっととり乱した」
私は座席にずるりずるりと沈みこんで一息つく。上映時刻まであと少し。
「ぶつぶつうるさいぞ」右に座る五つ上の姉がCを私の馬手のホルダーに置く。
「理系って自分の意味不明でキモい例え話に酔うよね」左に座る三つ上の姉がPを私の弓手のホルダーに置く。
この圧倒的な不如意を如何せん!
ちょっとふくれてみる。が無視される。照明がおちはじめ。私は自分の軟弱な選択を膝の上で支え。闇に乗じてお姉ちゃん達のCとPを勝手に頂くことに決める。繰り返す、これは、反乱である。
「本日は神戸肉を用意しました」
音声と共に、ある視覚情報が私に飛び込んでくる。それは、美しい霜降りの走った一級品の牛肉。生のままでも私の空腹を呼び覚ますには十分だった。
「これを溶岩プレートで旨味を逃がさずに焼きます。お客様、焼き加減は?」
「ミディアムで」
「かしこまりました」
『彼』は綺麗な色をした牛脂をプレートの上に走らせ、それを刻み隅に寄せてから肉を塊のまま乗せる。瞬間、脂の弾ける音と肉本来の香りが私を襲う。こうして目の前で実際に焼いているのを見るのはやはりたまらない。最高の贅沢だ。
肉が見る見るうちにその色を変えていく。『彼』は次にやたら刃の長い包丁とヘラのようなものを取り出す。そしてヘラで肉を固定し、包丁で肉を切り始めた。素早いその動作を目で追う内に、不思議な感動が甦ってくる。
――これは、あれだ。
母が林檎の皮をあっという間に剥いて皿に並べていくのを目の当たりにしたときと同じだ。あの、鮮烈で謎めいた衝撃。
やがて全ての肉が一口大にカットされ、何度かヘラで返された後、私の皿に盛られる。
「お待たせしました。塩で軽く味付けをしてあります。勿論そのままでも結構ですが、当店特製のソースか挽きたての胡椒でも美味しく召し上がれます」
私はすぐにフォークとナイフを手に取る。
まずはそのままで食べる。美味い。
次はソースで食べる。これも美味い。
さらに胡椒で食べる。これが一番美味い。「いかかでしょうか」
「美味いよ」
「ありがとうございます。来月は米沢牛などいかかでしょうか」
「是非お願いしよう」
そうして至福の時間は終わりを告げた。私は装着していたヘルメット型擬似五感デバイスを外す。そして指定された投入口に一万円札を入れる。
「またのお越しを」
『彼』の声が私をそこから追い出す。
前世紀末に某ウイルスで牛が地球上から死滅して以来、我々はヴァーチャルの世界でしか牛を食すことができなくなった。月に一度の贅沢、それが我々にとっての『牛肉』なのだ。
しかしながらいつも思う。私達が本当に食べたいものは『牛肉』なのか?
ぐぅ、と唸る腹。
私が指を鳴らすと立体映像の時計が表示される。
もうこんな時間だ。妻が夕食を用意して待っているに違いない。今朝はカレーカプセルだった。だから今夜もカレーカプセルだろう。
どのくらい眠っていたのか。屋上から大の字で見ている空は夕暮れ、遠くで蛙が鳴き始めていた。
ふらつく足に喝を入れて立ち上がり、やっとの思いで手摺に背を預ける。そのままビルの山に沈みつつある太陽をしばらく眺めた。
向かいのビルでは逆光に隠れるように人の影が蠢き、手摺は境界線のように思えた。
ふと足元に目をやると置かれたままの肩掛け鞄が目に入る。黒いナイロン製のよくある会社員のそれだ。辺りに人気は無い。
落とし主も困っていることだろうと交番に届ける考えが浮かんだが、ここからだと少し距離があり躊躇う。かといって見過ごすこともできない。
ここはひとつ中身を検め、大事であれば交番、住所が近ければそこへ、ごみなら見なかったことにしようと決めた。
鞄の中には雑多な書類に紛れてウイスキーの小瓶と手帳、厚みのある使い込まれた財布が入っていた。
手帳には日々の恨みつらみが書き連ねられている。
「僕は異物だ。消えてしまいたい。だけど君の事を思うと辛い」
最後のページにはそう書かれていた。財布に免許証と写真が挟まっている。写真には海外の風景の中寄り添う二人の姿が写っていた。夫婦なのだろう。
男の妻は美しい人だった。覚えのないその人。突然燃え上がるような欲情にかられ今すぐにでも抱きたくなった。
免許証にある住所はここの近所だったのでこの人を一目見てやることにした。
そのとき階段を駆け上ってくる数人の足音が響き渡り、にわかに辺りが騒がしくなった。
破るように扉を開け、誰もが自分などには目もくれずに手摺に駆け寄り、身を乗り出して声を上げる。
気が滅入る。まさか飛び降りたとでもいうのだろうか。
手帳に吐き出された愚痴は仕事が上手くいかない、人間関係が上手くいかないなど実にくだらないものだった。
そんな理由で死んだのか。馬鹿馬鹿しい。上手くいかなければ捨ててしまえばいい。
それにこんな魅力的な女性を妻に迎えてなんの不満があるというのか。写真のこの人は情に厚く懐が深いはずだ。きっと力を貸してくれたはずだ。
この鞄はいただいていこう。やつにはもう無用のものだ。
そしてこの女を犯す。そう決めた。
蛙の声にサイレンの音が混じる。それをかき消すような雑踏。これから抱く女の柔肌や嬌声を思うと自然と胸が高鳴った。
ドアノブを握り扉をくぐる。
塗り潰すような影の中、向かう所に帰るという思いが込み上げ目から涙が溢れた。
閉店後の喫茶店のがらんとした店内に一匹の猿がいた。テーブルに置かれたジョッキの中身はビールでなくて珈琲だった。
「よく冷えたレイコーは生ビアーよりイカスぜ」
猿はステンドグラスを透過する月光をうっとりと眺めながら、よく冷えた珈琲を流し込んでは、教会のような室内の、天井裏に潜む鼠たちの足音を探した。
トンチントン、トチチリチン。
(こりゃあ白鼠の姉さん、ハデに踊ってやがるな)
猿はふと思いついてカウンターからコッペパンを持ってきて、フォークに刺したパンを、鼠のダンスにあわせて動かした。
とんちんとん、とちちりちん。
(姉さん、イカスぜ)
いい踊りだな、と気持ちよくなっていると、やがて天井の鼠の一匹が降りてきて、猿にお辞儀をした。
「待ってくれ。姉さんに頭さげられちゃ……そうだ。このパン貰ってくんねえか。いや、もっといいもんあったよ」
猿は再びカウンターへ戻り、ミッキーマウスの絵柄のクッキーを取ってきた。
「姉さんがチョイ大きくて、人間のぬいぐるみを着れたら、一緒にデズニーランドで踊れるのになア」
猿がクッキーを手渡すと鼠はチイと鳴いていつのまにか姿を消した。
「そろそろ出かけるか」
猿はスタッフ用更衣室にてロン毛のかつらをかぶり、三島由紀夫の体型そっくりのボデイスーツを身につけて、喫茶キムタクを出た。
猿が月と反対方向に歩いていると、「猿山さん!」と、礼儀正しさと無頼さが相まった味のある声がして、猿が振り向くとやはりその声は久保内象だった。
「もしかしてクボゾーちゃんもアレ行くとこかい?」
「ええ」
「もしかして武林小僧も来てる?」
「ええ、タケゾーばっちりですよ」
二人はやがて「ガッツリ買いまショー」というタテ看板のあるビルに着いた。受付は珍しく男が立っていて長身で全身黒づくめで見るからに猿への殺気のようなものでみなぎっていた。
(まるで剣豪のようだ……)
猿はビビリながらも受付を終え会場の屋上へ上った。東京湾を渡ってくる海風が心地よく、三島スーツの熱気も風の中では気にならず、異様な剣豪のことも忘れて、猿はいい気分だった。
まもなく久保象が武林他数人とやってきて、
「ほらキムタクのウエイターの猿山さんです」
と皆に紹介してくれたので猿は少し照れた。だが何より猿の心を捉えて離さなかったのは、熱心に今日のブツを選ぶのに夢中である一人の女性の立ち姿で、猿はもう三島スーツなんか破き捨てて、一匹の猿として彼女を抱きたかった。
縁側で猫の喉を指先でこりこりしているときだった。ぽとり、と何かが落ちる音がした。
庭には柿の実が一つ落ちていた。庭に生えているものの一つが何かの拍子に落ちたのだろう。
私が差し出した手に体を擦り付けて寝ころんだ猫を裏返し、私は草履を履いて庭に出てその実を拾った。猫は私が離れていくのを惜しむように「みえお」とないた。
少々土がつき、また地面に落ちた所為で少々つぶれてはいたが、食べられない代物ではない。
私は心を躍らせ、この燈色の実を食すべく台所へ向かった。
水道水で洗い、ヘタを取り、六等分する。若干熟れ過ぎている気もしたが、私はむしろその方が好きなので放っておいた。包丁で丁寧に種をとり、爪楊枝を一本、等分した実の一つにさし、六つ全てを皿に乗せて縁側へ戻った。先ほどまで寝ころんでいた猫は澄ました顔でちょこんとそこに座っていた。
ひとつ、口に運んだ。歯で果肉を押しつぶすと同時に果汁が口に溢れた。私はそれを余すことなく口に入れ、舌の上で少し転がしてから胃袋へ流した。よく熟れた柿の芳醇な甘味が舌を覆った。粘りのある果汁が前歯の裏に張り付いたので、舌の先でなめとった。同様にふたつめも口に入れる。私はふと猫の方を見た。するとその猫はもの欲しそうに私の口元を見つめているではないか。
私は少し可笑しくなって、みっつめの実を小さく分けて猫の前に置いてやった。猫はぺろぺろとその実をなめ始めた。するとどうだろう。猫は急に奇怪な声をあげ、泡をぶくぶくと噴いたかと思うと、今度は赤い臓器を口から吐き出して絶命した。私はあまりのことにうろたえるでもなく叫ぶでもなく、ただただ絶句していた。
後になって考えてみた。あの柿は果たして本当に庭の木のものだったろうか。私は落ちる瞬間を見てはいないし、また確認もしなかった。只単に猫が柿のアレルギーか何かだったのかもしれない。しかしもしあの柿が、あの強力な毒が、隣人による私への殺意の証であったならば、と思うと、私は恐怖で震えてならない。3年たった今、その真偽を推測すること自体が愚鈍なことのようにも思える。
だが、たった一つ私が言えることは、私は柿が大の好物だということだ。
雷に打たれたその瞬間、僕の体は小さく縮んでカエルの姿になっていた。最初は驚いた。見える景色が一変した。体の感じも全然違う。戸惑う僕を置いてけぼりに、遠い空で轟く黄色い筋が憎かった。
暫く途方に暮れていた。しかし悩んでいても仕方ない。元来こういった事には慣れている。全てを前向きに生きていこう。僕は心にそう決めた。
気付いてみればこの体、どうやら小粋な雨ガエル。徒に蓄えていた口髭は緑の細長い二本の髭となり、どうだなかなか立派なもんだ。
思考がこう働けば早いもの。自慢げに二本の髭をピクピクさせてみる。すると眼下から誰かの声が聴こえてくる。
「あぁ、なんてこった! 体がミミズになっちまったよ! 明日は大事な会議があると云うのに。よりによって何でミミズなんだ!?」
ミミズが一匹嘆いている。頭部をクネクネ動かしている。またおかしな蝶ネクタイを着けている。しかし、そのネクタイには見覚えがある。このミミズ、どうやら先まで僕の隣に居た課長だと理解した。
僕は課長がヘビに化けなくて良かったと思った。これまでに行ってきた徳によって、化ける体の大きさが変わるのかもしれない。僕は半ば反射的に目の前のミミズをぱくりと食べた。
カエルになったあの日の満月が、細くなって、無くなって、またまん丸になった。人生が一転してから一ヶ月が経っていた。
仕事には追われない。体にも慣れて不自由ない。不景気? そんなもの関係ない。この町は食料で溢れている。巧みなハエの捕り方を教えてあげようか?
日中は公園にある噴水の縁にぴたりとくっ付き、気長に一日涼んでいる。嫌いな上司がヘビにならなければ、この世界、結構気楽にやってける。
人間だった頃の彼女を見つけた。彼女もカエルになっていた。僕は嬉しかった。夫婦(めおと)ガエルだと喜んだ。これから夫婦重なって、二人でのんびり生きていこう。僕は彼女の所へピョンピョン跳ねていった。
彼女の体は僕よりずっと大きかった。牛ガエルだ。やったね!彼女。毎日真面目に働いてきたのがここにきて報われたってもんだ。僕は彼女に声を掛けた。
「よぉ! 元気?」
「元気じゃないわよ! こんな体でどうやって生きていけって云うのよ!」
「意外とやってけるもんだよ」
「何云ってんのよ! こんな醜い体やんなっちゃう!」
「そんな事ないよぉ。とても素敵だよ?」
「え〜ん、え〜ん……。グォゥグォゥグォゥ」
「ケロケロケロ……」
むかしむかし、とおいとおい異国の地に立派なお城がありました。
そこには領主様と、たいそう美しい奥様がすんでいました。領主様はまわりではしらない人がいない立派なおかたです。
領主様は何不自由ない暮らしをおくっていたのですが、たったひとつ、たったひとつだけ悩みがありました。
「どうして私は、子宝にめぐまれないのだろう……」
奥様とはたいへん仲がよろしかったのですが、子供ができなかったのです。いろんな方法をためしたのですが、いっこうにききめがありません。
ほとほと困り果てた領主様は、おふれをだしました。
「だれでもいい。ききめがあった者にはほうびをやる」
おふれをだしてからしばらくすると、ひとりの男がやってきました。男はまっくろな衣に身をつつんで、たいへん気味がわるかったのですが領主様は威厳をくずさずにたずねました。
「おまえにはできるのか?」
「もちろんでございます。効果がなければ、いかようにしてくださってもかまいません」
そういうと男は、領主様にあるじょうけんを出しました。
「奥様におまじないをかけますので、そのあいだは誰もちかづかないようにしてください。それと、けっしておまじないの方法を奥様からきいてはなりません」
言われたとおり男がまじないをかけているあいだは、領主様も家来も奥様の部屋にはちかづくことはありませんでした。そして、まじないの方法をいっさい聞くこともしませんでした。
まじないから一年がすぎると奥様に似たかわいい女の子がうまれました。領主様はたいそうよろこんだのですが、すぐにまた悩むことになりました。
「この城のあととりとなる男の子がほしい……」
領主様はふたたびあの男をよびだしました。
こんどもおなじように、奥様にまじないをかけているあいだは領主様も家来もちかづきません。そして、まじないの方法をけっして聞くことはしませんでした。
まじないからふたたび一年がすぎると、奥様に似たげんきな男の子がうまれました。領主様はそれはそれは、たいへんよろこびました。
「そうだ、あの者にほうびをやらないとな」
領主様はみたび男をよびだしました。しかし、男はどうしたわけか、ほうびをうけとろうとはしませんでした。
「めっそうもございません。わたしにとってのごほうびはこの二人のお子様ですから」
喫茶店に入る。足首に纏わりついていた雪が解け始め、鈍い冷たさに変わる。
「七瀬さん、こっちです」
声のあった方に振り返ると、そこにはすでに持田がいた。高校卒業以来七年ぶりの再会だが、彼女の容姿にはほとんど変わりがない。
「悪いな、急に」
「いえ、私もみんなの話とか聞きたかったですから」
俺達は同じ高校の美術部に所属していた。俺は部員達の現状など知らなかったので、話は自然と昔にスライドし、いつしか彼女の俺に対する呼称も「先輩」になっていた。彼女は確かに変わっていなかった。こんな風に笑う少女であった。
少しの間のあと、持田が口を開いた。
「それにしても、先輩も変わってないですね」
「そうか」
「まだゲーム会社で働いてるんですか?」
「……いや、それはもう辞めた。今は、北上してる」
「北上、ですか?」
俺はゲーム会社のバイトを辞めてから無職になった。描く場所もないが、それ以前に何を描けばいいのかわからなかった。だからとりあえず旅に出た。
「ひたすら北に向かいながら、絵を描いてる。お前も来るか?」
冗談めかして言ってみる。だが彼女は笑わず、困惑顔を浮かべている。
「すいません。その、仕事があるので」
「……仕事?」
忘れていた。彼女と俺は違うのだ。
「平日のこんな昼間に俺なんかといて大丈夫なのか」
「ええと、はい、家でできる仕事なんで」
「ひょっとして、絵の仕事か?」
「はい。最近になって、絵本の挿絵とか、そういう仕事を色々頂けるようになって」
「そうか。好きな絵が描けてるのか」
「はい。充実してます」
「それは、いいことだな」
「先輩」
「頑張れよ」
「あ……はい!」
その時の彼女の笑顔を、俺はかつて一度だけ見たことがあった。
一年生でありながら、部内でただひとり選考会を通ってしまった時の笑顔だ。
その後、持田は仕事があるからと店を出た。
彼女の座っていた席をぼんやり眺めていると、いつ描いたのか、結露した窓に絵がひとつ描かれていた。
無意識のうちに俺はその絵に触れていた。
彼女の絵は繊細で、しかし大胆だった。七年経って、たとえ窓ガラスの絵でも、それは変わっていない。
しばらくすると、掌の熱で絵は流れ、やがて消えてしまった。俺は苦笑して立ち上がり、これからさらに厳しくなる寒さを思い、外に出た。
今日久しぶりにアイスクリームを買った。
三月半ばの少しだけ暖かい日。暖かいといってもそれはここ数日の気温と比べてのことで、実際はまだまだ肌寒い日が続いている。
こんな時期にアイスを買って食べる人間はあまりいない。それでも僕は買うことにした。
ふと空を見上げる。
段々と日が出ている時間が長くなってきているとはいえ、流石にこのくらいの時間となると少しずつではあるが紺色が広がってきている。
見ていたら少しだけ寂しくなった。
今更だが僕は別にアイスクリームを食べようと思って買ったわけではない。
アイスが好きなのは妹のほうだった。
僕の二つ下の妹は本当にアイスが好きで、小さい頃からそればかり食べていた。
あいつの姿を思い出そうとするとアイスを食べているところばかり頭に浮かんでくる。他のものを食べていたこともあった筈だが、残念ながら思い出せるのはアイスばかり。
何故そうなったのかは分からない。
でも本当に好きだった。ほとんど中毒者の域だ。
アイスクリーム中毒。
変な言葉。まるで漫画やアニメの中みたいだ。
でも、そんな妹はもういない。
もう丸一年ほど経つだろうか。
暖かい我が家へ帰っても、当前のようにアイスを頬張っている妹はそこにはいない。
それはやっぱり少しだけ寂しくて、そして悲しいことだ。
空が紺に染まる前に家に着いた。
いつもなら入ってすぐ自室に向かうのだが、先ほど買ったアイスを冷凍庫にしまうのが先だ。僕は真直ぐにキッチンに入った。
「おーっふ、おはえり」
その途端聞こえるはずの無い声が聞こえた。
目の前に広がる光景。記憶の中にあるとおりにアイスを頬張っている妹の姿。
僕はただ立ちつくす。
そして一言も発することのない代わりにゆっくりと涙が頬を伝っていく。
「ちょっと何泣いてんのさ。春休みだから帰省してきただけでしょうが」
そんな僕を見て驚いた声をあげる妹。
そうただ帰省してきただけ。
去年全寮制の女子高に入学した妹はこうした長期休講の時しか家に帰ってくることが出来ない。
その程度のことだと頭ではわかっているが、どうにも涙は止まってくれない。
「……まったくたった一年でこれだもん、全然妹離れ出来てないんだから」
少し呆れたように、でもほんの少しだけ嬉しそうに妹は言う。
本当自分でも駄目だなと思う。
でもごめん。
君がアイス離れ出来ないように、僕もまだまだ妹離れ出来そうにないよ。
同寮の山口くんは身長がとても低い。
僕も背は高い方ではないが、山口くんの顔がちょうど僕の肩辺りにくるものだから、悪気はないのに急に振り向いたとき肘打ちを見舞ってしまうことが何度かあった。
おかげで僕と山口くんの間には、常に微妙な距離感が保たれているのだけれど、その距離が少しだけ縮まるのは、たいてい色恋に纏わる話をするときだ。
そんな山口くんが最近気になっているのが事務の美奈子さんだというのを聞いて、思わず買ったばかりの缶コーヒーを落としそうになった。身長は辛うじて同じくらいではあるが、美奈子さんは年上の僕らに対しても気兼ねなくはっきり言う女性である。おかげで事務所の緊迫感が保たれていると上司から聞いたことがあるくらいだ。
確かに美人ではあるけれど、僕は苦手なタイプなこともあって美奈子さんが話題にのぼることはまずないと思っていたのに、山口くんはすでに美奈子さんの家族構成から好きなお笑い芸人までリサーチ済みだった。
山口くんは小さいだけあって、たまに驚くほど俊敏な動きを見せるときがある。まさか日曜日にデートをすることまで決まっていたとは、口に含んだコーヒーを少なめにしておいて助かった。
こんなところまで動きが早いとは、今までの山口くんをみくびっていたようだ。何よりもあの美奈子さんが山口くんの誘いを承諾して、しかも休日を一日空けてまでデートをするなんて、これはもしかすると西谷くんが素人童貞(風俗はよく利用するらしい)を捨てる可能性だってあるかもしれない。
僕の方が俄然盛り上がってしまったのだけれど、これからというときに休憩時間終了のベルが鳴ってしまう。こんなチャンスは滅多にない。いや、もう訪れないかもしれない。ただ相手が美奈子さんとなると一筋縄ではいかないだろう。仕事中も山口くんへどうアドバイスすべきかばかりを考えていたのに、残業が終わるとすでに山口くんは退勤したあとだった。
月曜の朝。いつものように古臭いイージーリスニングが流れる中、足早に先を急ぐ人の波に押し流されていた。
安全掲示板を左に曲がると人波は途切れて、後ろから近付いてくる人の気配を感じた。名前を呼ばれて無意識に振り返ると、肘に何か硬いものが当たる感触が……。
またやってしまったようだ。
そこには左頬を押さえて、しかめっ面をしている山口くんがいたのだが、その表情は次第にはにかんだ笑顔に変わってゆくのだった。