第80期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 点対称 三毛猫 澪 1000
2 美少女X アンデッド 991
3 お迎え Loc 886
4 チャイム みう 666
5 ソー・テンダー りんりん 987
6 自殺願望 ゆうき 689
7 satosi 877
8 私の愛のカタチ。 のい 733
9 夕焼け ベル 836
10 つまらない日々 1970 1000
11 普通の女 孝子 760
12 バタイユ 六花 923
13 橋の上 866
14 ヤマダさんち 虎太郎 972
15 お前は計画性がないよな 962
16 エッダの末裔 壱倉柊 1000
17 『蒼の帳』 石川楡井 1000
18 ありがとう SANA 980
19 春だった 河内伝太郎 843
20 警部エドガーの憂鬱 山崎豊樹 1000
21 パソユタさま えぬじぃ 1000
22 ばべぼぼぼべべ qbc 1000
23 空色 ei 982
24 じいさんと乙姫 甲斐千春 615
25 能面の話 1000
26 ティッシュの言葉に魅入られて 日下ヒカル 995
27 白いブランコの少女 新田大輔 1000
28 先生が生きている 川島ケイ 1000
29 友哉とその後 クマの子 1000
30 ウナギ わら 1000
31 真夜中の踊り場でキスをした 979
32 翼の夢 黒田皐月 1000
33 夢見たい 芥川ひろむ 968
34 ある夜明け UG 1000
35 紅玉 高橋唯 1000
36 午後の逢引 宇加谷 研一郎 1000
37 白い髪の女 euReka 985

#1

点対称

 赤色をしたテキストとの睨めっこに疲れた午前零時。気晴らしで開いたブラウザには噂の動物園が紹介されていた。自然に近い環境がウリらしく、ペンギンたちが嬉々として雪の舞うプールに航跡を描いていた。その端っこに「サファリゾーンはこちらです」という案内板がちらりとみえた。
 息抜きなんかやっている場合じゃない。現役で合格しなきゃ。
 夕食でのことだった。うちは浪人生を養えるほど裕福じゃないんだよと、疲れた父の背中が無言で語りかけてきていたのを思い出す。
 そう、やってるよ。ほんと。もう二年も前からずっとさ。クラブとか恋愛とか、他にもやりたかったことは沢山あったけど、ぜんぶ頭の中から追い払い、そんなものはこの世に存在しなかったことにして。まるでブリンカーをつけられた競走馬が脇目も許されずトラックを周回し続けるように。ぐるぐると、陽が暮れてもひたすら走り続けているよ。
 進学塾なんて贅沢も望まなかった。センターまでなら自力でどうにかなるから。でも、難関って形容がつく門は思った以上に狭くて、寒い。
 もう、凍えそうだよ。
 あの動物園のサファリゾーンにはどんな動物が暮らしているのだろう。やはりサファリゾーンっていうくらいなのだから、ライオンやシマウマがいるのかな。
 なぜか気になり、その動物園のHPを検索してみた。
 やはりいた。
 映し出された画像は、青々と茂った草原を背景にした、のどかな風景だった。きっと夏に撮影されたのだろう。サバンナを模した広大な敷地に草を食むシマウマたちがいる。でもその瞳はなぜか虚ろで、底の見えない穴のようにぽっかりと黒かった。たぶん遥か故郷に浮かんだ白い雲など見詰めているのだろう。
 だけどいま季節は冬。青く茂った草原も枯れ野原でしかない。それどころか雪に埋もれ雪原と化しているはず。優雅な散歩なんて夢のまた夢。鉄格子の嵌ったコンクリートの箱の中へ放り込まれ、青空を望むことさえ叶わない。お前はただ、閉ざされた空間の中で壊れたおもちゃのように、ひたすら同じ場所を行ったり来たりするだけ。
「かわいそうに」おもわず私はそう口ずさんでいた。
 ブラウザを閉じパソコンの電源を切る。
 数秒の後、ディスプレーは真っ黒に落ちた。
 その漆黒の底に自分の顔が沈んでいるのに気づきハッとした。
 こちらを見ている私の眼は、シマウマの瞳にそっくりで、まるで心を宿していないかのような空虚な色に染まっていた。


#2

美少女X

 朝のバス停で、いつもと変わらず立ってバスを待っていた。
 今日は普段より早い時間帯に登校しているのもあって、歩道に人通りは少なかった。
 朝なのにしんとした静けさだけが耳に響く。停車位置となる標識のポールもどこか寂しげだった。

 季節は夏に差し掛かっている。さっきまでは細かい雨も降っていた。
 梅雨時なのもあって粘りつくような空気だ。朝方にも関わらず、じんわりと汗が滲む。
 たまに車が通り過ぎると、生暖かい風が身体に絡みついていった。
 そんなことを考えると余計に鬱陶しくなるから、なるべく考えないことにした。

 標識の右隣でバスを待ちながら、ぼんやりと空を見上げる。
 そこは、梅雨空特有の綿を広げたような雨雲で一杯だった。

 ――タッタッタッタッタッ。

 不意に、誰かが駆けて来る靴音がした。
 音のした方へ振り向むくと、ローファーを履いた女子高生が立っている。
 軽く息を整えているのだろう。白いブラウスがそれに合わせてゆっくり揺れていた。
 バッグを持つ左腕は華奢なのにどことなくしっかりとしていて、膝上のスカートからすらりと伸びた脚には、紺色のハイソックスがよく似合っている。
 彼女は右足のつま先を立てると、地面をコンコン、と蹴った。
 そしてバッグを逆の手に持ち替えながら、スッと右側に並んでくる。
 その勢いで、スカートの裾が少し翻った。
 空気と共に、何とも言えない甘くて淡い香りが微かに漂ってくる。
 微香を辿った先には、腰まで届きそうな滑らかな黒髪。それが緩やかな川のように、さらさらと流れていた。
 加えて、透き通るような白い肌と、光を帯びて揺らめいている漆黒の瞳――。
 彼女の強い存在感は、脳髄に直接訴えてくるぐらい活き活きとした印象を残していた。まるで周りの景色から切り離されて浮き上がっている。
 近くで胸元を見ると、ブラウスが透けていて薄く下着が見えているのに気づいた。さっき降っていた小雨のせいか。
 その視線に感づいたのか、彼女は顔をこちらに向けると綺麗に整った眉をひそめた。
 しっとりとした唇が力強く動く。

「どこ見てんだクソガキ」

 その冷たく澄んだ声が耳の中に入ってくると、途端に頭の内側でドスを利かせて反響した。
 この世の物とは到底思えない眼光が、尚もこっちを射抜いている。
 張り付けにされた全身の血液は完全に凍りついて、ランドセルの肩ベルトを掴んでいた両手が、ガタガタ震えた。


#3

お迎え

 午後二時。
 幼稚園のプール教室に通う娘を迎えにいく時間となった。
 気が進まないが、生活パターンを変えて、近所から無用な関心を引いてしまうようなことはしたくなかった。
 家を出ると、お盆休みの時期のためか、街中に普段の喧騒さはなかった。
 太陽の日差しが、やけにまぶしく感じられた。

 幼稚園に着くと、娘の担任が職員室の窓越しに声をかけてくれた。
 窓辺の風鈴が涼しげな音を立てている。
「あら?アサミちゃんのお母様……。残念でしたわ、すれ違いになってしまいましたね」
「すれ違い?ですか?娘は一人で帰ってないはずですが……」
 先生は一瞬困ったような顔をしたが、職員室から出てきて説明してくれた。
「もちろん、園の規則では園児一人での帰宅を禁止していますが、たった今、アサミちゃんのお父様がお迎えに来てくださったんですよ」
 先生の一言に、私は戸惑いを隠せなかった。
 一瞬、強い風が吹き抜け、風鈴の音が激しく鳴り響いた。
「主人?主人は……、外国に出張中で迎えに来られないはずですが……」
 先生は、とっておきの知識を披露するのがおもしろくてたまらないという口調で、
「アサミちゃんのお父様もお人が悪いですね。お戻りになったことをお母様にも内緒にされていたとは」

 そんなわけはない!
 旦那が娘を迎えに来られるわけはないのだ。
 一ヶ月前、ちょっとした口論がきっかけで、カッとなって旦那を刺し殺してしまい、バラバラにした死体を袋詰めにして、山に埋めてしまったのだ……。
 いつの間にか風は止んでいて、風鈴の音は途切れていた。
 園庭は、真夏の日差しを受けて白く乾ききって、凪いだ海のように静まり返っていた。
 ただ、どこからか耳鳴りに似たセミの鳴き声が聞こえてくる。
 呆然と立ちすくむ私に、先生は微笑みながらこう付けくわえた。
「突然のことなのでアサミちゃんもびっくりしていましたけど、とても喜んでいましたわ。お父様もアサミちゃんに会うのは一ヶ月ぶりとのことで、本当に嬉しそうでした。『アサミ、迎えに来たよ。お父さんと一緒に帰ろう』って、仲良く手を繋いでお帰りになりましたわ」


#4

チャイム

緑は自分の部屋で眠っていた。
今日、学校を早退してきたのだ。
緑は子供のころから体が弱く運動もこれといってできるものはなかった。
緑の家族は母と父だけだった。二人とも仕事が忙しく、家にはほとんどいない日がつづいていた。
いつもは一人になれている緑だが、今日はとくに孤独をかんじていた。今日は授業参観だった。
中学生にもなって親が授業参観にくるはずもないと思っていたのに、友達の母や父はきていた。恥ずかしがりながらも自分の両親を紹介する友達をとてもうらやましいとかんじていた。
きっと二人とも今日が授業参観だということも知らないだろう。
そう思うとむしょうに孤独をかんじてしまう。
どうせ私は一人ぼっちだ。と緑は思った。きっと母も父も私のことなんてどうでもいいのだ。と思った。
とそのとき玄関からチャイム音がした。
重い頭をあげながら緑は玄関へとむかった。
そこには友達がたっていた。
「大丈夫?一人なの?」
どうやら心配してきてくれたようだ。
ふつふつと感謝の気持ちがあふれてきた。友達が帰り、またベッドに戻った緑は私は一人じゃないのかもしれないと思った。
そう考えるとちょっとうれしくなり、天井にむかってニコっと笑った。
さっきまでかんじていた頭の痛みがすこし和らいだようにかんじだ。
とそのとき二度目のチャイム音がなった。
でようとするまえにだれかがいそいでいるようなパタパタという足音が聞こえた。部屋のドアが開く。入り口に母と父がたっていた。
「大丈夫?学校の先生からきいたの」
たしか今日は二人とも会議があるときいていた。二人とも呼吸が荒い。
緑はニコっと微笑んだ。


#5

ソー・テンダー

(この作品は削除されました)


#6

自殺願望

「今から死のうと思うんだ」
 俺はポツリとつぶやいた。隣にいる友人が、心配そうに声をかけてくる。
「おいおい、馬鹿なことを言うなよ。一体、原因は何なんだい?」
「俺の体は病気に冒されてるんだ。他に例のない奇病らしい」
 そうなのだ、俺の体は悪性のウイルスとでも呼ぶべき存在によって蝕まれている。突然変異種であるそいつらは瞬く間に数を増やし、今や俺の体中が奴らのねぐらだ。
「うーん、確かにそりゃ聞いたことの無い例だな。体の具合は悪いのかい?」
「酷いもんだよ、体中が毒まみれなんだ。熱も少しあるみたいだ」
 こいつらの恐ろしいところは、その繁殖力と進化のスピードにある。あっと言う間に体中に広がり、様々な症状を引き起こす。
 おそらく俺の体も長くは持たないだろう、くたばるのは時間の問題。ならせめて、最期は苦しまないように自分の手で幕を引きたい、尊厳死というやつだ。
 そう告げると、友人は悲しそうにうなずいた。
「分かった、そういう事情なら止めはしない。しかし、君の症例はある意味貴重ともいえる。少しもったいない気もするな」
「おいおい、当事者じゃないんだからそんなことを言えるんだよ。なんなら分けてやろうか? 実際、こいつらは君の体にも興味を持ってるみたいなんだぜ。ほっとくと移り住むかもしれんぞ」
 そう言うと、さすがの友人も後込みしたようだ。
「すまん、そりゃ勘弁だ……それにしても寂しくなるな、君とは本当に永い付き合いだったもの」
「まあ仕方ないさ。ま、他の連中にもよろしく言っておいてくれよ。じゃあな……」


 ――その日、地球は自殺した。火星の見守る前で…… 。


#7

(この作品は削除されました)


#8

私の愛のカタチ。

否定される言われはないわ、だってこれが私なんだもの…

貴方が好きよ
貴方を愛しているわ
きっと貴方も私を好きになる、きっと貴方は私を愛すようになるわ

ピリリリリー
斎の携帯が鳴った。
「…んぅ、もしもし?ん?」
「誰?」
「ん?彼女だけど」
「そうなんだ、どうなの?彼女とは上手くいってるの?」
私は口元を引き上げ斎を茶化した
「ふっまあね、悔しかったら瑠璃も彼氏つくれよ」
斎はニヤリと私に笑った
「なによーぅこれでもモテるんだから、彼氏くらいつくるわよ」



しばしの談笑のあと私は斎の家を出た。
私達は従兄弟だ、なんら不思議ではないのだ。

「知ってた?斎、従兄弟とは結婚…出来るんだよ?」
閉じた扉に向かって私はそれだけ呟くと歩き出した。

…二週間後。

「はぁ…急に彼女と連絡とれなくなっちまったよ…」
「えー?いつから?」
「うーんもう二週間位…俺…なんかしたかなぁ?」
「もう忘れちゃえば?斎とは最初から合わなかったのよ、ねっ?」
「携帯も繋がんねーしな…はぁまだ二ヶ月だったのによー」
「まあまあ、これでも食べなさいよ」
私は斎の前にカレーライスを出した

「おっ美味そう!」
斎がカレーにスプーンを入れ混ぜた
「なぁ、具肉しかねーの?」
「うーん、お肉が有り余って困ってるの、食べてよ」
「何の肉?牛?」
「まぁ…牛に似てるけど豚よ豚。」
「ふーん?」
パクリッ
「んっこの肉あんまり美味しくねーな」
「そうなの、だからカレーなのよ、カレーっていろんなものに合うから」

私もカレーを口にした、(まずい、雌豚の味、私をこんなに苦しめて…)
「でも瑠璃料理上手くなったよなぁ、俺瑠璃を嫁に貰おうかな」
にこやかに食事を続ける斎
(そうよ、もっと食べて、そして私の愛を受け入れて…)


貴方が好きよ。愛しているわ


だから次は貴方を食べてあ・げ・る。


#9

夕焼け

(この作品は削除されました)


#10

つまらない日々

 聞き飽きたチャイムの音が鳴り響いた。このチャイムは予鈴というやつで、五分後には五時限目の始まりを示す本鈴が鳴る。
「時間が経つのは早いわね」と木村美樹は呟く。
「全くだね」僕は頷いて、椅子から立ち上がる。
「今日はありがとう」彼女はいつもの笑顔を取り戻していた。
「どういたしまして」僕も笑顔を返す。
 ふと、なんだか昔に戻ったみたいだな、と思った。しかし、一年という時間が生んだ壁はあまりに高くて厚い。僕はもう彼女に恋心を抱くことはないだろうし、たぶん彼女もそうだ。そもそも、僕が彼女の恋愛対象だったことなどなかったのかもしれない。僕達は人の波に乗って図書室をでる。喧騒に満ちた廊下の空気は、どこか清々しかった。それは図書室に篭っていたからか、彼女との話に夢中になっていたからか。たぶん両方だろう。
「それじゃ、またね」
「うん。またね」
 彼女は別れの言葉を言うと、僕を残してその場を去った。まったく、昔から上っ面だけはどこまでもお嬢様だ。きっと次の授業に出るのだろう。あんな話をしたあとなのに――
 僕は授業に出る気分にはならなかった。そして「授業なんて、つまらない日々の繰り返し」なんて思っていた。きっと、彼女との会話のせいだ。
 吉井先生を殺してやるのよ。
 図書館で彼女はそう言った。その後、「冗談よ」と言って笑ったけれど、彼女がそんな笑えない冗談を言うとは思えない。
 つまり彼女は本気なんだ。本気で吉井先生を──

 いつ殺すんだろう。どうやって殺すんだろう。――そもそも、なんで殺すんだろう。
 彼女は殺意以外は何一つ語らなかった。
 ……いまさら問いただす気分にもなれない。自分で調べよう。そうすぐには殺さないだろうから。
 気付けば僕は廊下にぽつんと独り。廊下はさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。 それから五秒と経たずに本鈴が鳴った。
 風邪で休んだことはあっても、サボったことはない。だから、僕はこういう時どこに行けばいいのかわからない。
 帰ってやろうか、とも思ったけれど、途中で誰かに呼び止められるのは嫌だった。
「…………はぁ」
 深いため息をついた後、僕の足は教室へ向かっていた。結局「つまらない日々の繰り返し」の中にしか僕の居場所はないのだ。
 まあ、いいや。どうせ、5時限目の内容など頭に入らない。だったら、彼女と彼女の殺意について考えを巡らしてやろう。


#11

普通の女

 変わり者だよね……前の夫に、何度そう言われたことだろう。
わたしは昨日まで重かったお腹を撫でながら、彼と、生まれてくるはずだった赤ちゃんのことを考えた。
 前の夫が再婚した。そしてそれと同時にお腹の子は消えてしまった。
 心に、穴が空いた。
 やはりわたしは変わり者なのだろうか。今の夫は、わたしの生い立ちを知った時、信じられないという顔と、失敗したとしかめた顔をした。そして気味悪がるような様子さえ見せた。普通だったら悲しむのだろうけれど、わたしはそれを気にもとめなかった。
 しょうがないよと思った。でも、どうして今になってそんなことを思い出すのだろう?
 わたしは普通の女だったらよかった。

 彼が再婚した日から三日が過ぎた。心の穴は何かを求めていた。
 冬。照る太陽さえも歯が立たない寒さの中、わたしはいてもたってもいられなくなり、ティーシャツに短パンだけで元夫の家へ向かった。ぼさぼさの髪はそのままに、化粧もせず異様に小汚い姿で。
 慰めて欲しい悲しんで欲しい――そんな気持ちで胸がいっぱいで、このときは自分のしていることが非常識だなんて思えなかった。


 見慣れたマンションの前に着くと、四階のあの部屋のベランダを見上げた。
 わたしには、懐かしい家に帰ってきたという気持ちが自然で、今は新しい家庭があってわたしは他人なんだという考えが不自然に思えた。
 見慣れた狭いエレベーターに乗って、いつものように四階を押して着いたら廊下を十五歩ぐらい歩いて玄関の前に立つ。そしてそのドアを開けて、「ただいま」と言ったって構わないんじゃないかと思った。
 元夫は少し驚いた顔をして、優しく迎えてくれるんだ。「遅かったね」って。そして、わたしは泣いてもいいのだ。
 前を向き、歩き出すと頬を涙をつたった。右手に握った包丁が重い。


#12

バタイユ

「自分の話はなるべくしないようにしているんだ。あることがきっかけでね」
 僕はジーンズの裾をつかみ、抱えた膝の間から自嘲気味に言った。部屋は閉め切っているものの、だらしなくゆるんだカーテンの隙間から昼の光が差し込んでいる。
 埃が踊る光の帯をへだてて、真暉子と僕は向かい合っていた。
「バタイユの言うように、誰もが仮面の下に醜い素顔を隠しているのかもしれない。
 気の置けない仲間が、他愛のない話をしている相手が、昨日抱き合った女が、突然正体をあらわにして僕を裏切り、蹴落とそうとするのさ。
 そんな連中相手に自分をさらけ出すことなんか、とうてい無理なんだよ」
 真暉子はそれを聞いて微笑んだ――ように感じた。
「仕方のないことだわ。それが人間というものだもの」
 彼女の大きな瞳はまっすぐに僕を見据えているのだろうが、僕は目を合わせることができない。
「君は、人が怖くないというのかい?」
「怖いわよ、わたしだって。でも、わたしには信じられる人もいるから」
「誰?」僕は顔を上げた。
 真暉子の目が光を反射して、きらついた。


「昔話にでてくる正直者のおばあさんの家みたいね」と真暉子は言った。
 玄関の戸は硬く、重い引き戸でおばあちゃんによると、夏場はほとんど開きっぱなしにしているようだ。
 玄関には座って靴が脱ぎ履きできるように椅子のようなものがとりつけてある。玄関の前の障子を開けるとそこは居間だった。時計を見るともう六時を過ぎていた。
 おばあちゃんは、近くのスーパーで買ったのだろうか、寿司のパックを真暉子にくれる。「こんなにも食べれないで」と言っておばあちゃんの分の寿司を半分以上も真暉子にくれた。
 真暉子もお腹がいっぱいだったが、残さずに食べた。ご飯を食べるとお風呂に入ることになった。
 真暉子がお風呂を洗い、お湯を溜めている間におばあちゃんの服をゆっくりと脱がせた。 真暉子はおばあちゃんの体を丁寧に洗った。
「崖から落ちた日からお風呂に入ってないんな。真暉子さんが来んかったら垢まみれで死んどったわ」そう言っておばあちゃんは笑ったあと、ぽつりと呟いた。
「あんたら、いつ結婚するん?」
 風呂場に差し込む西陽はやけに眩しかった。


#13

橋の上

 失業から一週間目、実家に戻って近所を散歩していた。
 またあの東京に戻る日が来るかどうかはわからない。あの喧騒の中で暮らした十年間は、他人と出会おうと思えばどこでも出会えたように思う。
 故郷の風景は変わらない。人は減ったのかもしれない。車がなければ買い物にも不自由する。
 幼馴染みであったあの子の実家も変わらない。ただ中は変わっただろう。あの子は結婚し、もう少し交通に都合が良い場所に引っ越した。記憶が間違ってなければ、今年二歳になる子供がいるはずだ。
 創成川に沿って、並木が続く。子供の頃には、この散歩道が延々に続くと思っていた。実際に果てがある事を知った時、世界の狭さに少しだけ窮屈な憶いをした事を覚えている。あれは小学生の始めの方だったろうか。幼稚園のときだったかもしれない。


 老人が釣りをしている。何か僕が言葉をかければ、老人は答えてくれるかもしれない。
 答えてくれないかもしれない。答えてくれたところで、僕と老人の間にはなんの関連性もないように思えた。
 一度ぼろぼろになった他人との関係性を、もう一度編み上げる気力はまだ沸き起こらない。
 突風が木枯らしを舞わせた。振り向いた老人が僕に気づく。老人は何かを言いたそうに口を開いてから、何も言わずに川面に視線を戻す。
 僕は煙草をくわえて、火をつけずに散歩道を歩き始めた。


 悪いことさえしなければ、ヒーローに助けてもらえると思っていた少年時代。
 過ちをおかしても、真摯に謝罪すれば許されるものだと思っていた先月までの僕。
 僕の人としての浅さは、何も変わっちゃいないらしい。


 老人が糸をたらす川下に、煙草を放り込んだ。

「にいちゃん」

 老人が僕を呼びかけた。

「ポイ捨てはよくねえな」

「すみません」

「いいんだ。生きてりゃ良くねえことだって必要さな」

 真意を掴めない言葉が返ってきたので、僕は沈黙した。

「元気だしなよ」


 僕は礼の言葉を返して、その場を後にした。

「飛び込むのは、やめよう」

 僕は確かめるようにそう言葉にだしてから、橋の上で最後の煙草を携帯灰皿に押し込んだ。


#14

ヤマダさんち

 目覚ましが鳴る前に目が覚めた、なにやら外が騒々しい。一体なにごとかと表に出て、俺は絶句した。
 となりの山田さん宅は、五十坪ほどの広さの一戸建てなのだが、それがおびただしい数の警官隊に包囲されているのだ。さらにその後ろには取材のマスコミ、さらに数え切れない野次馬がひしめき合っている。

 山田邸を見やると、昨日までとはまるで様相を変えていた。外の塀の上部には鉄条網が張り巡らされており、玄関部分には家具でバリケードが築かれている。窓という窓は板で目張りされ、まるで砦だ。
「観念したまえ、君たちは包囲されている」
 スピーカーを手に、ドラマでお定まりのフレーズを叫ぶ隊長らしき男。

 一体どうしたというのだ、これはただ事ではない。あの温厚な山田さんが何かしでかしたのだろうか? まさかな。物騒な事件にでも巻き込まれたのだろうか。
「お隣の方ですか?」
 警官の一人に尋ねられた。
「はい、一体、何が起こっているのです?」
「話は後です、危険ですから家から出ないで!」
 強引に家に押し戻された、訳が分からない。


 日もすっかり暮れ、普段ならば閑静な住宅街は穏やかな闇に包まれる時刻だというのに山田邸の周りには投光器が何機も設置され、昼間のごとく煌々としている。築き上げられたバリケードから三メートルほどのところにはいつでも突入できるよう機動隊が盾を構えて待機している。上空には煽り立てるようなヘリコプターの爆音が響きわたっていた。



 俺は、テレビのスイッチを切った。

「おい、メシまだか?」
「ごめんなさい、遅くなっちゃって。どう? 何か動きあった?」
「ないみたいだ。まったく、あんなに騒いでいるくせに何一つはっきりしたことがわからないなんて、マスコミなんて役立たずだ」
 味噌汁をついでいた妻は、その言葉を聞くと不安そうに眉をひそめた。
「でも、それってもしかしたらわざと山田さんちで何が起こっているのか洩らさないようにしているのかもしれないじゃない。……わたし、なんだか怖いわ」


 山田邸は一日中不気味な沈黙を守っていた。
 バリケードと睨み合う警官隊。隣家の異常事態に、落ち着いて過ごすことなんてできやしない。

「いったいいつまで続くのかしら?」

 夕飯の後片付けをしながら心配する妻を他所に、突如確信めいた予感が過る。


きっと今夜が山だ。


#15

お前は計画性がないよな

俺は別に計画性が無いわけではない。ひとより決断力があるだけだ、と今村に言い返した内容を思い出しながら、左手に持っていた鯖缶の食いかけを見る。
醤油色の油が溜まった鯖缶は、間取りすら見ずに安さだけで即決した築31年のこの部屋と瓜二つだ。くさい。絶対部屋のどこかで何かが腐っているし、窓の縁なんかはもう茶色のどろどろになっている。一刻も早くこんな部屋なんか抜け出したい。かと言って金もない。その時
「鳥になるのはどうだろう」
俺の頭中でひとりの俺が提案した。鳥になればこんなぼろい家からも抜け出せるし、自由に飛び回れる。鳩がいい。公園でたむろしていれば暇な爺さんがパン屑をくれ食うに困らない上に、アメリカまで飛んで行けば平和の象徴として持て囃される。これはかつてない名案だ。俺は今、鳩になって悠々自適に暮らすことを強く決めた。
そうと決めた俺は、早速寝間着をジーンズに穿き替え、でっかいリュックを背負って公園へと飛び出した。そしてベンチの周りをうろうろしている鳩を20羽ほど捕まえてリュックに押し込む。人間への警戒心を忘れてのんきに首を前後させるだけの鳩捕まえるのは思いのほか容易だった。周りの目を気にしない度胸と3時間ほどの暇があれば意外と鳩は捕まえられるのだ。帰りにホームセンターで接着剤とのこぎりを購入し、準備は完了した。
家に着くと俺は、リュックの中でぎゅうぎゅう詰めにされて元気のなくなった鳩を一羽取り出し、両羽を取り外した。他の鳩も同じようにし、取り外した羽は右翼は右翼、左翼は左翼で集め、それぞれを接着剤でくっつけ、巨大な1セットの羽にする。そう、これを以て俺は自由に飛び回る鳩となるのだ。次に、接着剤が乾ききった「羽」と自らの腕を交換するため、ホームセンターで買ってきたのこぎりで自分の左腕を落とした。めちゃくちゃ痛かった。血もいっぱい出てしまったし続きは明日にしようか、と心が折れそうになるほどの痛さだった。しかし、下手に明日に持ち越し
「昨日は痛かったなあ。もうあんなに痛い思いをするのは嫌だなあ」
などと臆し、ただの片腕がない男として生きるのなら、今のこの勢いで右腕も一気に落としてしまおう。そう考えたその時、思わぬ事態が発生した。



右手にのこぎりを持ってから気付いた。
これじゃ右腕切れないじゃん。
今村の言葉を思い出す。


#16

エッダの末裔

 私の祖父は母の話の中にのみ存在していた。
「この国が独立して、こんなにも私達が豊かに生活できているのは、あなたのおじい様のお陰なのですよ。三百年前、おじい様の書いた一冊の本が、この国の民を奮い立たせたのです」
 私はかつて彼の肖像画を見たことがあった。家系図も確認したことがある。しかし彼の存在意義は、すべて母の語る昔話の中に収束されていた。そして彼の一族もまた、その各々の存在を、まとめてその中に収められる。つまりは、今まさに、この私もその中へ吸い込まれつつあるのだ。
 しかし、そんな哀れな末裔たちが解放される日が、ようやくやってきたようだ。
 
 帰宅した父の顔はいつにも増して白かった。私は窓の外を見た。私達の宿舎を囲むようにして、数え切れないほどの目がこちらを見据えている。憎しみでも、興奮を湛えるわけでもなく、ただ何か、何か時を待っているような目。
 父は何も言わずに壁のサーベルを取り、柄の紋様をうつろな目で見つめた。
 サウザン・オーシャン・カンパニー。
 貿易会社という名のこの征服者集団の命は、もはや風前の灯だった。ここ十数年の劇的な産業革命、世界市場の移動、世界各国の盛衰の結果、今や内外の圧力に押しつぶされた国家のもとで、この離れ小島の存在は、もはや人々の記憶から消え去っていた。あとに残されたのは、数代前から酷使され続けた原住民、そして私達。お互い、背後に存在するものはもはや何もないと言ってよかった。互いに孤独だった。しかしそれを、非を理にねじまげる詭弁だと言われれば、返す言葉がなかった。返す意味ももはやなかった。
 父は無言で剣を磨く。無理だ、父さん。もう私達を助けてくれるものはない。

 しかし弱い私は希望を捨てきれなかった。その私がようやく希望を捨てた時、私は地を這っていた。大地、そして私を踏み鳴らす数え切れない程の足が通り過ぎていく。彼らは一体、何処に向かって走っているのか。何を思っているのか。怒りか、喜びか。そして何故私は地に伏しているのか。わかるようでいて、私は結局何一つわかってはいない。
 耳はとうにつぶれていた。
 しかし、どういうわけか、母の声が聞こえる。
「この国がこんなに豊かになったのは、あなたの……」
 間違いなく聞こえる。
 しかし耳をつぶされた私には、それがどこから聞こえてくるのか分からなかった。遥か空の彼方からかも知れないし、遥か地の底からかも知れなかった。


#17

『蒼の帳』

 蒼い砂漠の夜――。
 砂嵐は止んだようで、多少の埃が宙を舞う中、月光は綺羅燦々と降り注いでいる。光の雫は透き通り、寝室の窓と緞帳を輝かせている。
 貴方は安楽椅子を揺籠のように弄びながら、月の砂漠が眠る様子をただ眺めてはその蒼さに沈黙を続けている。
 宴は終わり、侍女が夢見に時間を費やす頃、宮殿の広間を含めて至る場所に夜の帳が下りている。踊り子の舞いも、官能的な音楽も、卓上に並べられた異国の料理のもてなしも、果実の盛り合わせも、祝盃の杯も、列を成す燭台の灯も、全て片付けられて、装飾燈(シャンデリア)は硝子の僅かな反射光だけを発している。
 久方振りの宴にさぞ疲れたことでしょう――。
 寝台を整えているわたくしの言葉に貴方はただただ呻くばかりで、安楽椅子の軋む音だけが寝室には響いている。
 東の太陽の国の王様が酔いに乗じて発した言葉を貴方はまだ気にしているのでしょう。酒精は恐ろしきもの、人間誰もがそれを飲み干せば立ちどころに嘘がつけなくなる。まるで鎖を解かれた囚人のように、自由を手に入れたと勘違いをして暴れ回るのです。
 貴方は片目を瞑って、わたくしの話を聞き逃さないためにじっと耳を澄している。肘掛けに乗せられた指先が震えている。怒りも酒精と同じ。我を忘れてしまう。貴方はそれ以上耳を貸さずに、窓外の光景を睨み続ける。
 わたくしにも蒼く見えます。夜の闇は全てを黒く染めても、星たちが清透な蒼に調和させてしまうのです。一時の蒼、永遠の蒼に。
 貴方の帰還に宮殿の者たちは皆喜んでおります。皆が貴方の帰りを待っていたのです。たとえ命が亡くなろうとも帰って来てくれれば良かった。貴方が今そうして無事に戦争から帰って来たのですから、苦しむ必要なんてないのです。多少の傷が疼こうとも、貴方は立派に戦争に打ち勝って来たのです。
 安楽椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った貴方は両手をついて、降り注ぐ星月夜の光を浴びる。
 わたくしの目にも今の貴方の体は蒼く輝いて見えます。わたくしの言葉は貴方への慰めにすらならないけれど、それが事実。
 東の太陽の国の王様は、貴方を西洋人形と嘲って呼んだけれど、それは貴方の勇姿の証。貴方は髪をかき上げ、左目に触れる。爆弾の熱と光で失ったものの代わりに埋め込まれた、アクエリアス・サファイアの瞳。
 悲しまないで。夜だけならば、わたくしも貴方が永劫見続ける蒼の世界を共有出来るのだから。


#18

ありがとう

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#19

春だった

 山に沈み行く鈍い赤色の太陽を横目に見て、あぁもうそんな季節なんだ、と思った。
 今日は風が冷たい。私の足を支える瓦も熱を失いかけていた。このままでは日が落ちればすぐに寒くなってしまうだろう。
 私は休めていた手を再び動かして、張りなおした網戸をはめた。手前へ奥へと、二度三度ずらし出来を確かめる。思いのほか滑りがよく、私はその結果に満足した。
 昨日のうちに網戸の溝を掃除したかいがあったというものだ。
 気のよくなった私は上手くはまった網戸を奥へ押しやり消えかける太陽のほうへ顔を向けて言った。

「今日はもうお別れだけど、明日も暖かくしてくれよ」

 明日は他の窓の網戸を張らないといけないのだ。だから、寒いのは勘弁してもらいたい。
 背筋が奇麗なカーブを描いてしなる。外気にさらされたそれは微かに息づき始めていた。
 手の中のものに直接刺激を与えながら、唇が上半身に赤い跡を残していく。チリっと感じる痛みと、宥めるようにそこを舐めあげられる感覚に脳の中枢が混乱していく。

 まだ散らない桜が、左側から道に覆い被さっている。やさしく風が吹き、花びらが逆巻いて、舞い上がり、アスファルトの道に散る。右側には木々の茂った斜面が続く。青々としている木もあるし、裸の木もある。
 桜吹雪の向こうには、こぢんまりとした佇まいの、茅葺きの屋根を被った、古く黒ずんだ木の門が見える。門の前には、名前のわからない、鮮やかなピンク色の花を付けた木が、こんもりと植えられている。
 春だった。
 何の鳥が鳴いているのかはわからないが、春だった。春の午前十時だった。
「おはようさん」と色褪せた青い作務衣を着た、背の高い、薄化粧の若い女が箒で道を掃きながら声をかける。
「あ、おっ、おはよう、ございます」私は緊張しているようだった。
「いい天気ですね。お散歩ですか?」
「はい、お散歩です。ところで、美人ですね」思いがけずに口が滑る。
「そうですね」と女は照れた様子で、下を向き箒を動かす。

 春だった。


#20

警部エドガーの憂鬱

 ロンドンは霧の街と言われる。一日のほとんどを街は霧に包まれ、灰色の空と灰色の石畳が、外から来て初めて街に住む者を憂鬱とさせる。
 ロンドン市オールトン署の警部、シェーン・エドガーにとって、このロンドンの街は、別な感慨が彼を憂鬱にする。
 この日彼はオールトン署の給湯室で今日初めての紅茶を飲んでいた。
「警部、やっぱりここにいましたか」背後から、新人刑事のロス・パーキンスが話し掛けた。
 するとエドガーは、「何だ?」と、俺はティータイム中だと言わんばかりの顔で言った。
「今朝、アークライト記念公園で死体が発見されました」パーキンスの報告にも別段驚かず不愉快そうに「殺しか?」と聞き返した。
 パーキンスは多少興奮しながら「はい、被害者は女で、遺体がバラバラの状態で発見されました」
 エドガーはすぐに緊張して、「バラバラ? 何でそれを早く言わん!」と言うと、持っていたカップを流しに投げ置き、署を出て現場に向かった。
 エドガーとパーキンスが公園に着くと、既に公園の入口にはマスコミと野次馬の集団ができ、その規制に制服姿の警官が追われていた。
「全くマスコミってのは何処から嗅ぎ付けてくるんだか」パーキンスが呆れ顔で呟いていると、エドガーはすでに集団の中に入っていた。慌ててパーキンスは後ろから付いて集団を掻き分けていく。規制の境界線まで来た時、顔見知りの警官が気付き、エドガー達を現場まで案内した。
 遺体発見現場は公園の歩道から外れ、常緑樹が周りに林立しており、なかなか人目には付きにくい場所にあった。
「今朝方、散歩中の男性が遺体の一部を発見し、その通報を受けて駆け付けた警官がここで遺体を見つけました」案内した警官の説明にも、遺体の凄まじい惨状から二人の刑事は返す言葉を失くしていた。
 遺体の首はあるべき場所には無く腹の上に、右足は付け根から切断されて遺体から二、三歩離れた所に無造作にあった。両腕のうち、右腕はあることにはあるが肘から有り得ない方向に折れ曲がっている。左腕は手首から先が無い。口元を手で押さえパーキンスが木陰に向かった。
 エドガーはこれまでにはないほどの不気味な、得体の知れない悪意を感じていた。(これはとんでもないことになるぞ!)
 ふと見上げたエドガーの目は遺体のそばにある木にくぎづけになった。木の幹には文字が刻み付けられていたのだ。

『千文字ではここまでだろう』


#21

パソユタさま

「ああ、裕香くん。ちょっといいかな」
 そうかけられた声に、私は内心で深い溜息をつく。呼んできたのは苦手な所長だったからだ。
 辺鄙な離島の事務所に転勤させられ、コンビニさえない環境に絶望したのは数ヶ月前。さらにここの所長は、偉ぶっていていつも不機嫌そうで、そのうえ私のことを馴れ馴れしく下の名前で呼ぶという、なんとも嫌な感じの人だった。
 またなにか小言かとうんざりしながらついていったのだが、所長はパソコンの画面を指差してこう聞いてきたのだ。
「実は本部から送られてきた資料が見れないんだが、なんとかならんか」
 見ればメール添付のデータが、今回はたまたま圧縮されているだけだった。私がそう説明すると所長は不愉快そうに黙ったので、面倒なことになる前に手早くフリーの解凍ソフトを落とし、データを見られるようにする。
 終わりました、とそっけなく伝えると、いつもは無愛想な所長が目を丸くして叫んだ。
「一瞬で解決できるのか! まるでユタさまのようだ!」
 あとで知ったのだが、ユタさまとはここの方言で女霊媒師のことらしい。このくらいで感心するなんてどれだけPCオンチなのかと呆れたが、悪い気分はしない。
 それから数日後、また所長に呼び出された。今度は動作がおかしくなったPCがあるらしい。さすがに私もすぐ修理法がわかるほど詳しくなかったが、いろいろググってなんとか直し終える。すると所長はまた「パソユタさまさまだな!」と感動した声で褒めてくれた。
 その後もPCトラブルのたびに呼ばれたが、いつもネットや本などで調べてなんとか解決していたので、私の評価はぐんぐん上がっていった。所長からの扱いも丁寧になったし、勤務評定がよくなったのか田舎勤めなのにボーナスも増え、いいことづくめだ。
「ねえ、私こっちじゃパソユタさまって言われてるんだけど。ちょっとパソコンの問題解決してるだけなのに、霊媒師扱いよ」
「うっそ。さすがド田舎。でもそれで上司ゴキゲンなんて裕香ラッキーじゃない」
 電話で女友達にその話をしたら、げらげらと笑ってくれた。私は調子に乗って喋り続ける。
「昨日もまたスタンバイが出来ないのがあるって騒いでてさ。見たらOSがまだ98で、APMを消してインストし直しても解決しないから、結局regeditでFlag値を変更することに――」
「ちょっと、裕香」
「なによ。まだ話の途中なのに」
「……それ、なんの呪文よ」
「えっ?」


#22

ばべぼぼぼべべ

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#23

空色

 初夏の山と一体化したかのような木造小屋。扉を開き廊下を進めば直ぐに大きな部屋に出る。相変わらず油の匂いが広がっていた。入って左側の壁は一面ガラス張りになっており、木々が写真の様に切り取られている。床には幾多の筆や油絵具。家具と呼べる物は小さなベッドのみで、その上には服が散乱している。その乱雑とも殺風景とも言える部屋の中心に、カンバスに向かう彼女がいた。

 ゆっくりと彼女に近づき肩を叩く。彼女は驚いた表情を見せた。僕は彼女の顔をしっかりと見つめながら話しかける。
「何を描いているの?」
「色即是空」
「なんだいそれは?」
「わからないけど」
「想像で描いているって事?」
「どちらかというと妄想だね。又は本能」
「成程」
 彼女の肩越しにカンバスを覗き込んでみると、森の中にいる少女を描いた印象主義的な絵があった。色白な少女は、物悲しげな顔でこちらを見つめている。色即是空という物は分からなかったが、それはとても美しい絵だった。何より僕は彼女の絵が好きだった。
 僕はベッドの上に座り、持ってきた林檎を齧る。甘さの中にいくらか酸味が感じられるのは、最近雨が多かった所為だろう。リンゴの香りを感じてか彼女が振り向いた。僕は齧りかけの林檎を見せたが、彼女は「いらない」と言ってカンバスに視線を戻す。ふと自分の周りを見てみると、彼女の寝間着が緑と白の絵具で汚れていた。いつからこの絵を描いているのだろう。尚も彼女はカンバスに絵具を重ねている。

 体を揺さぶられて眼を醒ます。瞼を開くと目の前に彼女の顔があった。「できたよ」と彼女が言う。僕はいつから眠っていたのだろう。外の木々が赤く染まっていた。僕は立ち上がるとカンバスへ向かう事とする。
「これで完成なの?」
 僕は彼女の方を向き直してから問う。カンバスは無数の色で塗り潰されていて、僕がさっき見た筈の森と少女は消えていた。
「本能に従った結果こうなったのよ」
「女の子はどこに行ったの?」
「空になったんだよ」
「じゃあこれが空なの?」
「そういう事になるね」
「成程」
「わかってないでしょ」
「うん」
「まあ私もわからないから」
 そう言って彼女が笑った。顔に付いた絵具が彼女を一層美しく見せている。僕はただそれだけで幸せだった。
 まあこれはこれで良い絵だ。絵だって描かれる過程が大切なのかもしれない。

 色は様々空は一つ、音は無くとも僕らは変わらない。


#24

じいさんと乙姫

「花咲かぬじいさん」
とっても果物の好きなお爺さんがいました。すいかや桃、柿などを
食べては、せっせとその種を自分の畑にまきました。
 ところが、いつになってもその芽が出ません。しかし、何ヶ月か経ったころ、やっと愛しい芽が出てきました。
 おじいさんは喜んで、昔話にちなんで、火鉢の灰をまいてあげました。
 するとどうでしょう、やっと育った芽は一夜のうちに全滅してしまいました。
おじいさんは落胆のあまり寝込んでしまいました。
 これを空から見ていた花の精霊たちが「こんなに頑張ったのにかわいそう」だと言って、
畑に魔法をかけてくれました。するとどうでしょう。やっとこ起きだしたおじいさんの畑には、なすや、きゅうり、ごぼう、等が育っていました。
「乙姫様」
海の底の竜宮城という所に、それはそれは性質の悪い乙姫様という人がいました。
魚や亀に情けをかけてくれる、心優しい清い人の魂が大好物でした。
この日も、悪頭の亀が純粋な心の太郎という少年を連れてきました。
乙姫様はしてやったりと「ニヤット」笑い7日間。
太郎に海の幸のごちそうや、様々な魚の舞で太郎を楽しませました。
そして、太郎が少し眠りについたとき、乙姫様は1日で10年分の太郎の生気を吸い取ったのです。
何も知らぬ太郎は7日間の礼を言い、お土産の玉手箱をもらい、家に帰りました。
さて、お土産は何かと玉手箱を開けると、乙姫様に吸い取られた自分の生気のかすが噴出し、あっという間におじいさんになりました。


#25

能面の話

 ――能を舞うときに用いる面のような表情がよいと思います。
 女は口角を上げ、静かに笑っている。
 ――能面のような顔?
 彼が訊きかえすと、女はちいさく、ふふふ、と息をもらしてなにも答えなかった。女はそれっきり黙って、彼のほうを見つめていた。ととのった筋道を立てられない彼も押黙っていた。
 隣のテーブルから、携帯電話のバイブレータ音が振動していた。耳のあたりが痺れているのか。彼はすこしぬるくなった水を飲み、女の顔を見つめかえした。女はなにを見ているのだろう、俺の顔か、いやしかし、背筋を伸ばしてこちらに顔を向けてはいるが、視線の先はどこか他にあるように思える。なにも見ていないのかもしれない。
 通りに面した窓ガラスから、うすぐらい店内に昼下がりの日ざしがはいりこむ。顔の半分だけを照らされた女の顔は、鼻筋を境にしてきっぱりわかれていた。それでも女の顔つきは印象を変えなかった。凝視をつづけているうち、顔のまんなかに裂け目がはいりはじめた。
 傷の類ではない。瓜の表皮だけをまっすぐ包丁で切ったような、うっすらとした一本の線だった。眺めていると、眼差しが吸い込まれてゆくのではないかと思う。
 黒っぽく見えるすき間の奥に、脈打ちながら血が流れているのだろうと彼は思った。血の管をたどってゆけば、心臓につき当たる。轟々と高い熱をもって活動する女の心臓がある。管は手に通り足に通り、また乳房に、顔に通っている。彼はひたいに汗を溜めていた。裂け目へ侵入すれば、そのまままっすぐ進めばいい。
 女の表情が、精気を失っているように感じる。線は時間の過ぎるごとに目を引き込んでゆくが、それでもただの線だった。奥、奥、と彼は心に呟きながら足をゆすりはじめた。彼はまえへ上半身を乗り出し、裂け目に眼をちかづけた。日ざしと陰のあいだにある裂け目の先には、もうひとつ裂け目が見えた。裂け目が襞のようにうねっているとすれば、この視線は屈曲してついに消えてしまう。
 彼は背もたれに身体をあずけた。椅子の軋る音がして、天井の蛍光灯が点いていないのを見た。テーブルの脚に埃がまとわりついているのをつま先ではらいながら、彼はふたたび顔を上げた。女の顔があって、くたびれた壁紙があって、隣のテーブルでは男と女が話しており、窓ガラスの向こうに大型トラックがエンジンをうならせていた。
 ――よい表情だと思います。
 女はゆっくり口角を上げて笑った。


#26

ティッシュの言葉に魅入られて

学校に行く途中、都心の駅を通り抜けそれからまたバスに乗る。
都心の駅ではどれだけの人間がいるのだろうというほど人の大津波。
都心の駅では商品のサンプルやティッシュなどが配られている。
初めて箱ティッシュを配っている人を見た。
それも手に収まる小さいものではなく普通サイズ。
脇に挟まったティッシュ箱をこんなに見たことがない。
そのティッシュ箱に手を伸ばした理由は箱に書いてある言葉に興味を抱いた。
「あなたの人生をティッシュが助けます」
随分、大層なティッシュだ。
無料で配られているというのに。
鼻風邪だった私には助かったティッシュだったので早速開けた。
一枚ティッシュをとると小さな文字が書いてある。
「今日は帰って寝ないと風邪が酷くなる」と書いてある。
授業を受けようとパソコンの前に座っているが熱が出てきたようだ。
授業が始まると休講になったと知らせが入った。
ティッシュの言葉が気になって私は家に帰った。
家につく頃には体が重くすぐにパジャマに着替えて寝た。
次の日、連絡網で電話があり麻疹の流行でしばらく休校だという。
ティッシュの言葉が頭をよぎる。
持って帰ってきたティッシュを家で一度も使用していない。
一枚取ってみる。
やはり、文字が書いてある。
「病院は明日以降に行くこと、また、タクシーじゃないと後悔する」と書いてある。
次の日は立派な熱を出し動けなくなってまった。
さすがに高熱が酷く病院にいくことにしたが、親が送るといってくれたものの
ティッシュの言葉が気になりタクシーで向かった。
病院に着いたとき患者は誰もいなくてすぐ受診できた。
診療が終わり待合室に戻ると、父が青ざめてテレビを見ている。
「どうしたの?父ちゃん」
「見ろ。これ、車で通る裏道じゃないか?」
「本当だ」
テレビの映像は車で行く場合必ず使う道で起きた多重事故。
あのティッシュは本当かもしれない。
「それでタクシーと言ったのか」
「うん」
「そのティッシュはどうしたんだ?」
「貰ったの。駅で配ってて」
「家にあるのか?」
「うん」
家に帰り父が見たいというので見せると一枚取った。
「企画原案の資料を完成させろ。谷口部長を信じるな。裏切りが待っている。」
と書いてある。
「谷口部長って人いるの?」
「あぁ、企画を決めている最中でまだ完成させなくていいといわれた」
父はパソコンを取り出し仕事をし始めた。
私も一枚、取ってみた。
「あと一日を有意義に」
これは、どういう意味なのだろう。


#27

白いブランコの少女

 殺風景から殺風景へと、裏切りなく移りゆく景色の中にデジャヴにも似た、懐かしい記憶をくすぐる映像が僕の眼に飛び込んできた。公園……? 決して広くはないが、子供が駆け回るには十分だ。公園にはジャングルジムにシーソー、ブランコ、鉄棒があった……。ブランコに目を戻すと、かすかに揺れるブランコに、白いワンピースを着た少女が一人、存在感なさげに、しかし無人の公園にしっかりとした違和感を与えつつ座っていた。この炎天下に、長袖という選択ミスをしていたその少女に、僕は妙な親近感を覚えていた。真っ青な空の下で、一人佇むその少女の表情は、どこか切なく寂しげで『美しさ』とは違った形容し難い魅力を感じるには十分すぎる程だった。僕は、気がつけばその少女に見とれていた。肩に掛かるか、掛から無いかの黒い髪。ブランコの鎖を握る細く白い手。ほのかに桃色が彩られた白のスニーカー。揺れるブランコに合わせてわずかに上下している足首……。燦々と降り注ぐ灼熱の太陽の中で、幻想を思わせる少女に僕は――。
 気付けば、僕と少女の距離は三メートルほどになっていた。
「……」
 少女が僕を見ていた。
「あっ……」
 わずかな動揺が僕の意識を取り戻す。僕と少女は目が合ったままだ。耐え切れない沈黙に僕は思わず口を開く。
「となり、いい? ……ブランコ」
 僕は少女に、希望にも似た問いを投げかけた。
 少女は隣のブランコをちらりと見てから、視線を僕に戻して微笑んだ。
「どうぞ。公共のブランコですから」
 公共という言葉に少しだけ違和感を覚えながら、僕はブランコに腰掛ける。今日、初めて出会った僕と彼女。の、はずだった。彼女は一瞬だけうつむいて、すぐさま顔を上げて優しく微笑んだ。
「もう、帰らなきゃ……」
 気付けば辺りは暗くなり始めていた。
「そっか……」
 名残惜しく僕は下を向き、自分の手を見つめながら拳を開いたり閉じたりしていた。
「じゃあねっ!」
「あっ……」
 僕の言葉を待たずに、彼女は人通りの少なくなった大通りの向こうへと走っていった。彼女の後ろ姿が消える前に、僕はどうしても、確認しておきたいことがあった。
「……待ってくれ!!」
 彼女は離れた位置で止まり、くるりとこちらに振り返った。
「また…… また、会えるよね!?」
 それだけが聞きたかった。早く答えが聞きたかった。彼女の唇が動いた。
「会えるよ! きっと……」


#28

先生が生きている

 語り部はニュートラルであるべきだ、と教えてくれたのは先生だ。
 個性や思想なんて必要ない。誇張せず、矮小化もせず、ただ状況をありのままに描写できればいい。

 もともと高齢だった先生は、十年がたち更に年を取った。先生にとっての十年は、これまで経てきた時間からすればそうたいしたものではないが、これから先に残された時間のことを考えると、とてつもなく貴重だ。

 その十年で、先生は万引きを覚えた。
 これまでの達成がすべてフイになってしまう、と僕は何度も止めたが、先生は聞く耳を持たなかった。
 絶対に捕まることはない、との言葉どおり、先生は十年間やりぬいた。初めのうちは、醤油のパックだとか、牛脂だとか、そんなもので慣らした。それから駄菓子の類になり、スパイスの小瓶になって、少しずつ値段とサイズを上げていき、十年目の最後に盗ったのは小さなウィスキーのボトルだった。酒も飲めないのにそんなものを盗み、まるでトロフィーみたいに部屋に飾っている。
 万引きも小説もコツは同じだ、と先生は言った。すなわち、ニュートラルであるべし。

「書きますよ」
 僕もそろそろ何かを書きたかった。それが何なのかは十年かかっても分からなかったけど、先生のことなら、少なくとも何かは書けるんじゃないかと思った。
「好きにしてくれ、死んでからな」
 先生は、死後のことなどまったく興味がないらしい。死んでしまえば百年だって一万年だってあっという間に過ぎるんだ、と先生は言った。人類なんてすぐに滅びる。評価する人間のいない世界で、評価なんて気にしたところで何の意味もない。
 僕はまだそこまでは割り切れない。だから万引きなんてしない。いや、割り切れたって、しないとは思うけど。

 先生はまた小説を書き始めた。万引きの経験はいっさい生かさないらしい。それは何かの糧にすべき経験ではなく、ただの汚点であるべきだから、だそうだ。

 先生は死ぬのが怖いという。時間に守られなくなってしまうのが。永遠の枠組みに放り込まれてしまうのが。だから死後の世の中なんてどうだっていいし、それを気にかけることができれば、もっとまともに死と向き合えるかもしれない、と残念がった。
 これからの十年が先生にあるのかどうかは分からない。けど先生は死から目を背け、しっかりと生きて、小説を書いている。もう万引きはする気配もない。

 先生が生きている。生きて書いている。僕はまだ書けずにいる。


#29

友哉とその後

 新年度最初の朝礼で、園長先生が「年長のお兄さんお姉さんは、帰りに新しい年少さんのお友達をバスまで連れて来てあげて下さい」と、司令台の上から園児の皆に向かって話した。年中の友哉はそれをよく覚えていた。特に、年上の人は新しく入った子をバスまで連れて行く、という事をしっかりと記憶していた。ただ友哉は年長や年少という言葉を知らなかった。自分の年中という言葉も知らなかった。それがまた友哉の頭の中で、お兄さんは新しく入った子をバスまで連れて行くんだ、と強調させる事となった。
 新しい学年になりクラスが替わった。教室の場所が替わった。新しい先生になった。新しく友達になるだろう子達が、教室の中で走り回っていた。前に友哉が居た教室の方は新しく幼稚園に入ってきた子達の場所になった。帰りはバスに乗る前にあそこまで行って、小さな子の手を引いて、どのバスに乗るか訊いて、バスに乗せてあげなくちゃいけないんだと頭の中で想像した。
 帰りの時間になった。友哉はできたばかりの友達に「新しい子達をバスの所まで連れて行くんだよね」と話した。友達は「僕達はいいんだよ」と云った。話は合わなかった。
 皆はバスへ向かう中、友哉は新しく入った子達の教室へ向かった。同じようにそこへ向かう子達が居たが、どれも友哉より一つ上のお兄さんやお姉さん達だった。友哉は段々と先の友達が云った事と、皆が直接バスへ向かったのが正しかった事を理解した。
 教室の前まで来た。止めてもうバスへ向かおうか考えた。男の子が一人居た。友哉は「バスに行く?」と訊いた。彼は「うん」と答えた。
 友哉はその子と一緒にバス乗り場へ向かった。乗るバスを訊いた。手は引けなかった。友哉は一番年上でもない自分が、間違えて新しく入った子の手を引いて歩いているのを見られるのが嫌だった。
 連れたその子はしっかりしていた。彼を無事バスへ送ると友哉はほっとしてさっさと自分のバスに乗り込んだ。

 翌年、友哉は年長になった。今年も園長先生は「年長さんの皆は新しく入った年少さんをバスに連れて行ってあげて下さい」と話した。
 帰りになるとクラスの皆は年少の子達を迎えに行った。去年既に連れて行った友哉は友達三人とつるんで迎えに行かなかった。
 また翌年になった。友哉はもう幼稚園を卒園した。一昨年、友哉がバスへ連れて行った子が年長になった。彼は四人の友達を連れて新しく入った子達を迎えに行った。


#30

ウナギ

 福岡の夏は相変わらず暑くて、深瀬との腐れ縁も続いていた。
「鹿児島行かん?」
 深瀬は窓から入るなり唐突に提案してきた。深瀬は二階にある僕の部屋に、屋根を登って窓から入る。
「無理。俺ら浪人やろ」
「そう」
「なんで鹿児島なん?」
「イッシーば捕まえるったい」
 イッシーというのはネッシーみたいな未確認生物だ。僕は答えず勉強に戻った。深瀬は漫画を読み始めた。

 五日後、勉強していたら背後で窓が開いた。
「荷物が重いけん、玄関開けて良か?」
 振り返ると日に焼けた深瀬の顔があった。
「つーか、玄関から入れよ」
 決まり文句だった。
「ちょっと待っとって」
 深瀬はドアから出ていった。玄関が開く音に続き、階段を上る足音が響いた。
「捕まえたばい」
 深瀬は大きなクーラーボックスを抱えていた。蓋を開くと中には大きな鰻が入っていた。
「これがイッシー」
「鰻やろ」
 僕は見たままのことを言った。
「ちょっと尻尾持って」
 深瀬に言われ、僕はティッシュをあてがって鰻を掴んだ。
「見とれよ」
 深瀬も鰻の頭を掴んで引き上げると、ずるずると身体が出てきた。
「うわ!」
 さすがに僕も声を上げた。鰻は全長二メートルを越えていた。
「お前のお袋さん、これさばけるかな」
 鰻を戻しながら深瀬は言った。食う気だ。
「自分ちで食えよ」
 僕が答えると深瀬は俯いた。
「うちはお袋出て行ったけん」
 以前家がゴタゴタしていると聞いた覚えがあった。
「なんで鹿児島行ったとね」
 僕は鰻に目を落として尋ねた。
「やけんイッシー」
「違うやろ」
 深瀬が言いかけたのを僕は制した。
「イッシーば捕まえに行ったったい」
 それでも深瀬はそう答えた。
「あら、いらっしゃい」
 声がして顔を上げると、ドアから母が顔を出していた。
「お邪魔してます」
 親も深瀬に悪感情はない。しかし深瀬は窓から入る。昔隣人に通報されて怒られたが、窓から入る。
「母さん鰻さばける?」
 僕は鰻を指さした。
「まあ大きい。じゃあ下に持ってきて。大変そうだし手伝ってね」
 こんなもん食うと言う深瀬も深瀬だが、快諾する母も母だ。

 母はすぐ調理にかかった。写真を撮り忘れたことに気づき、僕は携帯電話で、輪切りにされて調理台に転がるイッシーを撮影した。
「この写真、鹿児島の観光局に持っていこう」
 僕は深瀬に画面を見せた。
「そやね。受験終わったらね」
 深瀬は笑った。
 蒲焼き、櫃塗し、といろいろできたが、イッシーはおいしくなかった。


#31

真夜中の踊り場でキスをした

今まで君が、
あたしにくれた言葉は、本当は、
「全部、あの子に言いたかった言葉なんでしょう?」
スチールの残響。
3階と4階の間で、あたしと彼は対峙していた。

彼は何も言わない。
一瞬だけあたしを睨んで、
すぐに右斜め下に顔を背けた。
狼狽と、怒り。
それは彼が初めて見せた顔だった。
いつも、穏やかな表情で、
本当は、自分自身を一番守っている、彼が。
「あたしは君のことが…」
「ごめ」
上の方で、ドアの音がして、
あたしの言葉も、彼の言葉も、遮られた。
仰ぎ見る。
足音は遠ざかる。
ほっとして肩を落とすと、
彼のため息が聞こえた。
あぁ、
君と同じ動作をしたことが嬉しい。
ささいなことなのに。
もう、叶う季節は過ぎてしまったのに。

「あたしのスケッチなんて、本当は見たくなかったんでしょう」
「……」
「あの子は絵、上手いもんね」
あたしはクロッキー帳をそっとなでた。
彼はあたしを睨んだ。
「コンサートだって」
チケットを渡したのはあたしなのに、
「来てくれたの、あの子のソロの日だったよね」
彼は睨んでいた。
そうやって、そうやって、
いつも本音を見せてくれればいいのに。
時々見せる影が大好きで、
どうしようもなくその君が知りたくて、
その存在になりたかったけど、
あたしじゃないらしい。
でもどうして、
未だにこんなに、
愛おしすぎて、胸が詰まって苦しくて、息が出来なくて、
クロッキー帳を胸に抱えた。

「ごめん」
右斜め下の暗闇に向かってつぶやいた後、彼はあたしを真っ直ぐに見た。
あたしはクロッキー帳をゆっくり下ろした。
「俺は、君とは、付き合えない」
クロッキー帳を下ろし終わって、
右手は軽く震えていた。

「もう、来ないでくれるかな」
その、優しい語尾に、
それがあたしのためではないと分かっていても、
あたしは泣いてしまいそうだった。
ゆるく舌をかんで、右手にある窓の外を覗いた。
タワーマンションのシルエットと、幹線道路の柔らかい街灯。
彼が階段を上る。
目も合わさない。
いや、
あたしがいないかのようだ。

彼が横を通るとき、
ぐ、とその右腕をつかんだ。
柔らかな衣服。
引き締まった身体。
あたたかな匂い。
眠りたくなるような。
その腕の中で。
でもそれは叶わない。
それはあたしではないのだ。

さよなら、
と心の中でぶつけて、
あたしは彼にキスをした。
驚く彼を突き放して、あたしは階段を駆け下りた。
真夜中の非常階段に、足音が静かに響いた。




あたしの4年間が終わった。


#32

翼の夢

 翼の夢を見る。この背中に、鳥のような翼がついたり、虫のような羽がついたり、ジェット飛行機のような翼とエンジンがついたり、非科学的な翼の骨状の噴射装置がついたりして、それで地から浮かぶ。どこからどこへ行くわけでもない。ただ浮かぶだけの夢。
 実際にそんなもので飛べるはずはない。翼をつけたところで、人間は自力で空を飛べるほど強くもなく、軽くもない。人間は、軽くはないのだ。地に足を着けて生きている人間は、それだけ地上の事象に地に支えられ、縛られている。砂塵が舞い、轟音に揺れるこの地上こそが、現の世界。
 働くことが虚しくなって、仕事を辞めた。地を覆う砂塵と轟音に耐えられず、そのまま職に就かなかった。少々の蓄えができていたので当座に窮することはなく、必要がないので何もやる気が起きなかった。暇に飽かしてテレビを見たり、本を読んだり、出かけたりもした。しかしそれもそれだけだった。どこにいても何をしても、ただ虚しかった。
 昼夜構わず眠くなったときに眠り、目が覚めて憶えている夢は翼の夢ばかりだった。翼の力で地から足が離れる。その先に別の地や空があるわけでもなく、立っていた地にすら何かがあるわけではない。何もないのではないのかもしれない。しかし何があってもなくても、虚しいだけであることに変わりはないのだ。
 空を飛びたいと思うことはない。しかし飛べるだろうかと思うことは、よくある。虚しい地から、どこかへ。しかし足が地に着いている限りどこに行っても何をしても同じで、どこにも行かず何もしないことと同じだ。出かけることも止めた。本を読むことも、テレビを見ることも止めた。何もかもが意識をただ素通りしていく中、次第に足が地に着いている感覚さえも霞んでしまうようになった。見る夢は翼の夢ばかりだった。
 思考を働かせることも虚しくなって、次第に五感が受け付けたものを認識することさえも省くようになった。目に映ってもそれを見ず、耳に入ってもそれを聞かず、何があってもなくてももう同じことだった。足を着けて立つ地もその上に広がる空も、夢も現実ももうなかった。それでも翼のイメージだけは、あった。
 やがて認識が消えて感覚も失われ、翼のイメージだけがすべてとなったとき、それがどんな翼であるかはわからなかったが、今までになかった感覚を、体が浮遊感に包まれる感覚を、確かに覚えた。飛んだ、と思った。虚しさは、もうなかった。


#33

夢見たい

雨が降っている。4月と言うのに冷たい雨が圧から降り出した。駅への道はさほど遠くないのに今日は気持ちが滅入っている。昨日から胸の奥に詰まってしまった様に、少しも落ち着かない。こんな気持ちがもう何ヶ月も続いている。新しいスーツを着たサラリーマンが擦れ違う。僕ときたら何年前に買ったかわからないスーツを着込んでいる。もともと洒落にもならない格好って思っているのだから相手も敬遠すると感じるのにどうしたいのだろうと感じる。

突然肩を叩かれた。
「定男じゃない」と後ろから声がする。
「えっ」と振り向いた私は一瞬で暗くなった。
早芝一獄がそこに立っていた。早芝は、こちらの雰囲気を察したのか「なにビックリしているの」と言った。
僕の不運。
「スーツに合ってるねぇ」とにやついて定男を引き止めた。
「まあね」曖昧に答えて「急いでるんで悪いな」と歩き出した。
と同時に右腕を引っ張られた。早芝が右手で引き止める。これはヤバイかも。
「なに」ととっさに声が出た。
「ちょっと待てよ。定男面接するのか」と早芝が訊く。勘のいい奴。「まあ、そんなところ」とまた曖昧に答える。時計を見ると電車の時間が迫っていた。後悔先に立たず。あと数分早かったら、あと数分遅かったら会わなかった。
「へぇ、カタギになったつもりかよ」右腕は話さないで早芝は不満そうに定男に言う。
「俺は、初めからカタギでいるつもりさ」右手を払おうと腕を動かしたけど離れない。
「はぁ、なに言ってるの」早芝一獄は声を荒立てた。
「今更、カタギになれやしないじゃない。ねぇサ・ダ・オ・く・ん」挑発してきた。昔から早芝一獄の言葉は挑発的なんだ。
「そんな言い方止めてくれないか。僕は昔とは違うんだからからかわないでくれ。」早芝の顔が少し歪んでいく。
何言っているんだ僕。マズイかな。息苦しくなった。
早芝は「迷惑か」ってまっすぐ見た。黙って頷く。
僕の顔が紅潮していくのが解った。気まずい沈黙が続き。もう無理だ。何か言おうと思ったが言葉にならない。

早芝の右手が力なく僕の手を離した。僕の右腕は自由になった。
「頑張れよ」早芝一獄は言う。左手をゆっくりと揚げる。唖然とした。
だけど、僕はそんな早芝を見ずに駅へ走り出した。電車がゆっくりホームに入ってきた。僕の心臓は飛び出しそうだった。
なぜか悔しかった。なぜか寂しかった。なぜか涙が出てきた。


#34

ある夜明け

地鳴りと爆発音で目が覚めた。爆音で真鍮の窓枠が震えていた。
空は青白い。夜明けのはずだ、そう思って外を見るとライチョウが空彼方に黒く飛んでいるのが見えた。くそったれ、そう低く呟き、ベット脇に立てかけたAKを掴み取って部屋の外に駆け出した。部屋出るとジュンコがほぼ同じタイミングで飛び出してきた。右手で合図を送るとジュンコは小さく頷き、玄関に向かって全力で走り出した。
外は火薬と生き物の焼ける匂いで充満していた。右手の地面に黒く焦げたバルカイの男がうつ伏せで倒れていて、背中から白い煙を出していた。辺りは泥とガソリンが混ざった液体でぬかるんで表面をぬらぬらとした膜が覆っていた。遠くの地平線で小さな爆発が連続し、オレンジの光が爆発音となって見えた。
「二体」
ジュンコは肩にかけた望遠レンズで光の方角を見て言った。
「村の外れの井戸にマゼル58が隠してある。ダツへ連絡をいれ応援を要請してくれ。俺はハイ爺のところへ行く」
ジュンコは「わかった」と言って着ていた分厚いジャケットを脱いだ。左腕に掘られた黄金の「UG」の文字が、昇り始めた朝日に反射し、綺羅と光った。
空の色が変わり始めていた。焼けるような赤は青を一瞬にして消滅させ、一面に燃え広がっていく。
目の前が白く激しく光ってたと思うとすぐ後ろの教会が爆音を立て崩壊し、その爆風で二人は前に吹き倒された。耳が感覚を一瞬失い音が遥か遠くに聞こえた。すぐさま回転して起き上がり、瓦礫の脇に身を隠した。ジュンコを探すと数メートル離れた大きなコンクリートの塊の影に隠れていた。こちらを見つけたジュンコが親指を立てるのが見えた。

「今日が最後の夜かしら」
昨日の夜、ガタルカナルの川辺で革のブーツの紐を結びながらジュンコは言った。星は無く、空気は蒸し暑かった。汗でじんわりと身体全体が湿っている。
「あんたの話、面白かったわ」
ジュンコは言った。頬に汗がにじみ、闇の中に輪郭がはっきりと見えた。
「何故アンジェラはあの時あんたの元を去ったのかって、ずっと考えてた」
「何故?」そう言ってジュンコを見た。
「あたしなら、間違いなくあんたを殺してる」
ジュンコはそう言って八重歯を見せて笑った。

空の端がまた震え、更に大きな爆発がすぐ後ろで起きた。それが合図だったかのようにジュンコは飛び出し、ものすごい速さで西へ向かって走り出した。
走るジュンコの黒髪が赤い朝日を反射し、金色に光るのが見えた。


#35

紅玉

 今日こそ厳しく叱り付けてやるんだ。
 隆宏はそう意気込んで扉を開けると玄関には美味そうな香りが立ちこめていた。
 宏幸の泣き声がしないことに少しの違和感を覚えながら暖簾を手で掻き分けるとテーブルには食事が一人分用意されている。真白い皿に一口大のステーキと赤ワインソース。奥のソファに宏幸を子守帯に包んで抱いたまま座っている美幸。傍らにはきちんと畳まれた携帯電話。
 縦に抉れた美幸の手首と子守帯からは赤いものが滴り落ちて床に広がり、眠ったような二人の表情からは何も窺うことが出来なかった。

 僕は何も悪くない。誰だってこうするさ。
 隆宏はそう自分に言い聞かせたが、言い訳は罪悪感を払拭することもなく、免罪符にもならなかった。
 顔を洗うために捲った腕の蚯蚓腫れはひりつき、水を掬うと肩甲骨が割れるように痛む。幸い顔は無事なので出社に問題はない。丸めたタオルの包みを破って濡れた顔を一拭いしベッドに腰を降ろす。
 身包みを一枚一枚剥ぐような執拗な質問攻めに耐え切れず思わず家を飛び出してしまったが、美幸は置き去りにされたことを恨んでいることだろう。
 狂ったように泣き叫んでいる美幸を容易に想像でき胸が痛む。だが帰ったときの報復を考えると同情してばかりもいられなかった。

 発端は上着のポケットに入れたままの新幹線の切符だ。美幸はそれを見て不倫旅行と決め付けた。不安からの疑念とはいえさすがにスケジュールの分単位の空白を全て記憶してあるわけじゃない。トイレか煙草か、コンビニに寄ったのかもしれない。
 そういった隆宏の曖昧さは美幸を激情に駆り立てた。晩飯も取らずに言い合いになったが、隆宏はこれ以上無駄な金を使うつもりはなかった。シーツを引き出して包まると睡魔は緩やかに隆宏を包み込んだ。

 眠りについてしばらく、携帯電話が鳴り、美幸からの連絡だと直感した隆宏はおぼろげな意識のまま慌てて確認した。
「あなたへ。
私があなたの足枷になっていることはわかっていました。でも諦めきれなくて。
宏幸だって元々わたしの我侭で作った子供ですもの。あなたには無理を言ってばかりでした。
でも今日で全て終わりにします。最後にあなたを一度だけ深く傷つけることを許してください。
さようなら。
美幸」
 添付されている画像には、首を締め上げられて玉のような顔を赤く膨張させた宏幸が写っている。
 直ぐに美幸に電話を掛けたが呼出音が鳴り止むことはなかった。


#36

午後の逢引

 袋をもって兄が部屋に入ってきた。

「芋七、夏やし、掛布団つかわんやろ」
「ん」

 布団を詰め込んだ袋の空気を、兄は掃除機をつかって抜くといいだして、僕はそんなことできるのか、と参考書を放り出して兄の顔をみた。
 空気がぬける。フワフワだったのがあっという間にせんべいになる。

「ほれみてみ。すごいやろ」
「おお!」
「もう一回やったろ」

 兄が得意げにファスナーを開けると、みるみるうちに羽毛へと戻り、もう一度同じことを繰り返し、もう一度僕は「おお」と声をだした。


「兄貴は死んでしまったわけでもなく、三年に一度くらいは家族で会うこともあるのに、どうでもいい話が楽しい時間でもあるってことが、いつのまにかなくなったよ」

 奈都子は芋七の話を聞いて、芋七の兄さんを想像してみた。ちょうど奈津子と芋七は美術館のワイヤーメッシュの椅子に座って「兄弟」という絵をみているところだったのだ。少年二人が肩をくんでいる。二人とも野球帽と揃いの赤シャツに半ズボンで、小さい方が芋七に似ていると奈都子は思った。

「私はこの絵をみてると、玉子焼とか照焼きとか煮物とか詰め込んだお弁当のことを考えてしまう……」

 奈都子はそう言って、しまった、と思った。
(芋七が珍しく兄さんのことを話してるのに食べること考えるなんて私ってば)

「そやなあ。忘れてるたのしいことやおいしい味がいっぱい、きっと、いっぱいあんねやろなあ。コード化されて脳みそにしまいこまれた想い出たまたま引き金ひかれてでてくんねやろ」
「あ!」

 関西弁なんか捨てたと奈都子に話した芋七の、初めて話す関西言葉だった。まもなく天窓から淡い光。奈都子は芋七の腕に手をまわし、二人は立ち上がる。

 一人の女が公園で号泣する男の背中をみていた。彼氏に裏切られ、やけくそで仕事をさぼっている公園で突然雷雨にあって「人生ままならぬ」とグレていた女は、わけは知らなくとも自分と同じような悲しい人をほっとけなかった。声をかけた。
 その男とは、芋七の兄で自称作家だった。散歩中に自作のラスト<女を肩車して銀座を歩く猿の後姿>を想像したら、格好よくて満足で泣いてるだけだった。

「ねえ」
「俺、作家」
「あたし雑貨屋」

 あいまいな自己紹介の後、作家は「二人でフジヤマつくろう」と女を砂場へ誘った。夢中で泥の富士山をつくった二人は目茶苦茶に蹴り壊した。まもなく雲間から太陽。女は作家の腕に手をまわし、二人は立ち上がる。


#37

白い髪の女

 静かな夜だった。
 女はアイスクリームを食べたいと言った。
 男――いま何時だろう?
 女――知らない……
 好きなものを頼めばいいと僕が言うと、女は受話器を取ってフロントに電話を掛けた。
 僕はビールを一緒に頼んでくれと女に言った。
 沈黙――男は少し離れた場所から女を眺める――男は何かを思い出そうとするが、何も思い出せず天井を見る……
「君……」僕は女に尋ねた。「どうして髪が白いんだ?」
 女は手鏡を眺めながら、白い髪を退屈そうにいじってる。
「生まれつきなの」
 手鏡に向かって赤い舌を見せたあと、女は何かを諦めたようにベッドの上へ倒れ込んだ。
「ほら、たまにいるでしょ? 真っ白なライオン――あれと同じでね、色素が薄いの」
「じゃあ君は、真っ白な人間だ……」

 真っ白な雪の中で/真っ白なライオンと/真っ白な女が戯れる/ライオンも女も雪も/白く重なりあって/もう何も/見えない……

 ドアをノックする音がした。眠たそうな顔のボーイが、アイスクリームとビールを運んできた。
 僕は缶ビールを開けた。
 沈黙――女は、透明な器に盛られた白いアイスクリームを眺める――まるで時間が止まったみたいに……
「子供の頃ね」女はアイスクリームを匙でつつきながら話した。「私いじめられてたの……みんなに白豚って呼ばれてた」
「太ってたのかい?」
「べつに……きっと白って言ったら豚しか思いつかなかったのよ……子供だもの」
 沈黙――遠くからサイレンの鳴る音が聞こえる――水の中を伝わるようなフワフワした感じの音……
 男――また会えるかな?
 女――商売で?それともプライベート?

 半年後、路上で女が死んでいるのを見掛けた。白髪の若い女だった。外傷はなく、きれいな姿で死んでいた。野次馬が大勢いた。僕は無性に酒が飲みたくなって、近くの酒屋でウイスキーを買った。
 女――私、死んじゃったみたい。
 男――知ってるさ。
 女――私の名前、おぼえてる?
 男――忘れた……
 僕はバス停のベンチに腰を下ろし、ウイスキーを胃に流し込んだ。バスが一瞬だけ止まり、ため息のようなクラクションを鳴らすとまた走り去った……
「まだ名前……」
 ふいに声がした。
「教えてなかったわ」
「君は幽霊か……」
 白い髪の女は、微笑しながら隣に腰を下ろした。
「ねえ、どうしてあの夜、抱いてくれなかったの?」
 女は僕の手を握った。
「ほら……あたたかいでしょ?」


編集: 短編