第79期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 バリア アンデッド 981
2 水分茶屋 中川口物語ー塩舐め地蔵 東 裕治郎 1000
3 逆時計 田中かなた 1000
4 ロマンチスト 藤澤マイコ 789
5 炎壁 takako 997
6 猫と労働者 健太 996
7 Visitors Loc 850
8 春と食欲 (あ) 1000
9 真夏の雪 981
10 準備中 琉那 993
11 寂しがり屋 拓途 970
12 青い月 水瑚 745
13 極意 山崎豊樹 416
14 受賞者 虎太郎 618
15 鈍感 satosi 471
16 Daydreamer 千恵蔵 942
17 いかさま ゆうき 503
18 冬が来る 六花 418
19 モーニン りんりん 780
20 誘惑 1970 1000
21 オタマジャクシ 1000
22 最期の散歩 ベル 987
23 セザンヌ みうら 1000
24 タイムバタフライ 笹帽子 1000
25 なぜ俺は殺人を犯したか 中村 明 945
26 JBショー 5or6 812
27 『麗を弔う宴』 石川楡井 988
28 アカシック・レコードをめぐる物語 研究編 黒田皐月 1000
29 からから さいたま わたる 1000
30 前借り 腹心 1000
31 SANA 546
32 さて、続きを話そうか 日下ヒカル 960
33 ひとり クマの子 1000
34 桜散る頃に ei 1000
35 野球篇 清水ひかり 993
36 春と紅茶 一夜祐 805
37 迎撃 三毛猫 澪 1000
38 陽焼け畳の上で えぬじぃ 1000
39 卓上小説 宇加谷 研一郎 1000
40 人影 qbc 1000
41 狂った男と妊婦 euReka 990

#1

バリア

 心地よい夢から醒める。
 私は欠伸をして、煩いデジタル時計を撫でた。ベッドに潜り、夢へ戻ろうとする。
「奈美ー! 起きないと遅刻するわよ!」
 ドア越しの階下から母の呼び声。高校生の朝という現実に引き戻される。
「んー! もう起きてる! 今行くって」
 大声で母に返事をすると、しぶしぶベッドから起きる。ぼさぼさの髪を触りながら、床に足をつけ立ち上がる。
 首を回しながら、私は眠気眼で歩いた。ドアを目指して。確かに歩いたはずだった。
 ――え?
 何かに阻まれて、それ以上足が出ない。歩いても歩いても、ベッドから三十センチ程度までしか進めない。
 ドアまで辿り着けない。一気に目が覚める。何が何だか解らない。
「なに、これ」
 目の前の宙を手で触ると、柔らかい感触がある。弾性があり、突くと軽く押し返された。

 ――どうやらその感触は、ベッドをぐるりと囲っている。壁のように隙間なく。
 四方を叩いた。蹴ったりもしたが弾き返されて無駄だった。
 ……出られない!
 異常な事態に私の冷静さは十分間で吹き飛んだ。途端に息苦しさを感じる。パニックに陥り血の気も引く。真っ青になっているのが自分でも解る。
 私は悲鳴にも似た声で叫んだ。
「お母さん! 助けて!」
 喉が裂けんばかりに何度も叫ぶ。

 ――何の反応もない。近所中に聞こえてもおかしくないのに。
 その時、
「奈美ー! 遅刻するぞー!」
 ここからでは届かない斜め向かいにある窓の外から、公平の声がした。毎朝一緒に登校するために訪れる私の幼馴染み。
 涙がこみあげる。
 こうへ――。
 だが、私が呼んでも声が出なかった。
「今出る」
 私に似た女の子が窓を開け、彼に声をかけていた。
 そんな……私はここに。
 頭の中がグチャグチャになる。彼に助けを乞いたいのに。
 彼女は窓から離れると、制服を着て登校の準備をしている。
 私は彼女がそうしているのを見ていた。見えない壁を叩き、出ない声で泣きながら。涙で視界が歪み、押し潰されそうな心と体が悲鳴をあげた。

 準備が済んだ彼女は、私の部屋から出て行こうとする。
 そしてドアを閉める直前、私と彼女の目が合った。
 彼女は笑っていた。
「そこで朽ちていけ」
 残された言葉と共に、ドアが閉じられる。

 私はなぜか自分の手足を見た。爪が剥がれている。
 小指の先が溶けていて腐った林檎を思わせた。
 床には、抜けた歯も転がっていた。


#2

水分茶屋 中川口物語ー塩舐め地蔵

「ちっとだんな。なとかしてくださぃな」
店前で籐衛門は聞き覚えのあるだみ声に振り返った。
「これはおふみさん。好いお天気で」
「天気なんかどうでもいぃんだよ。又あの悪餓鬼共が、」
「まあまあ、立ち話もなんだから店で麦茶でもどうですか」

大声でどなっていたふみ婆さんは急に愛想笑いをしていそいそと中に入る。

「この辺じゃあ昼間っから暇そうにしてる男衆はあんたぐらいなんだから」
と切りだしたのは近所の子供たちの悪戯の話だった。

水分茶屋の近くに宝塔寺という寺がある。
境内はさして広くもないが、入り口近くに、塩舐め地蔵と呼ばれる地蔵が祭られている。
前を流れる小名木川には行徳の塩が運ばれ、それを供えていたのでそうよばれるようになったらしい。
ふみ婆さんが言うには、その地蔵の塩で、子供達が雪投げのような遊びをしていて
信心深い老婆としては黙っていられなかった。

「そもそも、ここぃらの餓鬼共が言う事を聞くのはあんただけなんだ。子供らにただで、茶や団子を食わせるから聞くんだろうけどね」

そう言っている婆さんもその一人だった。

「家の亭主も近所の百姓も皆、昼間は働いてる。みずわけ茶屋の主なんてのんきな、、」
「あっ。みずわけじゃあなくて、みくまり、なんですが、」

話の腰を折られた、ふみ婆さんは、目を吊り上げいよいよいきり立った。
「どっちだっていいんだよ。ともかく、子供達の悪戯、なんとかしておくれ。あんたが甘やかすから頭に乗るんだ」

「ふみさんの仰る事はわかりました」

なだめる様に団子を一皿、そっと差し出す。
「こんな話を聞いたことがあります」と籐衛門は語りだした。

昔、子供達が地蔵を縄で縛り、道を引っ張って遊んでいた。
それを見た老人が、子供達を叱りつけ、地蔵を元の場所に戻した。
老人は、善い事をしたと、その晩気分よく床についたが、夢の中に地蔵が現れ
「せっかく子供達と仲良く遊んでいたのに、何故邪魔をするのか」と叱られたという。

「結局、善いとか悪いとかは、見方を変えれば違ってくるんじゃないですか」
「ふぅん。そんなもんかねぇ」
ふみ婆さんは、茶を飲み終えると帰っていった。

数日後、又、ふみ婆さんが水分茶屋にやってきて
「こなぃだ、見方を変えるって、あんた言ってたけど、やってみると面白いもんだねぇ」
と、にやにや笑っている。

「ほら、あの八百屋の息子。よく見るとあんたそっくりだねぇ。他所で子供拵えているか
ら他んちの子供にやさしいんだろう、、」


#3

逆時計

「逆時計」
誕生日のプレゼントは何がいいか、という問に彼女はそう答えた。
「なんだって?」
「逆時計周り時計」
「それが欲しいの?」
「うん」
「初めて聞いたな、そんなもの」
「なんとなく思いついたのよ」
「えーっと、どこに売ってるんだろうな……そもそも……」
そもそもそんなものが存在するのだろうか。
しかし、なぜ逆周りの時計などというものを欲しがるのかその時の彼にはまったくもって理解できなかった。
確かに一風変わった品なようなので人に見せびらかせば満足を得れるのかもしれない。
けれども、と彼は思う。
そのような人だったろうか、彼女は。

友達付き合いから数えると丸三年になる二人の関係は、ほとんど終局を迎えつつあった。
彼女は両親が経営している小さな旅行代理店の手伝いでちょくちょくガイドとして海外ツアーに同行していたが、大学卒業が迫り、両親と今だ決めていない進路を話あった結果、そこに就職することとなり、今度は本格的にガイドとしての勉強を始め、更に手伝いに行く機会も増え、大学に来ることが稀になった。
そんな様子なので彼は寂しい気持ちを抱きはしたが、彼も彼で、その頃自分の就職の準備やらに真面目に取り掛かりはじめたので、耐え難い空白も埋まり何も感じることもなく自然と二人は会わなくなっていった。
毎日のようにお互いのことを話しあって積み重ねてきた年月がまるで夢のように、はなればなれになってしまっていた。

数日後、彼は街へ出て逆時計なるものを捜し歩いた、ネットで調べ、存在を確認はしたもののどうやら通販などでも既に売り切れているらしく、加えて限定生産なので、望みは薄かった。
スーパーやブランド店を巡り歩き、隣町にも行き、都会にも出たが見つからなかった。
オークションで……しかし中古品はいかがなものかと諦めてしまい、結局女性物のシンプルな腕時計を買い求めた。

数年後、彼は転勤先の街を一人練り歩いていると、古ぼけた時計屋のショーウインドウにふとした違和感を感じた。
覗き込んでみるとそこに逆時計を見つけた。
眺めていると不思議な気持ちに囚われた。
職人はどんな気持ちでこの時計を創りあげたのだろうか。
あの時の彼女は何思ってこの時計が欲しいと頼んだのだろうか。
今の彼には分かる気がした。
世界に矛盾した時計は刻々と誇らしげに逆周りに時を刻み続けている。
世界のほうが矛盾しているのだと言わんばかりに。
彼はショーウインドウの前に立ち尽くしていた。


#4

ロマンチスト

結婚して一年が過ぎた。夫とは見合い結婚で、なぜか知り合って3ヶ月で結婚してしまった。結婚はあせっていただろう。35歳だったし。自分でもわかっている。今まで恋愛もしたし、見合いも何回かした。でも、どれもそこそこで終わってしまった。夫を選んで、しかもあっという間に結婚した理由は自分でもわからない。
ともかく結婚したのだ。世間一般では幸せというのだろう。
独身の頃は、精一杯仕事をして、帰りにお酒を飲むのが好きだった。こんなに楽しいのなら、結婚しなくていい。
そういう思いを楽しんでいた。
だが、結婚してしまった。
自分でも本当にわからなかったのだ。ただ、なんとなく流されてみた。仕事では収入も、地位もそれなりのものを得ていた。
私はそれを簡単に捨てた。
結婚して一年、久しぶりにワインを飲んだ。
夫は好んでお酒を飲まない。今日はたまたま夕食に牛肉のステーキを出したため、私に付き合った。美味しかった。久しぶりに酔いも味わった。
酔ったので、なんとなく夫をいじってみたくなった。顔をなでたり、くすぐったり、私が擦り寄ってみたり。夫はそのたびに言う。
「なに?」
顔は笑っている。
「さあ。なんでだろう」
私は答える。
意味なんてない。いじってみたくなった本能に従っただけ。
一年たって気づいた。
結婚することって、本能に基づいた行動だったんだ。私はアフリカのヒョウと同じくらい、非常に本能に忠実な動物といえる。
私は、夫の知らないところはまだまだたくさんあると思っている。酔った顔を夫に見せたのはこれが初めて。
夫は何か勘違いで私と結婚したかのように思う。

夫は私に何を求めて、何を想像して結婚したのか?
わかっているのは、私の夫は、究極のロマンチストといえること。
私と結婚するなんて、ちょっとおかしいんじゃないの?
でも、いまはただ、満ち足りた、ハートの奥底からわいてくる快感のなか眠りたい。

わるくないものじゃない?結婚。






#5

炎壁

またこいつか。
友達や家族と過ごすプライベートな時間ですら台無しにしてしまうような、自分に付きまとうひとつの影。それに気づいたのは二ヶ月ほど前だっただろうか。
鍵は大家さんに頼み込んで、複雑なものに替えてもらい、昼でもカーテン等は決して開けなくなった。電話線は引っこ抜き、四六時中嫌というほど鳴り続けていた携帯電話は二週間前に電源を切ったままで、友達には修理を口実にして引き出しの奥に封印した。
気休めにしかならなかったが、そうするだけでも幾分かはマシだった。それでもやりようのない怒りを抑えるのにずいぶん苦労する。上京してきた独り暮らし先で、どうしてこんな目に遭わねばならないのか。
警察に相談しようかと何度も考えたが、どうにも踏み込みきれず、ひたすら耐える日々が続いた。
ある日、パソコンのメールはまだチェックしていないことに気付いた。まさかと思ったら、やはり新着メールの件数が三桁を越えていた。見なければよかったという後悔が、体中を包み込む。
(保護システムが最新の状態ではありません。更新の必要があります。)
キーボードに顔を埋めたその先の画面右下に、こんな警告文が表示された。
パソコンの知識なんてほとんどなかったが、ファイアウォールとやらが万全じゃないとかではないだろうかと素人ならではの単純な発想に到る。他にすることもなかったし、素直に警告文に従うことにした。
(最新の保護システムに更新しています……)
(メールボックスをチェックしています……)
(ネットワークシステムをチェックしています……)
(あなたの身の回りをチェックしています……)
ん?
見慣れぬ文面が出てきた気がしたが、すぐさま(更新が完了しました。)という表示に変わったので、気にせずそのままページを閉じた。
パソコンの電源を切って、布団に潜り込むと、すぐさま睡魔が襲ってきた。

「和実ぃー、遅いよ、まだー?」
 翌朝。いつも通り友達が迎えに来た。
「はいはーい、今いくからね―」
返事をしながら私は急ぎ気味に支度を進めていく。バタバタと慌ただしい音の横で、テレビでは淡々とニュースが読まれていた。
「……昨晩未明、火事だとの通報を受け警察が駆けつけたところ、二十代の男性が遺体となって発見されました。現場は……」
プツン。
「お待たせー、じゃ行こっか」


……その日から、私へのストーカー行為は一切起こっていない。


#6

猫と労働者

猫に餌をやるな、と書かれた看板を見て愕然とする。今まで人に餌を貰って過ごしていたから、それがなくなればどうしたら良いかわからない。ゴミ捨て場などを漁る……?プライド的には構わないが、野良猫同士の競争も激しい。なんとかならないだろうか。
そんな不安を抱えながら、いつもの草むらでまどろんでいると、聞き覚えのある足音がした。いつもここを通りかかる女性だ。近くのスーパーで買ったらしい食品の入った袋を提げながら歩いてきて、いつもはこの袋から何かを僕にくれる。僕は女性に近づき求愛ように甘い声で鳴く。
「ゴメンね、もう食べ物はあげられないの」
本当に申し訳なさそうに彼女は言う。彼女の顔を見るのが怖くて、僕はO脚気味の足に目線を向けていた。
再び草むらに戻った僕は考える。まだあの人がくれなかっただけじゃないか。諦めるのはまだ早い。
たかが看板一つで劇的に状況が変わってたまるか。そうしていると、土木作業員であろう、ツナギを着たおっさんが通りかかるのが見えた。僕は演技でも何でもなく、悲痛な声で鳴く。
「なんだ、まだいたのか。もう餌はやれないんだ」言葉のあとに手を払うような仕草が見えた。僕はもう希望を捨てた。
何も食わずに、意地だけで生活して一週間。それでも毎日あの空き地に僕は行く。最初から餌なんて与えなければ僕だってここに来ていなかった。
僕の死体がここで見つかったなら、人々も自分勝手な行動を少しは悔やむだろう? そんなことを考えながら細い道を抜け、いつもの空き地に抜け穴から入ろうとすると、抜け穴がネットで塞がれている事に気付いた。意地だ、野良猫の意地を見せてやる。
ネットを破ろうと引っ掻いたり噛み付いたりして一時間、穴が開いて僕は飛び込む。と思ったら、地面があるはずの場所に足はつかず、足をバタバタさせる格好になる。そして重力に従い下に落ちた。
1メートル程の穴になっていて、すぐに足が着いた。これは何? そう思っていると、見覚えのある作業員が僕に声をかけた。
「お前、やっぱ来ちゃったのか。工事が始まるから住民にも話して餌を与えないようにすれば、工事で怪我しないかなと思ったんだけどな」
言い終わったあと、彼は僕を抱えあげてさっきの穴に戻した。彼はそれ以上語らなかったが、翌日から穴の入口に毎日食べ物が置いてあって、それを食べながら見る彼のツナギはドロドロだったのに何故か輝いてみえた。


#7

Visitors

「ママ、また音がするよ」
息子は天井を指差していた。確かに人が往来しているような物音が聞こえる。
あの日以来、上の部屋は空いているはずなのに……。

あの日、子供会の旅行で訪れた那須塩原からの帰り道。私たちの乗っていたバスは東北道を南下していた。
遊び疲れた子供たちに保護者の殆んども眠りに落ちていた。最後に目にしたのは鹿沼インターまであと何キロという標識だった。急ブレーキを踏んだのだろう、突然シートベルトがきつく腹部を締め付けた。次の瞬間、物凄い衝撃音と共に体が大きく揺さぶられる。何が起こったか理解する間もなく目覚めたのは病院のベッドの上だった。
バスと大型トラックによる衝突事故であった。幸いにも私たち家族は命に別状はなかったのだが、アパートのすぐ上の部屋に住む小澤さん一家は全員亡くなってしまったことを入院中に知らされた。
小澤さんの一人娘である彩乃ちゃんとは、息子が同級生ということもあって家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっていた。
あの日、もしも座ったバスの座席が左右違っていたのなら……。

退院してきたその日に、上の部屋からの物音はしていた。まるで事故なんてなかったかのように……。
誰もいないはず。小澤さん家族は亡くなっているのだ。そんなことはないだろうが、まさか……。

ピンポーン!

チャイムが鳴ったあと、聞き覚えのある甲高い声が耳に入ってきた。
「小澤ですけど、岡田さんいますか?」
お、小澤さんの奥さん?!
どうして?小澤さんは亡くなってるはずでは……。
「岡田さん!いらっしゃいますか?」
声はだんだん大きくなっていく。
「太郎くん、いるの?いるなら出てきて!」彩乃ちゃんの声もする。
これはあの世から小澤さん一家が迎えに来たに違いない。出て行けば私たちも天界に連れていかれるのだ。
「ママ、怖いよ……」
怯える息子を抱きしめて、声がしなくなるのひたすら待ち続けるしかなかった。


「やっぱりいるわけないわよ。岡田さんたち亡くなったんだから」
「彩乃、本当に見たんだよ!」
「窓に人影が見えたなんて気のせいよ。気のせい」


#8

春と食欲

「ねえ、味噌汁変えたでしょ」
 サヤカの不機嫌な声がした。僕は頼まれたケチャップを冷蔵庫から取り出そうとしていたのだが、サヤカはすぐ後ろに来ていた。
「袋は? もう捨てた?」
 今朝開封したばかりのインスタント味噌汁のパッケージを差し出す。36食入り980円。近くのスーパーでおすすめされていた。
「ふうん、PBねえ」
 プライベート・ブランドのことをPBと呼ぶんですか、と思ったことを口に出そうものなら、むくれてしまって大変なことになる。僕は黙り、サヤカが朝食のテーブルへとおとなしく戻ってくれることをひたすら願った。でもそうはいかないようだった。
「製造所固有記号って知ってる?」
 袋に書かれた文字を指差しながらサヤカが問う。残念ながらもしくは幸運なことに知らない。首を振った。
「ふうん、そんなことも知らないんだ」
 サヤカはそう言い、そして少し機嫌を良くしたようだった。僕の顔をのぞき込んだ後、キッチンから揚々と出て行った。


 実際問題、家計は悪化しているようだった。浪人を続ける予備校生のサヤカと彼女の姉、ヒナコの生活はヒナコの株取引による収入に頼っているからだ。サヤカは人間であるが、ヒナコは猫の姿をしており、その辺の事情は僕は詳しく知らないのだけれども、色々大変だと思う。僕はただの『お手伝い』なので、毎月のバイト代さえきちんと入れば詮索する必要などない、のだ。多分。けれどもサヤカとヒナコに食事を提供するのが仕事である以上、お金のことが気にならないわけでもなく。


「また春が来たね」
 朝食の後、窓の外を眺めながらサヤカが言う。ソファーに深く沈みこむように座っていて、そして目を少し細めている。リビングには日差しがあふれ明るい。僕は濃く作ったコーヒーを飲み、サヤカが通う予定の予備校の申込用紙に目を通す。僕は後でそれに記入しなければならない。ヒナコは隣の和室にいて、こちらに丸い背を向け新聞を読んでいる。時々しっぽが揺れる。
「……花見」
 サヤカが小声で言った。僕はコーヒーを一口飲む。
「は、な、み。聞いてる?」
 聞いています。
「お姉ちゃんと一緒に花見に行きたいな。桜ってさ……そうだ」
 何でしょう?
「どんなお弁当がいいかなあ」
 サヤカのクイック話題チェンジ。僕は食欲が満たされていて食べ物のことを考えられない。
「今年は中華弁当! というわけでおいしいの作って」
 ヒナコも聞いていたようで、にゃーんと鳴いた。


#9

真夏の雪

もう、嫌だ……

生きているのが……
楽しくない。
嬉しくない。
悲しみしか生まないこの世界にいる意味なんて無い。
それは、夏の暑い夜だった……
今居るここは、星の見えない東京の一番美しい景色が見える場所。
空の光が全て地上に降りてきたんじゃないかと思うほど、東京の街は美しい。愚かな人間たちが築き上げてきたものが、今、ひとつの光となって見える。世界が消えればいいと思った、全身死ねばいいと思った。
けれど……それを思っている自分が死ねば簡単に解決するとも思った。だから、僕はこの世界にさよならをする。靴を脱いで、遺書なんて無い。いや、振り返って見れば、僕には残せる物なんて何にもない。
覚悟を決めた時、ふと脳裏を過ぎる。走馬灯のように人々の顔が浮かぶほど、僕は人を愛せていたのだろうか?答えを教えてくれる人は居ない。答えを知っていなければいけない僕自身がわからないんだ。
そんなこと……わかるはずもない。
人生で最後のジャンプは僕に躊躇を与えた。と、同時にそれを上回る勇気をもくれた。一瞬の無重力の後、重力の手の平はすぐさま僕の足を掴み、凄まじい勢いで僕を地上へと誘った。夜の闇が僕の体を包み、目の前を眩しい光の群れが乱れ、飛び交う。不思議と気持ちは穏やかだった。僕の体を撫でては消えていく風は、僕の悲しみ、苦しみ、憤りを全て洗い流してくれるように感じ、心地良かった。
「ああ、気持ち……いい……」
これが僕の、この世界に残した最後の言葉だった。次第に視界は白くぼやけてきて、そして、真っ白に染まった……
 ――僕は 死んだのか?
雪……それは、確かに雪だった。
僕の記憶が確かならば、さっきまで僕が飛び降りた町、僕が生まれ育った町、桜木町に雪は降っていなかったはず。それ以前に、終わりかけとはいえ季節は夏だ。
おかしい。
……夢……なのか? 意識が、僕の体から離れない。 なぜ?
指が動く。痛みはない。冷たい地面の感触。
「(……生きてる……?)」
恐る恐る、目を開けてみる。白くぼやけた視界の向こうに見えるものが僕の記憶の断片にあるものを思い出させる。
「これは……雪……?」
いや、違う……夢にしてはリアル過ぎる質感……
雪が、思い出すよりも先に、その冷たさを僕の肌に感じさせてくれる。髪の毛に積もった雪を振り払いながら、薄い雪のじゅうたんの上に僕は立ち上がる。


#10

準備中

昔々,あるところにアリさんとキリギリスさんがいました。
アリさんはいつも一生懸命働いて、年金も払っていました。キリギリスさんは、いつも趣味の音楽を奏でてばかり。
あるときアリさんはキリギリスさんに問い掛けました。
「ねえ、キリギリスさん、そんなに遊んでばかりいて冬は大丈夫なの?」
キリギリスは答えます。
「先のことばかり考えても仕方がないよ、僕は音楽にかけているんだ、僕には音楽しかない、いや僕には音楽があるんだ。……アリさん、実は来週音楽のコンテストがあるんです。それに合格すれば僕は音楽でやっていける、それが僕の夢なんです」
夏の澄み切った青空をキリギリスはうれしそうに眺めていた。
キリギリスさんのコンテストの日がやってきました。
(大丈夫、あんなに頑張ったんだ、絶対大丈夫。)
しかし結果は第一次審査で不合格でした。 原因は明確です。
皮肉なことに練習のし過ぎで楽器がいい音を奏でなくなっていたのです。
(うちには買い換える余裕もない、せめて僕に盗人になる度胸があれば……)

冬。寒い寒い冬がやってきました。
夢断たれたキリギリスは気力もなく蓄え・食料もありません。家賃滞納で、家も追い出されてしまいました。コンテストに向けた深夜まで続く猛特訓のため、近所住民との仲は完全に冷え切り、もはやアリに頼るしかありませんでした。
ドンドンドン、「アリさん、アリさん」
ドアの向こうからアリが応えます。「やあ、キリギリスさん、どうしましたか」
「実は……」
キリギリスは事の次第をアリに告げ、せめて今日の食事と宿を頼みました。
「わかりました、少し待っていてください」
ホッとしたキリギリスはドアの前でしゃがんで待っていました。しかし、いくら待てどもアリは来ません。
夜の吹雪が容赦なくキリギリスの体力を奪っていきます。たまらずキリギリスはせめて中に入れてくれといいましたが、
「いや、せっかく来てくれたのでパーティーの用意をしているんです」
「もう少し待ってください。今メインディッシュの用意をしていますから」
などと言ってなかなか入れてくれません。やがてキリギリスは体が動かなくなり、意識が薄れてくるのを感じてきました。
そのときです。ガチャリとドアが開き、アリが出てきました。
アリは足元に倒れているキリギリスに、やさしい笑顔で言いました。
「キリギリスさん、食事の準備が出来ましたよ」


#11

寂しがり屋

(この作品は削除されました)


#12

青い月

―――不思議な夢を見た。

子どもの頃の記憶が、残像となって瞼の裏に映し出される。

中学生の僕は、親父とケンカして家を飛び出した。
向かった先は家から数十メートル先の公園。ブランコに腰を掛け、僕は夜空を見上げた。
見事な星空だ。
星空に吸い込まれそうになるというのはこういうことを言うのかもしれない。
ふと小さな子供が隣のブランコにちょこんと座っていた。
それが男の子か女の子かだったなんてどうでもいい。
「あのね、お星様にお願い事するとね、叶えてくれるんだよ。」
その子は僕にそう言った。
きっと僕はむしゃくしゃしてたんだろう。
そんな非現実的なことを言っているその子が憎らしくなった。
「そんなことあるはずないだろ?あの星は遠い遠い宇宙にあるんだ。僕らちっぽけな人間の願いなんか届くものか。」
中学生にもなって“星に願いを”なんて御免だと思った。
「現実を見ないと。星にそんな力があるんだったら、みんなお願い事をするさ。
テストの点数が上がりますように。とか、好きな子と隣の席になりますように、とか。だから僕は、信じない。」
流石に、小さい子供相手にムキになりすぎた自分が恥ずかしい。
その子は黒い大きな瞳をすこしだけ潤ませ、こちらを見つめた。
その瞳が、僕の中のもやもやをより増幅させた。
ブランコから飛び降り、石を蹴りながら帰路に立つ。
心の中ではその子のことがすごく引っかかっていたけど、僕は振り返らなかった――――


時計を見ると、まだ深夜一時だ。
隣には、愛らしいわが子が気持ちよさそうに眠っている。。あの子と同じくらいかもしれない。
僕は自転車に飛び乗り、あの公園を目指した。
今日も星は綺麗に輝いている。
あの子が何者だったかなんてどうでもいい。
ただ、今の僕に信じることが、願うことが許されるなら。
  
また、あの子に会いたい。


#13

極意

 吉岡はとある会社のセールスマンである。

しかし彼は生来の口下手で、そのうえ会社の扱う商品は家庭向けのものが多かったため、どうしてもセールスの相手も主婦が多く、ますます気後れしてしまい、吉岡の営業成績は悪かった。

 そこで、吉岡は同僚で売上トップの神山に相談してみることにした。

「なあ神山、どうやったら君みたいにうまくセールスを進められるのだろうか?」

「ああ、簡単なことさ。まず血液型を聞くんだ」

なるほどそうかとうなづいて、山本はそのアドバイスに従ってセールスをすることにした。

 そして1週間後。

「吉岡、俺のアドバイスは役に立ってるかい?」

「ああ、それなんだけど……。女性はやっぱり占いの話題とかが好きかと思って、話を進めようとするんだがなかなか話題が広がらないんだ。
 せっかくアドバイスしてもらったけれど、やっぱり元から話のセンスのある奴じゃないと無理みたいだな」

「バカだなあ、聞くのは旦那の血液型のほうだぜ」


#14

受賞者

「もう私がノーベル賞を受賞することはなさそうだ」
博士はその老体を実感しながら呟いた。
「博士、まだ希望を捨ててはいけません!」
「いや、私が老い先短かいのはもうわかっておる。せめて、息子か孫、私の子孫に受賞者が出ればいいのだが……」
「では博士、こんな機械を作ってみてはいかがでしょう」
私は、たった今思いついたアイディアを話す。
「情報のタイムマシンです。もう博士は時間旅行も苦しいでしょう。なので未来の情報を読み取れる機械を作るのです。そして博士の子孫を検索にかけて、受賞者が出たのかを調べるのです」
「おお、それはいいアイディアだ。さっそく開発するとしよう」
時間工学において天才的な頭脳を持つ博士は、一晩でその機械を作りあげてしまった。
完成したこの検索機に、博士の名字と受賞者の二単語で検索にかける。
「ケンサクケッカ 1ケン です」
私と博士はそのページを開いた。
そこには博士の子孫が三百年後に、ノーベル平和賞を受賞すると書いてあった。
「よかった、私はこれで安らかに逝くことができるよ」
博士は満足して、そのまま他界してしまった。
私はこの検索機をさらに改善して、小型にし、世間に広めた。
そのおかげで私はノーベル物理学賞を受賞した。



三百年後、街頭ヴィジョンではニュースが流れている。
「本日、世界が完全に平和となりました。それに伴い、全国民に平和への貢献の証として、ノーベル平和賞が授与されました。おめでとうごさいます」


#15

鈍感

(この作品は削除されました)


#16

Daydreamer

理由はわからないが、最近生きている心地がしないのだ。

何かぼんやりしたお伽話を、繰り返し繰り返し聞かされているみたいだ。



冬の凍れる寒さに耐え、オフィスで僕はコーヒーを飲んでいる。

目がぼんやりしていたが気は確かだったはずだ。



夢だったのだろうか、僕は公園を歩いていた。

見慣れない公園を見知らぬ少女と歩いている。

とても不思議な気分だったが、悪くもない。
何か懐かしいものを感じていた。

突然、少女は立ち止まりふいに僕を見つめる。
冷ややかで悲しそうな目だった。



そしてまた景色が変わる。

誰の車かは知らないが、僕は車を運転している。

隣には髪の長い綺麗な女性が、外を眺めて座っていた。

何か見えるかい、僕が聞くと
「夕日がとても綺麗」そう答えてみせた。

車のライトを点けた時、僕は左手に冷たいものを感じた。

それは彼女の手だった。
彼女の手はひどく冷たく、少し湿っていた。

僕は横道に車を止め、彼女を心配する。

僕が何を問い掛けても彼女は答えず、震えて泣いていた。
そこでまた光が消え、新たな光が入る。

僕が目を開けると、二人掛けのテーブルにたくさんの料理があり、女性が座っていた。

髪の短い女性は、フォークとナイフを操り笑顔でサラダを食べている。

この料理は全て彼女の手料理らしい。
ルッコラとラディッシュのサラダは自慢の一品だそうだ。

「なぁ、ラディッシュって二十日大根の事だろ」
「近いけど遠い。親戚みたいなものよ」
こんな他愛もない会話が、楽しいと思ったのは初めてだった。

これが幸せと言うものなのか、こんなことまで考えていた。

食事が終わると彼女は、自分の夢について話しだした。
口調は軽く、楽しそうに話すのだが何かが違う。

軽やかに踊る口の上に付いている二つの目がどこか寂しげにしていたからかもしれない。

その目は前の二人と同じ冷淡さを持っていた。



そこで全てが醒める。

誰もいない部屋で、保存料だらけの弁当を食べている。

これが自分の日常だ。
また何処かへ旅をしていたのかもしれない。

理由はわからないが最近生きている心地がしないのだ。

何かぼんやりしたお伽話を繰り返し聞かされているみたいに。


#17

いかさま

石川の手に汗がにじむ。
まさに“天運”とはこのような事を言うのだろう。
大逆転への道が、石川にははっきりと見えていた。

赤、黄、茶色、色とりどりの球の中に一際輝く的玉。
今回のワンオンルールでは、石川がそれに持ち玉を当てた瞬間、彼の逆転勝ちが決定する。
石川は、まだ余裕の笑みを見せる対戦相手の宇加谷を無視して、ボールの動きをゆっくりとシミュレートする。

「いける」

確信を持って小さく呟いた。
インパクトは持ち玉の真芯を捉えた。赤銅色の持ち玉は、球と球の間隙を縫うようにして青い的玉へと一直線に突き進んだ。
最早、この勝利を遮るものは何も無い、と石川が確信した瞬間、的玉から飛び出した何かが赤銅色の軌道を曲げた。

「いかさまだ!」

石川は思わず声を上げて審判に顔を向けた。
だが、主審も副審も首を横に振り、石川の抗議を認めようとはしなかった。


〜所変わって〜

ニュースキャスター「各国の英知の粋を極めた対赤色彗星ミサイルは、見事に彗星の軌道を変えることに成功しました!
地球の危機は去ったのです!
まさに、今この時の為に我ら人類が神によって地球にもたらされたと言っても過言ではないでしょう!」


#18

冬が来る

「ふむう……御前さんいつもそうして裏庭を眺めているが、この庭が好きなのかい?」
「わたくしはこうして静かに座つてゐるのが好きなのです。今日はお客様はいらつしやいましたか」
「今日は信楽焼の狸をひとつ、持ってきた人がいたよ。ほら、いつも花を持っていらっしゃる」
「ええ、それで狸は如何でした」
「何やら本物のような気色だったよ。今は表に出してある」
「そうですか。ちよいと見てみませう」
「それから、あの糸車は売ったよ」
「お向いのあの書生ですか。」
「そうさな、魚をもらってしもうた。今夜戴こうか」
「立つ派な鮟鱇ではありませんか」
「捌いておくれでないか」
「お水と小出刃をお願がいします」
「おお、鯵切しかないが。水は庭で汲んでおいで」
「御茶も淹れて参りますから、そこでゆつくりしておいでください」
縁側に佇む老婆。庭の井戸の際に、柄杓を持ち鮟鱇を掛ける姿があった。
冷たい風に木の葉が揺れ、燕尾服の裾は微かに翻った。
冬が来る。


#19

モーニン

(この作品は削除されました)


#20

誘惑

『この門、開けるべからず』
まったく困ったものだ。開けるなと言われたら開けたくなるのが人情だ。俺の場合、特にその傾向が強いらしい。昔から『やるな』と言われると、ついついやってしまい、痛い目に遭っている。
門に書かれた警告文を見るたび、開けたくて開けたくてたまらなくなる。しかし、そんなことはできないのだ。
重く分厚い鋼鉄製の扉の前で、ひとりため息をつく。いつものことだ。

今頃、門の向こうはどうなっているのだろう?
暇さえあれば、そんなことを考える。外の様子を知る手だてはない、そのことが余計に想像心をかき立てる。花畑が広がる楽園だろうか? いや、おそらくは地獄が広がっているに違いない。放射能にまみれ、荒れ果てた大地が……。

今から五年前、世界中を巻き込んだ核戦争が起こった。
一発の核ミサイルが発射されたのを皮切りに、連鎖的に報復攻撃が始まり、あっと言う間に世界中が焼き尽くされた。軍人だった俺と少数の者たちは、この地下施設にいたおかげで、たまたま難を逃れることが出来た。他にも生き残った人類がいるかもしれないが、通信、交通手段が途絶えた今となっては知る由もない。
この施設は外界とは完全に隔絶されている。放射能の心配はない。地熱エネルギーで装置を動かし、食料生産から水・空気の循環まで必要なことはすべてまかなえる。
ここは、人類最後の生き残りが乗る箱舟なのかもしれない。

しかし、そんな生活を続けた俺たちの体は、次第に弱っていった。やはり人は大地に立ち、陽の光を浴びなければ生きていけないのだろう。仲間は一人、また一人と死に、俺が最後の生き残りというわけだ。
そして、俺の体にもついにガタが出始めた。おそらく長くはないだろう。

俺は決心した、門の外に出よう。どうせ死ぬなら大地の上で死にたい。それが人間らしい死に方というものだ。
制御装置にコードを打ち込みロックを解除する。これで出られる。重い足を引きずりながら、門の前にゆき、開門スイッチを入れた。
だが扉が開くその瞬間、緊張の糸が切れたのか全身の力が抜け、俺はその場に倒れてしまった。目の前が暗くなり、意識が薄れる。
残念だ……死ぬ前に、一目でいいから外の世界を見たかった。まあ天罰だろうな。何しろ、世界がこんなことになったのはすべて俺の責任なのだ。


『このボタン、押すべからず』
誘惑に負け、核ミサイルの発射ボタンを押したばかりに……。


#21

オタマジャクシ

 陽は暮れず、いまだ赤々としていた。夕陽の強く射す生物室に、ぼくが入ったときにはもう、ひとつの机を囲んでたくさんの部員がざわついていた。引き戸を開けたぼくのほうに眼を向けたのは、傍で見守る先生だけで、色めきたつ中心部分は熱量を一点に集めているようだった。いそいそと脇から集団にもぐりこむと、オタマジャクシに足が生えかけていた。
 生物部では、オタマジャクシを大きな水槽で飼育していた。初夏に田圃からすくいあげてきた、体長数ミリの半分水に溶けたような黒い生き物は、一ヶ月あまり経ったいま三センチほどの大きさになって、カエルへと変化しはじめていた。
 しかし、どうしてこうも熱気を帯びているのだろうか。ぼく以外の十数人は、言葉にならない感嘆の声を上げていた。それらは渦を巻き、狂ったように共振し、辺りをとり巻いている。ぼくはよく眼を凝らした。
 驚いたことに、オタマジャクシが共喰いを始めていた。それも、足の生え始めたものが、まだ足が生えていないものに喰われている。小さな足が生えかけたオタマジャクシは尻尾を不器用に動かしながら、精彩を欠いた泳ぎで懸命に逃げるのだが、足の生えていない二、三匹に後ろから襲われている。まるで、しのびこんだ外敵を排除するかのように、頭から口を大きくひらいて、尻尾を足を噛みちぎる黒いオタマジャクシは気味が悪かった。無残な光景は水槽のあちらこちらに拡がっていた。
 オタマジャクシで真っ黒い水槽の横に、足の生えたオタマジャクシを移しかえるための水槽が用意されていたが、そこに泳いでいたのは僅かで、部員はみな、途中でその事務的な作業に飽きてしまったのか、淘汰され息絶えてゆくオタマジャクシにぎらぎらとした視線をおくりながら興奮を抑えきれないでいた。ひとつの風変わりな催しを楽しんでいるかのように、オタマジャクシが力尽きるたび歓声を上げるのだった。
 生き延びた数匹のオタマジャクシは水中から抜け出し、ガラスに足でへばりついていた。懸命に体重を支えているが、じわりじわり水面に近づいている。嘔き気がしてきた。熱狂は、静まりそうもなかった。
 思わずその場から逃げ出したくなって、しずかに足を後ろに運んでいた。一歩二歩と、退いていると、踵が標本棚にぶつかって、かちん、と小さく音がした。そのとき声がぴたりと止み、一斉に部員たちがぼくに顔を向けた。沢山の真っ黒い眼は、みな同じように無表情だった。


#22

最期の散歩

(この作品は削除されました)


#23

セザンヌ

 姪が寝室への襖を前に立ち尽くしている。隣の襖に移った。押入れの襖を振り返る。だめだ、ぜんぶ線で汚れてる。足元を見る。しゃがんだ。
「ばー」
 絨毯に線を引く。立ち上がり仕上がり確認。真っ赤なクレヨンがぽーん、とDとLを分けている引き戸にあたって音を立てた。
 さきいかを持って弟が模造紙を伸ばして引き戸に貼りつけるといそいそとその娘は隅に落っこちている真っ赤なクレヨンを拾いにいくのであった。
「末は画家か大臣か」
 弟は抱き上げた娘の手を時折とって線を導いている。
「金持ちに嫁いでもらうんだ」
「夢のある話だ」
「姉ちゃんが失敗するから」
「まー、あれは」
 引き戸に映し出されるぼんやりとしたシルエット。弟の影のなかにあるはずの姪の影。あの蛍光灯かえどきだね。
 姪がぐずるので覗きにいくと、皿の上に林檎がのっていた。
「セザンヌですか」
「インテリ」
「芸術家くずれ」
 姪が着地する。
「ちょっとコンビニ」
「ごめん」
「そんなんじゃねぇって」
「じゃあ牛乳プリン」
「あとコーラね」
「あるじゃん」
「さっききれた」
「そうか」
「うん」
 そして弟はすがたを消しましたとさ。
 めでたしめでたし。
 姪に昔話を読み聞かせ。桃太郎浦島太郎金太郎三年寝太郎。実の父の名は太郎なのだぞというこれはメッセージなり。ま、わかるわけもなく。
 自宅を引き払い弟のマンションに住み、姪はというとめんどうを看たくて看たくてな両親がいそいそと奪っていった。
 ありがたやありがたや。
 こうしてときどき両親と私の息抜きをかねて姪に会いにいく。会うたびにすくすく育っているのがなんともいじらしくてね。
 実家ちかくの動物園その中の子ども動物園というところにてヒツジ・ヤギ・テンジクネズミにふれるべく群がる健全な児童たちを尻目に吾が姪はというとクサガメにご執心なわけである。この生き物は臭亀と書くのだよと教えると喜んで嗅ぎにいき「くったーい」と逐一報告しにくる様をぼんやり見ていると私は浦島太郎かと思う。
 絵入りのキャンバスが実家に送られてきたというので呼び出される。ナンタラ・ヴィクトワール山かと思ったがそれを模写したに近いかたちの男体山だった。
「価値があるの?」
 と母。
「ご冗談を」
「ふーん」
 母退散。
「太郎か」
 と父。
「イエス」
「物置にやっとけ」
 父退散。
 ぱちぱちぱち。
 ナンタラ山で火を熾す。
 あらわれた姪が何かを放り込む。
「何?」
「りんご」
「お、いい趣味」


#24

タイムバタフライ

 ガガガガガ、と凄まじい音を立てて、巨大な円環が回転を始めた。ヒュンヒュンヒュン、と、空気を切り裂く音がだんだん高く速くなってゆく。チタンコートのリングは直径10メートル。中心にはスチールチェアがぽつんと置かれている。八方からの光線で、その背もたれはメタリックシルバーからクロムグリーンへ。
「あの椅子に座ってこの装置を動かす」
 白衣の男が説明する。
「臨界点を突破すると、椅子の上の生命は過去へ転送される」
 男が電話帳のようなものを僕に半ば投げつける。
「それに基礎理論は書いてあるから君も読めばわかる」
 数式なんて見たくもない。
「ただしさっきも言った通り問題がある」
 そう、人間のような体積と質量をもった生命はうまく過去座標で凝固できず、蒸発する。
「そこでこれが役に立つ」
 男が第二のパネルのボタンを押す。今やカドミウムオレンジに輝くスチールチェアの上方から、やや小ぶりの第二の円環が降下してくる。人間の座高より少し高い空中で、天使の輪は静止する。
 キキキキキ、と不気味な音を立てて、第二の円環も回転を始める。パチパチパチ、と、ターキーレッドのリングから火花が散る。
「あれで転送対象を蝶に縮小、リビルダブルなサイズにする」
 男が投げつけた第二の電話帳を僕はかわす。
「その基礎理論は難しいから君には無理だ」
 男は白衣のポケットからウルトラマリンブルーのハンカチを取り出し額の汗をぬぐう。
「……本当に行くのか?」
 今日初めて親友と見つめあう。轟音を立てる第一のリングが10回転。僕はうなずく。

 決行は三日後。僕は施設を後にして、歩く。
 夕暮れの川沿いに伸びていく小道。早くも足元を照らして進む自転車。苦しそうに走る中年男。鞄で羽ばたく小学生。鯉と菓子を分けあう少女。見つめる白鷺。流れる川面。高架を叩いて去る電車。夕日に浸る栗の木を揺らす風。水田で大勢騒いでいる雨蛙。仄明るい雲の合間で少しずつ輝きを増し始めた宵の明星。
 自分の現在と未来を捨て、蝶になってまで過去に行く。一体、蝶で何ができる。羽ばたくことができる。羽ばたいただけでは何も変えられない。……と、誰が言い切れる。証明好きの悪魔はカオス理論をどう考える。
 残照の銀朱の中、一羽の大きな紋白蝶が、どこからかひらひらと飛んできた。
「時をかける蝶々、か」
 傾く日の中で必死に宙を漂う魂に、僕は問う。それで君は、そんなに一生懸命に羽ばたいているのかい。


#25

なぜ俺は殺人を犯したか

俺は、公園のダンボールの中で、目を覚ました。携帯で日雇い仕事をしている。今日もよれよれの背広を着てありついた会社で電車に乗った。

俺は、車内に、俺そっくりな男が乗っていることに気づいた。いかにも一流のサラリーマンに見える。俺は羨望と同時に得体の知れない衝動に駆られて男を追った。

会社と、職場を突き止めた。家庭も突き止めた。

俺は、公園のダンボールに戻ると男と入れ替わった夢を見た。
しかし、似ているだけでは、すぐばれる。その時、記憶喪失が浮かんだ。俺に殺意が生まれた瞬間だった。

俺は、スコップを購入すると、男が公園の真ん中に来た時、男の後ろからスコップで頭を殴った。
俺は背広を交換し、背広の内ポケットにアルミのケースを男のそばに捨てた。スコップで四十センチ位掘ると、男を埋めた。
俺は男を埋めると、また駅前に戻り、タクシーの前に飛び込んだ。

目が覚めた時、病室にいた。妻と娘、医者、上司らしい男がいた。
俺は、車の事故で記憶が無いと言った。
こうして俺は、三ヵ月後退院し、会社に復帰することになった。

翌日、T部長に呼ばれた。
「他人には言えんが、官庁のワイロの件だよ。いざという時のために、証拠のテープを取っておいたろ」

二ヶ月後、会社に警察の取調べが入った。
大臣運転手が白状したからだ。しかし、運転手は謎の死をとげた。
「巨額の談合事件、証言の運転手謎の死、警察惨敗か」の記事が載った。

公園の仲間が記事と写真を見た。「これあいつじゃないか?」すぐ交番に届け出た。

俺が、家を出ると、黒塗りの車から、二人の男が出てきた。

「お前、男を殺して、成りすましたな」刑事の尋問は昼夜問わず行われ、5日目に男を殺して成りすましたことを自白した。
翌日、俺は刑事たちを男を埋めた公園の場所に案内した。

掘ってみると、背広とアルミケースしか出てこない。俺は、絶叫して気絶した。

目を覚ますと、取調室だった。
「奥さんの話だと、仕事の件で怯えていたそうだ。公園の仲間に聞くと、君が居るのは土、日だけで、いつもダンボールの中に居た。携帯にはアルバイトのサイトに連絡した履歴がない。そして公園の君が、サラリーマンの君を殺してしまった。それから、アルミのケースから、労厚大臣の談合の様子が録音されているマイクロテープが出てきた。君のおかげだな」


#26

JBショー

うわぁ〜又雨だよ
洗濯物も乾かねぇから蓄まっちまったな
さてと…この街引っ越してきたばかりで何にも解らないなぁ〜
どこにあるんだよ…
あっ!あった!コインランドリーあったよぉ〜
さてと…さっそく洗濯物をって…あれ?

(アフロの黒人のおじさんが新聞読んでいる)

なんだよ!全部使用中だよ!くそっ…あれ?黒人がいる!この街って結構外人いるんだぁ〜
ちょっと恐いなぁ〜

(黒人いきなり立ち上がる)

ポップコーンッ!

(急いで洗濯機の中から取り出している)

グッゴー!

(ビショビョの洗濯物を机に置いて洗濯機を指さしている)

えぇ!何?ここ使えって!何だか解らないけどいいのかなぁ〜?嫌な親切だなぁ〜残悪感残るよ〜

ホットパンツ!

(いきなりビショビショの洗濯物を乾燥機に放り投げている)

おいおい!荒くれものだよ!この人!まだビショビョなのに!いいのかなぁ〜

グッゴー!

(ポケットにあった百円玉をもの凄い勢いで乾燥機に入れてる)

おいおい!何時間回す気だよ!

オーケー!ワントゥスリーメニーメニー!

スリーの次が解らないんだ!

グッゴー!

(とびきりのスマイルで乾燥機に指さしている)

意味わかんねぇ!

フゥ〜アラバ〜ナ…

地名なの?ねぇ人名なの!

(踊りだす)

踊ってるよ!オイ!

グッゴー!

嬉しいんだ!たぶん嬉しいんだ!

(急にしゃがみこむ)

あれ?しゃがんじゃったよ?何何?

(身長180センチくらいの黒人の男が中に入ってくる)

えぇ!誰あんた?なんでピシッとスーツ決め込んでるの!

(しゃがみこんでる黒人のおじさんにマントをかけている)

何でマントかけるの!

(黒人のおじさんいきなり立ち上がって高速ステップを踏む)

グッゴー!

(ノッポの男もノリノリ)

だから誰だよ!お前は!

(二人して回る洗濯物を指さす)

ホットパンツ!

(パンツしかない)

あぁそれいいたかったんだぁ〜って
くだらねぇ〜よ!バカ野郎!二度と来るか!!

(青年とびだしていく)

黒人のおじさんとノッポの黒人二人肩をすくめている

THE END


#27

『麗を弔う宴』

「乾杯しよう」
 八手が静かに笑みをこぼして、グラスを上げた。二十数名いる他の者たちも真似をした。皆、喪服がよく似合っている。
「彼女は――麗(うらら)は、我々にとって特別な存在だった。母であり姉であり、妹であり、恋人だった。彼女は我々を愛し、我々は彼女を愛していた。――心から」
 星野が語り出す。その瞳はうっすらと濡れている。
「集まってくれてありがとう。麗は宴が好きだった。歌を歌い、踊りを舞い、至福の時だ。今日はあの幸せだった頃の再現をしよう。乾杯」
 グラスがかち鳴る。飲んべえの八手は幾つものヌーヴォーを飲み干し、昔以上に顔を紅潮させている。
 宇都宮も一緒になって暴飲暴食に抜かりはない。
 人知れず、麗を心から愛していた平は隅で、悲嘆にくれていた。
「今なら彼女を正面から見つめることが出来るのに……」
 私は呟く平の肩を叩く。気持ちは分かる。
 ここにいる全員にとって、麗は特別な存在だった。人間の身体に魚類の尾。一目見て、彼女を化け物だと思わなかったのはその美貌によるものだろうか。初めて出会った時、水面から覗かせた顔――。碧色の長い髪に、澄んだブルーの瞳、紅を塗るまでもない整った唇、朱に滲む頬――。

 宴も酣(たけなわ)の頃、皆が一斉に嘆き出した。
 彼らにも感謝している。私も余所者だった。そんな私を受け入れてくれた彼らも、私にとっては特別な存在だ。
 私は会場の窓を開ける。朝の潮風が吹き込み、カーテンが靡いた。
「気持ちいいな。酔いざましには特に」
 誰かが言った。
 その肌は乾燥してきている。魔法が解ける時間だ。
 皆がグラスを手から離し、直立して時を待つ。彼らの身体が震え始めた。顎の下に同化していた鰓が離れ、腕が縮んで鰭が広がる。鱗が浮き出ると、一張羅の喪服を脱ぎ捨てて、窓から崖下に臨める海原へ飛び込んでいく。
 死に際の人魚が放った一つの魔法。彼女に恋をし、海に棲むものが一晩だけ、人間になれた。
「なあ。俺たちは同志だろ」
 声をかけてきたヒトデも、ウツボも、タコも、ヒラメも、仲間たちは名前を捨てて海に消えていく。
 そして、私も――。
 
 麗の微笑み、奏でる詠唱歌(アリア)。水面を叩く尾のうねり、話してくれた七つの海の伝説。忘れない。

 海の思い出に別れを告げて、私は元の姿に戻る。
 家族が迎えに来ていた。
 私は白い翼を広げ、飛び立った。故郷の空へ。
 海鳥の、群れの中へ。


#28

アカシック・レコードをめぐる物語 研究編

 二十世紀、物理学はふたつの大きな発展を遂げた。ひとつは巨視的な時空を記述する相対論、もうひとつは微視的な挙動を記述する量子論である。その量子論の根幹である不確定性原理によって、すべての事象は確率で記述されることが示された。
 これによって予言は否定されたはずだった。しかし、偶然に発見され研究所に厳重に保管されている夜の闇よりもなお暗い漆黒の小さな球体、アカシック・レコードは、それでも確率でしか記述できないはずの未来を予言し続けている。発見以来、研究所ではアカシック・レコードが本当に未来を記録しているか否かの研究が続けられている。しかし、ある結果を得る以前にアカシック・レコードからその結果を知ることが禁止されているため、研究成果はまったく上がらない。結果はそこにあるとわかっているのに何のための研究なのかという疑問が研究所を覆う中で、ある若手研究者から突飛な実験が提案された。その実験はこれまでの研究を無にしかねないものであるが、否定という明確な結果が得られるのであればと承認された。
 研究所には似つかわしくない巨大な油圧装置が研究所の地下に設置された。装置が完成し、動作確認がされ、いよいよ実験を開始する段になって、若手研究者は言った。
「この実験の結果は、アカシック・レコードに記録されていますか」
 結果を得る以前にアカシック・レコードから結果を知ることが特別に許可された。
「失敗すると記録されています」
 それを聞いた若手研究者はひとつ頷いて、この実験が成功すればアカシック・レコードはすべての事象を記録する役割に反するものであることが証明される、と言った。実験とは、アカシック・レコードの破壊だった。装置の中央にアカシック・レコードが置かれ、すべての安全装置が解除され、作動のスイッチは若手研究者によって押された。装置の計器類はすぐに危険を示したが、無人の地下で実験は続行された。
 五分後、大きな衝撃が研究所を襲い、すべての計器が表示を止めた。大破した地下には立ち入ることができなくなってしまったため、アカシック・レコードは掘削によって回収されることとなった。研究所には似つかわしくない工事は数ヶ月に及び、そして漆黒の小さな球体が回収された。地上にあった研究設備がいくつも損傷したのにもかかわらず、それには傷ひとつなかった。
 若手研究者は何食わぬ顔で、土砂を運ぶダンプ車の中にそれを捨てた。


#29

からから

俺はのどの渇きに耐えかねて水(飲料水)を求めて手近にあった喫茶店へかけこんだその度合いは冒頭一字あけと句読点をわすれるのにじゅうぶんすぎるほどであった

「とにかく水だ水ミミズじゃないぞ水をくれいやならなんだミネラルウォーターの水割りをいっぱい」
 店主、あるいはマスター、マスターオブサテン、サテンの主人いやむしろ主人公、突然の予期せぬ客に2πrの二乗のごとく目を丸くする。洗われていたグラスが、洗われきらぬうちにがちゃぴんと店内をにぎやかにさせる。
「当店にはウォーターすなわち水はございません。代わりと言っては何ですが、烏龍茶ならご用意できますが」
「ああなんでもいいからはやく」
「左様でございますか。ありがとうございます。そういたしましたらこちらの烏龍茶、赤烏龍茶青烏龍茶茶烏龍茶とありますが、どれになさいますか」
「ええ何だってもういちど」

(作者ナレーション)
 これは、人づてに聞いた話なのだが、かの石田三成が小坊主だったころ、鷹狩帰りの秀吉がふらり立ち寄ってお茶を所望したのだそうだ。最初はぬるいお茶をたっぷりと、そうして二杯目は熱いお茶を少しだけ出したそうだ、さてどうしてでしょう。

「すまぬ。俺が悪かった。金さえ払えば何をしてもいいだろうという悪しきジョーシキに縛られていましたすみません、あの……では、赤烏龍茶を一杯いただけますか」
 あいや待てよ、と俺は考えた。烏龍茶に赤も青も茶もあるわけないじゃないか(赤はあるのか?)。早口言葉にすらなっていない(と思う)。ひょっとするとこのマスターオブカリビアンのやつ、茶烏龍茶って言いたかっただけなのかもしれない。そんな店長には「茶化すなよ」とおべん茶らでも言っとけばよかったんかな。
 俺の思いを察したかマスター、グラスへ氷を入れながら語りだす。いいからその氷を俺にくれ、とはもはやおいそれと口にできない。
「喫茶店なんてものはね、ほんとうはね。メニューに書いてある商品自体の魅力に優劣なんか無いってことなんですよ」
 たぶん、何か別のことを言わんとしているみたいだが、もう俺には話の展開が全くわかりませんすみません。
「つまりこの店は、お客さん自身の能力が試されている場所という一面も含んでいるってことです、むしろそうとでも思わなければ、生きていけませんという話ですな、そう思うでしょう、はい赤烏龍茶ひとつ」
 俺は、きんきんに冷えたお茶をぐびぐびと飲み干す。


#30

前借り

 孝明は今まで前借りをした事がなかった。

「どうしてあの娘だけが」
「ご病気ですね」
「まだ二歳なんだぞ」
「返済はお父様でよろしいですか」
「幸せになる権利は」
「債務発生はお嬢様がご結婚されてからと言う事で」
「誰にでもあるはずだろう」
「返済は同じくご病気になります」
「有紀の笑顔があれば」
「ご利用ありがとうございました」
「俺は他に何も要らない」
「ご利用ありがとうございました」

 子供の頃から欲しいものは自分の貯金から買っていたし、自分で買える範囲の物しか欲しがらなかった。計画性があるという人格は大人になってからも損なわれずに、その所為である程度のローンを組める社会的信用を得たのは皮肉な事だった。

 帰り道では洗車をしている人達をちらほらと見かけた。青い折り紙に牛乳が浸潤していく様に、空は入道雲に覆われようとしていて、ああ今日洗車をしても雨で汚れてしまうな、と孝明は思った。

 孝明は今日、生まれて初めての前借りをした。幸せの前借りをした。
 
 それからはやわらかな時が過ぎていった。病気はその日以来影を潜め、引っ込み思案だったはずの有紀は自分からプロポーズをして結婚を決めてきた。相手は孝明の覚えもめでたく、嫉妬とそれ以上の信頼を感じさせる人物だった。

 孝明はようやく肩の荷が下りた気がした。グラスを傾けると十数年ぶりのアルコールが喉を焼いた。病気に備えての蓄えは十分すぎる程に築いてきたし、受け入れる覚悟は前借りをした日から揺らぐ事はなかった。琥珀に濡れたグラスをコースターに置くと、孝明に労いの言葉を掛ける様に氷がカラン、と鳴った。達成感とアルコールが入り混じって、妙な高揚を孝明にもたらしていた。年甲斐もなく興奮している事に苦笑しつつ、これから入籍の報告に来る二人にどんな言葉を贈ろうか、孝明は考えた。

「お疲れ」
「お疲れっす。早いっすね」
「夜から雨らしいからな」
「じゃあ早めに出ますか。先輩これ見ました?」
「ネットで見たよ。ハッピーローンだろ」
「二人殺す前に娘の事犯してたらしいっすよ」
「げーまじかよ。ビョーキだビョーキ」
「娘殺して幸せもクソもなかろうに……全く計画性のない」
「あ、そういえばお前昨日スロット行ったらしいな」
「……」
「人に金返さないで良い度胸だなオイ」
「さ、雨降る前に行きましょう。急がないと新聞が濡れちゃうや」
「待てコラぁ!」

 まだ雲のない青空に、原付が吐き出す白い煙が溶けていった。


#31

(この作品は削除されました)


#32

さて、続きを話そうか

タバコに火をつけ、白い息を吐く。
溜息をつきながら女は目の前に居る人物からの言葉を待った。
「たった一つの質問にすら答えられないというの?」
女を見据え背筋をピンと伸ばしつつも、頑なに開かないその口から出てくる言葉が女にとっては何より聞きたいものだ。
だが、一言も発さないその人物は既に十時間以上監禁されている。
「たった一つの質問なのよ。いい加減にしなさいよ」
女は立ち上がりその人物の顔を掴みあげ自分と目線を合わせようとしたとき、気がついた。
「死んでたの?」
たった一つの答えは失われた。

 それが始まりの合図だったと、誰もその場にいた関係者は思わなかった。
大抵、どんな出来事でもそうだが後々になって「あの時か」というようなことが多い。
そんな「始まり」は一週間前の話。
横断歩道を赤信号で渡ってきた女が物見ごとにはねられた。
だが、赤信号で渡っていたということから運転手に対しての責任は軽減されることになったが、事の始まりはその前から起きていた。
執拗に追い掛け回した結果、女は赤信号を渡ろうとした。
そして、迷った挙句に飛び出した。
執拗に追いかけていた運転手は、Uターンをして女を追いかけようとしたが急に飛び出したためにはねてしまったのだ。
そのちょっと前に、その女はハンドバックをスリに取られていた。
そのスリが赤信号を駆け抜けて行った。
つまり、スリを追いかけていたのかもしれないという疑惑も浮上した。
そう、これは事故だという主張と殺人だという主張が交差した。
死人に口なし。
真実など、どこにも無かった。
無論、加害者は罪の擦り付け合いで話にならない。

「ねぇ、ちょっと、聞きたいんだけど」
その事件が起きた三日後に女は声をかけた。
先ほど椅子に縛り付けられたまま死んでいた人物だ。
たった一つの事を聞くために十時間以上拘束された挙句、理由はともかく死んだのだ。
そんな結末が待っていることなど知らず答えた。
「なにか、ご用ですか?」
「付き合って欲しいの、ちょっと場所を変えて」
「かまいませんが・・・」
それが、最後の姿となる。
「椅子に座って」
女が勧め椅子に座らせる。
座った途端ドアを閉め後ろからロープで縛り上げた。
懇親の力をこめて縛り上げた。
「うっ!」
それから、縛り上げた人物の髪を掴み上げこういったのだ。
「続きの話をしましょうよ、あなたが私を殺したの?」


#33

ひとり

 気づいた時は、僕は一本の木の影だった。黒い木の姿をして、梅園の丘の上に伸びていた。
 丘にはたくさんの梅の木があった。僕と同じようにどの木も同じ方向へ伸びる影を持っていた。僕はなぜ自分が影になったのか分からなかったけれど、周りに同じような木と影があったので寂しくはなかった。
 春の陽気の中を冷たい風が走り抜けていった。梅園は花盛りだった。花のついた梅の木の影は、子供の姿をした影法師となって幹から離れて走り始めた。楽しそうに駆け回る声を聞いて、僕も皆と一緒に遊びたいと思った。
 日が昇り、沈むのを繰り返した。日が沈むと僕の体は夜に溶けていった。溶けている間、僕は眠ったように意識がなくて、日が昇ると意識と姿を取り戻した。そして僕の木の枝にも桜の花がついた時、僕は幹から離れる事ができた。
 梅園の真ん中で影法師達が集まっていた。「何をしてるの」と一人に訊いてみた。彼は「兵隊ごっこをしてるんだ」と答えた。
「なんで兵隊ごっこをしてるの」
「戦場では影も戦っているんだよ。僕達が兵隊達の影に代わって戦場へ行くのさ。兵隊だって影がしっかり動けた方がいいだろ」
 僕は「なんで僕達が代わりに行くの」と訊いてみた。でも彼は答えてくれなくて、黒い顔からは表情が分からなくて、ただ訝(いぶか)しげに僕を見ているのは分かった。僕は居た堪れなくなって彼の前を離れた。
 影法師は皆同じ姿をしていて、皆同じように兵隊ごっこをしていた。僕は一人梅園の中を歩いた。僕も兵隊にならなくちゃいけないのだろうかと不安になった。
 梅園の丘の頂上に一本の大きな木が見えた。その木の陰に首を吊った体がぶら下がっていた。見てみれば、僕のお父さんのように見えた。
 吊られた体の下に来て、僕は「お父さん」と訊いてみた。
「私はお前の父さんじゃないよ。私はあの桜の木の父親だ。見てごらん、今奇麗に咲いているだろ。今度は奇麗に花びらの散るところが見たいんだ」
 そう云うと、木に吊られた体は動かなくなった。僕は一人、来た道を戻って梅園の中へ帰っていった。
 僕は桜の幹にくっ付いて、もとの影に戻る事にした。向こうでは影法師達が
『梅の木は強靭だ 伐(き)っても伐っても伸び続ける』と歌っていた。

 日が昇り、沈むのを繰り返した。いつしか声は聞こえなくなった。散り始めた春の梅園は静かになった。
 僕はここに残って、誰かがまた遊びに来るのをじっと待っていようと思った。


#34

桜散る頃に

 あの日不意に差し出された手を思い出す。真白く、弱々しい手。微かに震えていた。美しかった。しかし、その時彼女がどんな顔をしていたのかは思い出せない。


 川辺の遊歩道を歩く。まだ咲き始めの桜。雨に打たれて散る。足元の花びらが虚しい。僕は立ち止まった。
 彼女に会いに行く筈だったのにと、僕は溜息をついた。これで何度目だろうか。自分の弱さが腹立たしかった。


 重病を抱えている彼女にとって、僕が唯一の支えだった。あの日差し出された手は、彼女にとって最後の足掻きだった。彼女は僕を愛していた。それは最近になって気づいた事だ。
 もちろん、僕には彼女を救いたいという気持ちがあり、実際に力になろうとした。彼女に友達はいなく、父親もいなかったので、会いに来る人は母親と僕だけだった。母親は仕事をしていたので、実質、彼女にとって話し相手は僕だけだった。
 しかし、僕には他に愛する人がいた。同級生の恋人だ。僕も思春期なので、色恋には勝てなかった。会いに行く回数は徐々に減っていった。

 重大な任務を背負わされた気持ちだった。僕は苦しくなって逃げたのだ。必死に彼女の事を忘れようとした。自分は悪くないと思いたかった。
 それでも罪悪感は僕に付いて回った。学校にいる時も、恋人といる時も。どこにも逃げ場所はなかった。


 ジョギングをする青年が僕を追い越していった。ただ走っているだけなのに、とても幸せそうに見えた。花びらが潰されていくが、彼は気に留めていないのだろう。
 人は知らないうちに誰かを傷つける。傷つけざるを得ない時もある。僕にとって、重く辛い事実だった。
 僕は歩き出した。花びらが汚れていく。心は痛んだが、それでも歩くしかなかった。僕は弱いのだ。

 歩きながら恋人に電話をし、簡潔に別れを告げた。恋人は冗談だと思ったのか、明るい口調だった。僕が黙っていると、それが次第に泣き声に変わっていく。僕は謝る事なく電話を切った。悲しくはない。これで踏ん切りがつく。


 僕が彼女を愛しているのかはわからない。それでも、僕は彼女の下に行く事にする。たとえ苦しくても、彼女の手を取って笑ってやる。そして、ずっと彼女と共に過ごしていく。
 この行動は正しいのだろうか。結婚できないという事実を、彼女は受け入れているのだろうか。本当にこれで、彼女は幸せになれるのだろうか。


 雨は勢いを増す。花びらが散る。僕が踏む。
 それはとても自然な事に思えた。


#35

野球篇

 九回裏二死満塁三点差ピッチャー桜井彰一郎右投げ速球型バッター小柳満左打ち四番、右投げと左打ちどっちが有利なんだかしらないしってる人はしってる人で勝手に意味を見いだすといい、そして肝心のことを言いわすれてた今は甲子園大会決勝でつまりこの試合に勝ったほうが優勝で負けたほうが準優勝。桜井おおきくふりかぶってどうこうあれこれのモーションののち足元の土がえぐれて小さなつぶがまいあがったりして最終的になげた、ケンセーキューぐらいのことはしってるからしてその話をしてもいいがメンドーなのでやらない、ふつうに投げただからバッター方面によくある運動法則にのっとって。
 今度は小柳のがわから見てみようするとなんか前の人が動いたかと思ったら白くて丸いのがとんできたとゆうぐあいになる、わりあい速くてびっくりしているのだけれどそんなことはおくびにもださないぎゅっと両手に力をこめる、いまさらだけれど現在フルカウント、実のとこ小柳はなっからストレートに的をしぼっていたわけでもう心がたかぶってうれしくてたまらなくてほとんど勝利を確信してこのよろこびを人に伝えたいと思いました手近な人に話しかけました。ここで登場キャッチャー二階堂まのぬけた声をだすだいたいそんなものだ、ああそうですねそいつはよかったっすねははは、それをきいて小柳にかりとわらう二階堂その笑顔にどきりとする、恋がはじまった――。
 まちがえた言葉でやってるとどうも調子がくるう、現実ピッチャー投げてキャッチャーとったの時間とゆうのはめたくそにみじかいしゅっでぱっといった感じだからこんなやりとりをするヒマなんてない、故によって二人の恋ははじまることなくとゆうことでめばえかけたときめきはいったんリセットするにしてそうなってくると二人はもうただの二人であの情熱は二度ともどってはこないのだなんと! そうゆうののつみかさねが戦争なんよとかなんとかその方向で書こうと思っていたらあきたもうしらない終わりだ終わり、そもそもあんまし野球くわしくねーしドカベンよんだくらいだしいやいやあれは偉大な作品だがそれだけでいけると思ったら大間違いだしってたよでもやってみた、もはやぐんぐん小説らしさがさがってきてとりかえしのつかない状況においこまれているみたいで、なにがまずかったかといえば作者がでてきちゃいけないいくらてれくさくたってちゃちゃを入れちゃあダメだ。


#36

春と紅茶

窓枠に腰かけて日を浴びる。
麗らかな春の日の午後。
ゆっくりと背を伸ばした。
お気に入りのだけど未だに名前を覚えちゃいない紅茶を一口含む。
うん。いい味してる。
ぶらぶらと足を揺らして風を感じて居ると、髪がなびいて進行方向を教えてくれた。
「やぁ!プリマヴェーラ。今日も暇してるのかい?」
下を見ると銀色の髪をしたインヴェルノがこっちを見上げながらパンをほおばっている。
彼、確か昨日は食べるものもないって言ってわたしの家で食べていったのに。
「どーも。でもあたし、別段暇してるわけじゃないの。」
「お茶で忙しいのかい?」
陽気に笑ってカップを揺らす。
立ち上った湯気はくるりと円を描いて空に溶けた。
「そうよ。あたしは彼との午後が一番楽しみなの」
傍らの紅茶の缶をインヴェルノに放り投げた。
赤と金色の綺麗な紅茶缶。
彫ってある名前は一体何だったか、未だに覚えちゃいられないけど。
くるくると二、三回缶は空中で回転して、
スコーンと小気味いい音を立てて上を向いていたインヴェルノの顎のあたりにクリティカルヒット。
あーあ。そういえばあたしはノーコンで、インヴェルノは運動はからきしだった。
「ヴェラオンと、それからオウトーノを誘ったら?きっとあの子たちも気に入るわ!」
そう、皮肉っぽく言ってあげるとインヴェルノはムッとして頭をかいた。
インヴェルノは少々引っ込み思案の気がある。
こうして気軽に話しかけてくるのは私ぐらいしかいないのだ。
しっしっと足で促すとようやくインヴェルノは歩きだした。
見上げた太陽はヴェオランみたいな金色をしていたし、
庭に咲いているチューリップの赤はオウトーノの目の色だ。
今日、きっとインヴェルノはあの子たちをお茶に誘って、そして大の仲良しになれる。
すべての春がそう言ってる。
銀の色をした風が楽しそうに駆けて行った。


麗らかな春の午後。
お気に入りの名前を覚えていない紅茶を窓枠に腰かけながら楽しむ。
遠くから楽しげな声が聞こえてきた。


#37

迎撃

「平和目的で打ち上げる人工衛星を迎撃すれば。我々は宣戦布告とみなし、すぐさま反撃にでる用意がある」
 軍人と思しき男性による過激な演説が、お昼のワイドショーを賑わせた。だが関係各国にはかなりの温度差があり、ミサイル発射を自省させるまでには至らなかった。
「アームストロング船長。宇宙はいかがですか」
「全て予定通り順調だ」
「人類の輝かしい一歩に世界中が期待しています」
「我々クルーは最善を尽くし任務を遂行するだけです」
 国会ではタカ派議員たちが「平和目的だかなんだか知らねえが、他人様の頭上へロケットを飛ばすなんざ、ふてえ野郎だ。迎撃により国家の威信を示せ」などと騒ぎだしていた。いつまでならず者をのさばらせておくのだ。そのうち侵略してくるに決まっている。ここらへんで軍事レベルの差を解らせてやるのが親切ってもんだ。というのが彼らの言い分らしい。
 それに反論する野党は、対話こそが和平実現への道だと抗議した。文化の違いはあれど、平和に暮らす権利があるのは皆おなじはず。対話で解決するべきだと主張して譲らない。
 国民の意見は総選挙によって信を問うべきだとあるのだが。執念で首相の椅子を手に入れた総理は、いっこうに退こうとしないのであった。
 頼みの綱であり最強にして無敵の同盟国は「俺らの領土に届く可能性はゼロなんだから、迎撃しなくていんじゃねえの」と言いだすしまつ。
 そしてついに打ち上げが一週間後と迫ったところで「国民に危害が及ぶ場合のみ迎撃を許可する」との決議が下されたのであった。
 首都近郊の基地では最新鋭の迎撃システムが不気味な迷彩に包まれた姿を現し、出番がくるのを今や遅しと身構えていた。
 やがて不安は現実のものとなり目の前に突きつけられた。
「ロケットの弾道が低すぎる。このままではっ……」レーダーを睨んでいた防衛大臣は、タコのような頭をさらに赤く紅潮させ叫んだ。
「迎撃開始」
 オペレーターの指が鞭のようにしなり迎撃ボタンを叩いた。
「まさか、本当に有事が発生してしまうとは」一報を受けた総理は口をタコのように捩じり絶句した。
 そのころアームストロング船長は火星の周回軌道を飛ぶ宇宙船の窓辺に立ち、クレーターに覆われた大地から昇りゆく地球の碧さに感嘆していた。
 無慈悲な迎撃ミサイルは一切の感情を捨て、正確無比に目標へと飛翔してゆく。
 数十秒後。ナサのレーダーから宇宙船の航跡を示す光の点が消滅した。


#38

陽焼け畳の上で

 西日の差し込む古いアパートの一室、六畳一間のだべり場に、大学生四人が集まっていた。
 この年頃の男どもが揃って始めることなどろくなものではない。彼らもまた例外ではなく、先ほどまでヘタクソな麻雀に興じていたのだ。
 だが一人がトイトイばかりで半荘を四連勝したところで他の面子はすっかりやる気をなくし、雀卓の上に発泡酒の缶を散乱させるようになった。元来それほど麻雀狂いの面々というわけでもなく、顔を合わせて暇が潰せるなら呑み比べだろうが野球盤だろうがなんでもよかったのだ。
「毎回トイトイなんてずりぃぞ。しかも裸単騎にまでしやがって」
 この部屋の家主が不満げな声を出した。裸単騎だから4つの面子がさらけ出されていて待ちは読みやすい。だが全員素人なのであっさり振り込んでしまうのだ。
 言われた本人は悪びれずにこう宣言した。
「おう。トイトイは俺の嫁」
 その発言に誰もが感銘を受けた。麻雀の役が嫁。なんとも素敵な話ではないか。すぐに賛同の言葉が寄せられる。
「ホンイツ混ぜても浮気に怒らない健気さがいい」
「裸単騎って言葉がもうエロい」
「じゃあ俺の嫁はプジョー207」
 別の男がそう口を挟む。ここでもう話題を車に変えるあたりが、彼らにとって麻雀は比較的どうでもいいということを示していた。
「夫を支える妻か」
「新婚旅行とか楽そう」
「ずっと乗りっぱなしなんてエロい」
「よし、それなら女は俺の嫁だ」
「それは盲点だった」
「暖かくて柔らかいところがいいな」
「とにかくエロいだろ」
 さらに別の男が話題を繋げていく。正気を疑われそうな発言でも、周囲も酒で似たような知能になっているので心配はない。
 どうでもいい論評が集まり場は和やかになる。しかし、まだ嫁を決めていない男は不満げであった。
 女が嫁? なんでそういうオチっぽいネタを俺にとっておかないんだ。と、そう腹を立てていたのだ。
 だから投げやりな口調でこう言い放った。
「もう俺がみんなの嫁でいいよ」
『いや、それはいらん』
 即座に三つの口から同じ答えが返ってきた。
 彼はむくれて、卓上の雀牌をひっかきまわす。一人勝ちの男が片付けられていなかった自分の上がり手をなぜか死守した。
「もう終わってんだからいいだろ」
「こんなあっぴろげな面子、崩させるか」
 その様子を見ながらゲラゲラ笑って、それからしばらくして全員がその場で横になる。
 古い畳の香りの心地よさに、皆のまぶたは閉じていった。


#39

卓上小説

 ままならぬ浮世や。ええことない? マシュマロ珈琲飲んでる女に話しかけてみてん。

「私、パンダと温泉入ったわ」
「ドラえもんの世界やん」
「パンダの肉球が気持ちくて」
「肉球あった?」
「夢だもん」
「夢時間てええよな。人間から身体と言葉をさしひいて、残ったもんだけでできてる気がする」
「おじさんも夢みた?」
「おじさんって」

 五月の陽光とも新緑ともほど遠い地下の珈琲屋におって女と戯れとったんに、ここで爺さんがやってきて女の隣に座った。爺さん邪魔せんといて!

「そら豆茹でてきてん。ほら、きっれーやろー、塩味ついてるで」
「遅いわよ」
「え、二人知り合いなん?」
「わしら、コレでんねん」

 爺さん小指たてて。薄暑の太陽や。ニヤニヤしてからに。

「あんたらあっついあっつい、俺ハンカチほしなるわ」
「持ってるよ」
「比喩やん」
「阪急百貨店でこの人、靴下と一緒に買ってくれたの」
「そうですねん、愛が渇いてた頃ですわ」
「愛が渇く?」
「フフフのユッキーでんねん……独り言ですわ。ところで、お宅何してまんの?」
「俺はテーブル画家や」
「なんなの?」
「テーブルのグレープフルーツとか描くねん」
「あ、見習いってこと」
「よかったらわしら描いてくれまへんか」
「高いで」
「いくら?」
「五千万円」
「あんた……わしでもひいてまうがな」
「く、靴下くれや!」
「いいわよ、ほら」

 女はするすると靴下をぬいで、有無を言わさず俺の鞄に突っ込んだ。俺はハンカチって言うつもりやってんで。つい間違って靴下と叫んでまったんや。いや、ハンカチかて本気で欲しかったわけやないねん。けど羨ましくて。なんで阪急でこんな爺がこんなええ子を。俺かて。

「おじさんの絵ってどこかデュフイ的ね」
「デテールに幸福がある、兄ちゃん絵心あるやないかい、スミレ色のショールとそら豆よう描けてる」
「色鉛筆なのにね」
 俺は猛然と描いてたし、爺と女、何言ってんのかわっからへん。なあ、それ褒めてくれてんの?
 できた絵をみると二人は肩寄せてわろてた。

「サイン抜けとるがな!」
「連絡先も教えて」

 それが一ヵ月前。さっき勉強にU雑誌こうたらアレがのってるやん。あの爺、酢ノ内万郎って画商やて。そこに電話が鳴った。

「U雑誌編集の古田です、靴下の」
「えっ」
「エエコトあった?」
「こんなこと……」
「万郎先生嘘つくから騙しちゃった」
「愛人ちゃうん?」
「うん」
「会える?」
「うん」
「ほな、ほなっ、阪急の靴下売場で!」



#40

人影

(この作品は削除されました)


#41

狂った男と妊婦

 昼下がりだった。
「なんかね、そこの駅でね…」
 路上を擦れ違う通行人の口から、ふいに話が聞こえてきた。
「ベレー帽かぶった頭のおかしな男がね、駅で暴れたんだって…」
 駅の入口は――すでに野次馬の群衆で膨れ上がっていた。彼らはなぜか一様に、喪服のような黒っぽい服を着ている……なぜだろう?
 僕は黒い群衆を掻き分けながら駅の構内へ入って行った。二十人ほどの警官が群衆の真ん中に集まっているのが見えたが――ベレー帽の男など僕にはまったく見えなかった。
 僕は切符を買い、自動改札を抜けて駅のホームへ向かった。大きな紙袋を抱えたお婆さんや、無表情な女子高生と擦れ違った。
 電車を待つ間、僕はホームで煙草を吸った。近くにいたカップルのお喋りが、ふと耳に入ってきた。
「明日ね、地球が終わっちゃうんだって…」
「そんなわけないさ」
「ホントよ…」
 三本目の煙草に火を点けたところで電車がやって来た。カップルのお喋りはまだ続いていた…

 僕は電車に乗り込むと適当な場所に座った。車内はガラ空きだった。僕から離れた場所には一組の老夫婦とお坊さんがいて、割と近い場所に若い女が一人座っていた。
「ねえお爺さん、地球最後の日をどう過ごしましょうか…」
「不安なのかい?」
「ええ少し…」
 またその話か…。狂った男といい、喪服の群衆といい――誰か偉大な人間でも死んだのだろうか? お坊さんはなぜ電車なんかに乗ってるんだ…?
 ふいに若い女が、僕を見てウインクした…
「死んだのよ…、大切なものが…」

 やがて僕は電車を降りた。駅舎を出て空を見上げると――灰色の雲間から、こぼれるように太陽の光が差し込んでいた。僕はポケットから紙切れを取り出した。簡単な地図が書いてあるのだ。駅と薬局と、ちょっと入り組んだ道――地図どおりに歩いて行ったら――五分でアパートに辿り着いた。
 僕は部屋のドアをノックした…
「あら…」
 開いたドアから、妹が顔を覗かせて言った。
「ずいぶん久しぶりね…、ちゃんと生きてたんだ…」
 妹は妊娠している――お腹が風船みたいに、ポッコリ膨らんでる…

 妹は時間をかけて珈琲を淹れてくれた。僕は彼女と長い話をした…
「不安なの…、いろんなことがね…」妹は、膨らんだお腹に手を当てて言った。「この子、今どんな気分なんだろ…。ほんとは外に出たくないんじゃないかな…」

 …そんなことないさ

 …じゃあ兄さんは、どんな気分だった?


編集: 短編