# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 夢の男 | アンデッド | 511 |
2 | 『ニューシネマパラダイム』 | 石川楡井 | 1000 |
3 | 痛み | 本城千歳 | 1000 |
4 | どちらかはトム? | 加瀬 緑 | 983 |
5 | 僕のやるべきこと | 暮林琴里 | 1000 |
6 | あるアパートの一室 | サカモト | 920 |
7 | 発掘の日 | さいたま わたる | 1000 |
8 | 銀行強盗 | ei | 906 |
9 | 桜の坂道 | Hao | 474 |
10 | 1番ショートコウタ背番号6 | 腹心 | 1000 |
11 | 3分間 | かおり | 967 |
12 | コーヒーゼリーと都会の月 | 銀冠 | 984 |
13 | ウナギとカメ | わら | 1000 |
14 | アイヨリモ、コイナラバ | 葉月あや | 987 |
15 | 忘れるを知る | 黒田皐月 | 1000 |
16 | 冬の思い出 | 藤舟 | 997 |
17 | 羽化と、その後 | 鼻 | 493 |
18 | ニルヴァーナ | 群青 | 1000 |
19 | ダイエット | たいやひらめ | 1000 |
20 | 景色 | クマの子 | 878 |
21 | ダークマター | えぬじぃ | 1000 |
22 | 暗闇 | qbc | 1000 |
23 | お母さん、僕はここにいるよ | 中村 明 | 992 |
24 | 天然 | 三毛猫 澪 | 1000 |
25 | 春はトンカツ | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
26 | 卵 | マロン | 1000 |
27 | 犬の木 | euReka | 1000 |
女は眠りにつくと、毎晩同じ夢を見た。それは、異国の地で理想の男が現れる幸せな夢だった。
初めの内はとても幸せな気分だったが、女は次第に悲しみに暮れていく。いつも必ず同じところで夢が途切れて、最後まで見ることが出来ないからた。
毎晩同じ男の夢を見ている内に、女は夢の中だけに出てくる男を愛するようになり、忘れることが出来なくなっていた。
いっそのこと夢を現実にと、女は夢で見る異国の地を自ら旅して回ることにした。
真新しくも夢で見たままの懐かしい印象を与えてくれる異国の地は、次第に女の心を癒やしていく。
ある時、女は遂に夢の男にそっくりな男を見つけた。
まさか本当にそんなことが起こって彼に出会えるなんて。女は目の前の現実に驚きながらも、勇気を振り絞って男に声をかける。
女に声を掛けられた男の方も、何か驚いた様子だった。
よくよく話をしてみると、驚いた事に男の方も毎晩夢で見る女を探して、この異国の地に訪れていたのだという。
その夢に出てくる女が、あなたにそっくりなのだと苦笑したあと、男はこう付け加えた。
「よかった。これで悪夢から解放される。実は私、結婚しているのです」
その日から女は、夢の男を見る事はなくなった。
「映画を主題とした映画って言えば、『ニューシネマパラダイス』で満場一致」
明かりがまだ落ちぬシネコンの3番F、E-15席に腰かけ上映を待つ僕ら。隣の席の彼はそう言って、携帯電話をマナーモードに設定した。
「ドキュメンタリーは好きじゃない。創作だからこそ煌めく美しさ、感動もあるのだと思う。映画はシナリオだけじゃない。撮り方、演技、音楽、最近じゃ字幕を読むのだって面白い。映画によって映画について考えるっていうのは、深いよ」
決して囁き声でない彼。他の客に迷惑だと思った僕の心配は杞憂だった。100人ほど入るフロアは僕ら含めて、5、6人。それぞれの座席は姿も見えないほどにばらけている。
「『マジェスティック』は映画館をモチーフとしているけど、ジム・キャリーの出てる映画だったら『トゥルーマン・ショー』の方が深く考えさせられる。あれはドラマの話だけど」
彼の映画談義は尚も続いて、上映時間中も語られたらどうしようと不安になった。
「小説はね、一人で書けるけど映画は一人じゃ作れない。小説を主題とした小説と映画を主題とした映画の違いはそこさ。つまり観客に与えるものが違う。小説は作者の一私論だけど、映画はいくつもの要素のコンプレックスだから」
僕は居心地が悪くて、彼の独り口調に相槌を打つのも次第にぞんざいになってくる。
「小説と映画はどちらも人生の縮図さ。登場人物のね。でも、唯一つ大きな違いがある。何か分かるかい」
僕は首を傾げた。
「エンドロールがあるかないかだよ」
彼の瞳がくるりと輝くのが見えた。
「人形劇だろうとアニメ映画だろうと、必ずエンドロールが流れる。つまりそれって観客に対する警告なんだ。感情移入しても結局、現実に引き戻される。登場人物がただの俳優だと明かされるのさ。その順番も決まってる。誰が主役で、誰がちょい役かもね。……果たして君はエンドロールの何番目に来るだろう?」
そこでブザーが鳴り、スクリーンの幅がカーテンで調整される。映写機の音がして、僕はふと考えた。
これから観る映画は何という映画だったか。それもまた、この世に生きる誰かの縮図なのかもしれない。
とすれば僕はエンドロールの何番目に値する人間だろう。すると、隣の彼は囁いた。
「僕は決まってる。一番最後だよ。“Director”という肩書きの隣にね。だから僕にはこの言葉を言える権利があるんだ。――カット、OK」
――暗転。
[了]
俺には年の離れた妹と弟がいる。中学一年生の妹と小学一年生の弟。ちなみに俺は高校二年生。何か知らんがやたらと俺に懐いている。まあそれはそれでかわいいもんだ。
ある朝俺が部屋から這いだしてくると、いつもなら出掛けてるはずの小学生の弟が、まだ着替えもせずにソファに腰掛けている。
「どうした?」
『おなかが痛いんだって』
弟より早く、母が背中越しに答えた。
ほぉ。一丁前に仮病か? あ、まさか学校でイジメられてるとかじゃねえよな。
心配性の兄としてはちょっと気になる。
「ハラが痛いの?」
弟は頷いた。
「どこらへんよ?」
弟は首を傾げた。
俺も医者じゃないから『ココ』って言われたところで「そりゃ困ったな」ぐらいしか言ってやれないのだろうけど。ただ仮病ってカンジはしない。
『あんた病院に連れてってやってよ?』
母は俺に面倒を押しつけてきた。まあ学校をサボる口実にもなるし別にいいか。
弟を連れてやってきた総合病院はロビーがやたらと広い。受付も『■□科』とか言うのが沢山あってよく判らない。そもそも俺は健康だけが取り柄のような男だから、病院に来ることなんか殆ど無い。が、受付のお姉さんは綺麗なヒトが多い…たまに病院に来るのも悪くないかも知れないな。
気が付くと、弟が不安そうな目で俺を見上げている。案ずるな、弟よ。
辿り着いた内科の待合室で待たされること約1時間、ようやく弟が診察室に入った。一応俺も同伴で。
白髪に白衣の全身白ずくめの医師は、弟の腹を押したりしながら問診を繰り返している。弟は相変わらず不安そうだ。
『あなた、お兄さんですね?』
医者は深刻そうな顔をして俺に向き直った。俺は刹那、背筋が強ばるのを感じた。
『弟さん、ひょっとして…筋肉痛、かな?』
「…へ?」
思い当たるフシがあった。
昨日俺が部屋で筋トレしてるときに弟が興味深げな顔で見ていたので、腕立て伏せとか腹筋とかをやらせたような気がする…とは言っても常識的な程度に、だ。
幼い弟が一般的に言う『腹痛』と『筋肉痛』の違いが判らなかったからといって責めることはできない。ただ少し腹筋をやったぐらいで筋肉痛って…それでいいのか? 現代っ子は。
何はともあれ、病気の類ではなさそうだ。俺は胸をなで下ろした。
翌朝、中学生の妹が俺のトコロにやってきて、言った。
『お兄ちゃん。ナンか胸が痛いんだけど。キュンってカンジで…』
まあ年頃だし…春も近いかな?
「なあ、ここだけすごい日当たりがいいんだ。そこのカーテンを閉めてくれないか?」
「お安い御用だトム、あるいはジェリー」
「僕はトムだよ。あとカーテン、ありがとう」
「もう一度言おう、お安い御用だったよ。安すぎるぐらいだ。あとね、世の中には結果として分かっていたとしても、抗わずにはいられない存在って奴があるもんなのさ」
「ははん、それがトム&ジェリーってわけか。やれやれだね。とんだ迷惑だ」
「いや、正確に言えば迷惑はまだかけちゃいないぜ。これからかける予定なんだよ。なあトム、話が変わるがこれからピクニックに行かないか」
「勘弁してくれよ。今日という日は日曜日で、僕らが今いる場所は家なんだぜ、しかもここは僕の家だ。ピクニックに必要となってくるあれやこれは、当然僕が持ち出すことになるじゃないか。なあ、君だって先週までは働きづめだったんだろう? なんで久しぶりの休日をそんな風にして過ごしたがるんだよ」
「君の言い分も分からないわけじゃない。男二人でピクニックするのに必要な荷物は、きっと女二人でするピクニックより荷物はすくなくなることだろうさ。でも、たとえ男二人のピクニックであっても、やるからには少なくない量の荷物が必要となる。それは間違いないことだろうね」
「おいおい、それだけ分かっているっていうのになんでやろうとするんだよ? 君はもしかして僕の知らない間に、筋の通ってないことを平気で出来るような感情的な奴になっちまったのか?」
「いいや、これは感情的なことと関係ないことだ。うららかな春の休日には僕らはピクニックをしなきゃならんのだよ。これは感情を挟む余地もない、宿命的なものさ」
「へえ、知らなかった。宿命的なものね……おい、いったいいつ、誰が、決めたんだ?」
「おいおい、トマールイ・ハジェリー、君って奴はテレビもろくに見ないのか。ディッシュ大統領がこの前の演説のときに言ってたじゃないか。いくら一月から四月まで、一度も休みが取れなかったからってテレビぐらいは見ているもんさ。大丈夫かよ、ハジェリー。君、文明ってやつに追いつけてないんじゃないか」
「言われてみるとそうかもしれないな。僕だって君に負けず劣らず、ここ八ヶ月、休みなく働いていたんだもんな。そりゃすこしぐらいは疲れてるもんだよ。そういえばディッシュがそんなこと言ってたっけ。しょうがないな、行くとするか、トム」
さっきまでの通り雨のせいで湿ってしまった地面に洗濯したてのズボンを濡たらしたくないとため息をつきながらも、仕方なく腰を下ろして僕は考えた。
僕ははっきりと知ってしまったんだ。
昨日まで待ち遠しかった美術の時間、外での写生が嫌で嫌で溜まらなかった。あまりに嫌で腹が立って美術部員でありながら大切な絵の具を思い切り踏んづけてやった。
この世界の色はすべてこの絵の具で出来ている。今着ている制服だって濡れた地面だって。校舎も、この空さえも誰かがベタッと好きなように絵の具で色を付けたんだ。今見えているもの全てがそう僕に訴えている。
神様じゃない、誰かが勝手に色を決めた。許せない。きっと絵の具だけでは作り出せない色があるはずなのに。僕にはそれが見つけ出せない。
目の前の自分の書きかけの絵には当然ながら色が付いている。今美術部で取り組んでいるテーマは『自由』だから、僕は大空を飛ぶ鳥を描こうと随分と前から下絵を描き始めていた。難しいことなんて何にも考えずにただ、好きなように絵の世界に夢中になっていた。すらすらと動いていた手が急に止まってしまったのは、昨日の夜ゲームを始める前に色の配置を考えていたときだった。
ふと、
大きな欠伸をした。
つられてさらに大きな背伸びをした。
この瞬間さえも誰かが作り出しているのか。
そう思うと悔しくてたまらなかったけれど、ただゲームのやりすぎによる寝不足と一時間目が数学だったせいで眠いだけなのかとも思った。
結局僕は単純な中学生でいるしかないのか。
「うおーっ!!」
僕は思い切り空に向かって叫んだ。すっきりした、と僕が思ったのとクラスメイトが僕を一斉に振り返ったのと、ほぼ同時だった。誰かが向こう側で、
「あ、虹だよ」
と言ったのがほんの少しだけ遅れて聞こえてきた。
え?どこどこ?
どうして皆虹を見たいと思うんだろう。そんなに珍しいのか。
「ふん、ただの虹だろ」
どうせこの虹だって誰かが都合のいいように明るい色を並べただけなんだろ?
とは言いつつ素直に綺麗だ、と思ったりもした。
僕は何を考えているんだ。
僕にはもっとやらなければならないことがあるじゃないか。
そうだ。一週間前から描きかけの、この絵を完成させなければ。 写生なんて無視して、今は自分の書きたい絵を描けばいい。
少し焦りながら虹を見上げて、そしてもう一度大きな欠伸をして、僕はまた筆を動かし始めた。
あるアパートの話である。木造でいかにも古いアパートだった。それでも割と頑丈で、駅にも近く、家賃も安いため、いつもほぼ満室状態だった。ところが、いつも開いている部屋がある。他の部屋は絶えずうまるのに、その部屋だけ借り手がつかない。大家さんも、不動産も不思議がっていた。借り手が決まりそうになっても、みんな突然、大した理由もなしに辞退するのだ。
そんな状態だから、いつしか噂がたっていた。昔、人が自殺したんじゃないか。一家心中か。夜逃げか。人を激しく恨んだまま亡くなった霊か。噂ばかりが騒ぎ立つ。
大家さんもたびたび、住人から噂の真相を尋ねられるが、全て嘘と否定した。実際、そんな物騒なことは起こっていないのである。
この部屋の横に、思春期になる女の子が住んでいた。この女の子が思春期に入ってから、奇妙なことが起こり始めた。そう、ポルターガイストである。
人がいないはずなのに、この部屋から足音が聞こえ、壁を叩く音が聞こえた。住人たちはますます、この部屋を不気味がった。悪霊が住んでいる。妖怪が住んでいる。などなど
しまいには、よそへ引っ越して行く者も現れる始末。大家さんは困った。そこで大家さんは、自分でまず、この部屋を調査してみることにした。
入ってみると、大家さんは戦慄した。確かに、壁には叩いたかのような跡があり、床には無数の足跡が残っていたのである。大家さんはパニックになってしまった。自ら「あの部屋には悪霊が住み着いている」と喚き始めたのである。大家さんはその後、パッタリ来なくなった。
住人たちは怖くてしょうがない。何人かが、この部屋に入ってみたら、本当に無数の足跡がある。大家さんの言っていたことは本当だ。大家さんはもう、アパートの所有権を他に譲る気ではないか、という噂までが広がった。住民たちで協力して、霊媒師を呼ぼう、という意見がでた。賛同者も多かったので、霊媒師にお払いをしてもらった。
ところが、お払いの効果がない。当然だ。ポルターガイストの原因は、思春期の子なんだから。よく分からない住人たちは不安がった。霊媒師でもダメ、じゃあどうすれば?
ポルターガイストは相変わらず続く。少しずつ、住人たちはアパートを離れ始めた。
今では無人である。
すぐに来てくれと教授から連絡を受けた私は、とるものもとりあえず発掘現場へとやってきた。
「何か見つかったのですか」
「見つかるもなにもキミ、あれを見てくれ」
教授の指差す先には、学芸員の集まりの隙間から四角い突起物が見え隠れしている。
「ラメゾンドだ」
手にした古文書をめくりながら、教授は顔を上気させている。
「ここに書かれてあるのは、お伽噺なんかじゃなかった。過去には我々とは別の文明が、この世界を支配していたんだ」
教授が解読したところによるとラメゾンドとは古代人の集合住居なのだそうだ。
「大きさは、どのくらいになるのですか」
「超音波センサーによると、見えている部分の二、三十倍はあるようだ」
徐々に自分の心音が高鳴っていくのを感じる。これは前代未聞有史開闢以来の歴史的大発見じゃないか。
「センセー、こっちに来てくだせー」
となりに開けられた穴奥深くから声がする。
「モ、モービルがでましたっ」
教授とともに穴底まで降りると、そこには妙に角張った物体があった。その大きさ、形状からすると、これまで私たちがさんざん議論を重ねてきたモービルそのものに間違いない。表面にはかすかに古代文字が読み取れる。
「これは――ダ、ツ、ンと読むのですかね教授」
「発音はそうだろう。意味はまるでわからんが」
文字の上を指先で叩くと、コツンコツン金属音が響き渡る。材質は鉄だろうか、いずれにせよ人工物であることは明白だ。下部を覗き込んでいた教授が叫び声を上げる。
「おいこれを見ろ。車軸がついてるぞ。四輪だ。こいつは圧縮空気の浮遊ではなく、タイヤで走っていたんだ」
その後も発掘現場は、数々の発見でおおいに沸きあがった。
一段落ついたところで、我々は遺跡全体を見渡せる丘へあがり腰を下ろす。
「あの、教授」
「なんだね」
「彼らが文明を築いていた頃、私たちの祖先もこの地球上に存在していたんですよね」
「無論そうだとも」
「ご先祖様は、古代人にとってどういう存在だったのでしょう」
「ああ」激しく手をうごかし教授は古文書をめくる。
「我々の祖先はナマケモノとよばれ、森林奥深くの木上で暮らしていたらしい」
「ナマケモノ……それはどういう意味ですか」
「直訳するとハタラカざる人、という意味かな」
ハタラク……脳をフル回転させても対応する適切な言葉を見つけられず、私は口を噤む。陽はすでに大きく西へ傾き、遺跡を眺める教授の笑顔を赤く染め抜いている。
友人が言うには、銀行強盗を題材にした小説が面白いのは、そいつが否リアルであり、なおかつ臨場感があるかららしい。強盗達は、否リアルの中で綿密に策略を練り、見事に仕事を成し遂げ、それが読者に感嘆をもたらすのだと。しかし、その裏には幾つもの幸運があり、それを隠すことが、世間受けする作品に昇華させるのであると。臨場感なんて結局は作り上げられたものであり、それをリアルだなんだというのは馬鹿馬鹿しい話で、つまりはエンターテイメントでしかないらしい。また、今の時代銀行強盗対策というものはとても高等であり、そこを掻い潜る術など皆無の筈だし、もし銀行強盗にばたりと立ち会ったとしても銀行員と警察に任せておけば犯人は捕まる。それこそ、いつまで経っても流行り続けているなんたら詐欺とやらをした方が効率よくお金が稼げるのだから、銀行強盗を実行しようなんて考える奴は馬鹿以外の何者でもない、との事だ。しかし、私にはいまいち納得できず、第一私はそんな小説は読んだ事もなかった訳で、それにそんな事は強盗小説以外にも当て填るのではないかと思ったし、さらには途中から関係のない話になっていたような気もした。なのでその話をされてすぐに、その旨をそのまま友人に伝えた所、いつからお前はそんな奴になったのだ。私の言いたかった事は銀行強盗をする奴は馬鹿だという部分で、そこ以外の言動はただの肉付けであり、話をエンターテイメントとするための妄言であって、そこに文句をつけるのは論外だ。牛丼屋で、なぜカレーを売っていないのだと店員を怒鳴る五十過ぎの親爺並に性質が悪い事だ。お前はそんなくだらない人間だったのか、甚だ遺憾だと、そんな風な事を十分少々説教されたのであった。そして友人は、先程まで私に暴言を浴びせていたのを忘れたかのように笑顔になり、こんな事を言いながら俺が強盗を行い、あっさりお縄くらったりしたらそれこそそこらのつまらない小説を優に超えるストーリーの出来上がりだな、と言った。そんなオチならどんなに良かった事かと、現在の私は考えているのである。今、私の隣には、銀行強盗に銃で撃たれ、うつぶせになり気持ちよさそうに眠っている友人がいるのだ。
坂道を上がると、桜の並木が視界に入り、舞い散れる幾千万の花弁が私の心を奪っていった。もう八年だ、ここに来てからもう八年が過ぎた。この八年間、私は彼女への想いが一秒たりども消えていない。幾たびの夜、私が涙をしながら夢から目覚め、永遠欠けないの月の下で、彼女の笑顔を思いながらほんやりと朝陽を迎える。涙の味はもはや慣れていた。でも、その孤独さだけがどうなに時間が経っても慣れないんだ!
「どうして私が彼女へのその想いを口にしてなっかたのか」
桜の海に歩いてゆく、私はそう呟いた。
もし、その夕暮れ、私が自分の思いを彼女に伝えられるのなら、このような状況に成れないのかもしれない!町を出て、遠いここに来て、天涯孤独を味わうままで一生を尽す…
私の人生なんか、もう意味がない、ここの桜だけが僕に一瞬の気楽を与える。この道を抜けた後、無限の孤独だけが僕を待っていた。それでも、ここの桜が大好き。
……
「サカ…く……」
何かが後ろから…よく聞こえないが…
「サカキくん…」
この声…この声は……私は答えることも振り返ることも出来ず、ただ桜の中で立ち尽くす、涙は決潰のように……
いつもより原色が多い食卓のまんなかには大きなケーキがどっかりと座っていて、お母さんが左右対称にロウソクを立てていった。3歳下の妹のトモコは手前のロウソクから火を点けていって、奥のロウソクに点火する時に服に火が燃え移ってしまうんじゃないかとお母さんをハラハラさせる。お父さんが歌の最後をハモろうとして調子外れになっちゃって、僕は笑って1回じゃロウソクの火を消す事が出来なくて、トモコと一緒に残ったゆらめきを吹き消した。
生まれた日と併せて13回目の今日。神様の声を聴くのはこれで3回目。
人は年齢が4の倍数になった誕生日に神様からクイズが出されて、その答えを間違えると体重が倍になってしまう。逆に正解すると体重は半分になる。リトルリーグの監督が変わるのは体重じゃなくて引力だ、と言っていたけど僕にはよく分からなくて、どうしてそうなるのかは監督にも分かっていないようだった。
「コウタ君誕生日おめでとうグラヴィティゴッド佐藤ことGG佐藤です」
頭の中で声が響いた。僕は横になって(立ったままクイズを間違えて首の骨を折っちゃった人もいるらしい)、もしコウタが軽くなったら1番でスタメンだな、と監督が言っていたのを思い出す。明後日から6年生最後の大会が始まるから、今日重くなる訳にはいかない。
「では問題。6−4−3のダブルプレー。6はショートである。マルかバツか」
……なんて運がいいんだろう。だって僕はその背番号を付けたくて4年生の時からガンバってきたんだから。野球の神様に感謝したくなる。って神様と話しているんだった。僕はマル、と叫んで頭の中で大きく円を描いた。
みんな心配そうに僕を見ていたけど、僕は絶対に正解だと思っていたからちっとも不安じゃなかった。1番、ショート、コウタ、背番号6。思わず顔がにやけてしまう。体の芯からじわり、とあたたかいものが湧き出てきて全身をくすぐって、僕は悶えてゴロゴロと転がりながら答えを聞いた。
「――正解」
その瞬間、ふ、と体が軽くなった。
コウタは起き上がると両の拳を上げて喜びを爆発させた。トモコはコウタに抱きついて、隣で万歳、万歳、と両手を上げて飛び跳ねた。トモコと一緒になって万歳、とジャンプしたコウタは勢い余って天井を突き破った。天井に足が生えて数回振り子の動きを繰り返した後、足は動かなくなった。コウタは12回目の誕生日に死んだ。チームは1回戦で負けた。
夜の闇が嵐を抑えている。
天気予報通り、今にもポツリと来そうな夏の夜、恵里佳は夫の帰宅を待ちながら、携帯電話のサイトからいくつか着メロをダウンロードした。
夫は今夜も残業である。一人の夜を過ごすのに、DVDもマンガも見飽きていた。
無料試聴型のそのサイトには投稿者が投稿した、最近流行りのJ−POPから洋楽、演歌、童謡、軍歌まで、
様々な曲が月額利用料を払うことでダウンロードできる。
投稿者の好みで原曲のままや、オルゴール版や着メロ用にアレンジされたものなど、何千曲も投稿されている。
子供の頃にエレクトーンを習っていた恵里佳は、迷わずクラシックをダウンロードする。
30を過ぎて結婚し、子供のいない専業主婦をしている為、その気になればいつでも音楽教室へ行ける。最近はそんなことを考える。
恋愛結婚をしたが、夫とは日一日と、男と女の関係ではなく、血のつながった家族のような温かい絆が結ばれていく。
独身の時、愛を求めてさまよった、カミソリと揺りかごが常に背中合わせだったような感覚が忘却の彼方へ行く。
大好きなベートーベンの曲をダウンロードした。「月光」「テンペスト」「英雄」…。さすがベートーベンである。投稿者の数がクラシック曲の中でもダントツに多い。
好みの投稿曲を見つけ、その人が投稿している曲を様々聞き比べるのも面白いと思った。
ダウンロードした楽曲を再生する。
携帯電話から譜面通りにピアノで弾いた旋律が流れ始める。
「月光」の調べが、嵐にさらわれるようにあの人に恋焦がれた感覚を思い出させる。
どんな人が投稿したのかと自己紹介欄を見てみると、小柄な男性で郵便局に勤務をしていることがわかった。
3分間で終わった曲をまた再生する。
顔も名前も分からない彼が奏でる旋律は、恵里佳が忘れていた遠い日の記憶を音符でくすぐる。
表現力もピアノの技術も上手なのにプロにはならず、郵便局に勤める彼の背景を想像してみたりもする。
黒いアップライトピアノの前で譜面を置き、音符や記号を追いながら自分の世界を表現する彼。どんな人なのだろう。
彼が投稿した曲を他にも聞いてみる。
どの曲においても、彼の奏でる旋律は恵里佳の心をくすぐる。
ふっ、と再生が途切れた。
夫からの着信が来た。
「もしもし?何してた?今から帰るから」
夫の優しい声が聞こえる。
恵里佳は微笑んだ。
夫への恋心を思い出した。
風呂上りに、男はまず冷蔵庫に入れておいたコーヒーゼリーを取り出す。男はコーヒーゼリーが大の好物だった。
キッチンのテーブルには物憂げな先客がいた。同棲して一年になる、男の彼女であった。
「話があるの」
思いつめた表情をする彼女の正面に、男は腰掛けた。
「どうしたんだい?」
「大事な話なの」
彼女の真剣な眼差しは、男への批難が滲んでいる。男は右手に持ったコーヒーゼリーを置いた。
「それは、このゼリーよりも大事な話かい?」
お道化てみせる男に、彼女は失意の溜息を洩らす。
「あなたっていつもそう。何一つ、真面目に考えてくれない」
「そんなことないよ。いつだって俺は真面目さ」
男はコーヒーゼリーのカップの下部に付いているミルクを取り外す。
「なら、私たちの将来のことは、どうなのよ」
彼女の目にはうっすらと涙が浮んでいる。
「もちろん、考えてるよ」
「それじゃ、結婚のことは?」
男はゼリーのフタをぺりぺりと剥がす。その拍子に、手の甲にコーヒーの液が跳ねる。「おおっと」
彼女は諦めたように首を振る。
「私たち、もう駄目ね」
「何を言ってるんだい? そんなことはないよ」
プラスチックのスプーンを袋から取り出し、脇に置く。
「……別れましょう」
彼女は涙をこらえるようにして、窓から夜空の月を仰ぐ。都会の空に星は見えないが、綺麗な満月がぽっかりと照らしている。
男は慎重にゼリーの表面にミルクを垂らす。中央にぽっかりと、白い円が出来る。それが何だか、夜空の月のように思えた。
そして力の加減を一定に保ち、均等に表面全体に広がるようミルクを注いでいく。最後の一滴を垂らした時、ゼリーはその黒く半透明なその体を白いミルクの膜で隠した。男は満足した。
「泣かないでおくれよ。ほら、これをごらん」
男は、隠しておいた小箱を取り出して彼女に渡す。目を赤くした彼女がおずおずとそれを開くと、そこには光り輝くダイヤの指輪があった。
「別れる前に、それを受け取ってくれないか。僕からの結婚指輪だ」
彼女はワッと声を上げて男に抱きついた。それを男は左手で優しく受け止める。窓から見える満月が、二人を優しく照らしている。綺麗に真ん丸で、曇りのない白い姿だ。
ふと男がゼリーを見ると、ミルクとコーヒーが微妙に混ざり合い、表面が斑になっている。
男は余った方の右手でスプーンを手にとり、ぐちゃぐちゃとそれを掻き回した。
昔々、華やかなりし太陽王ルイ14世の時代。ガスコーニュ地方の外れにリクガメとウナギがいました。ガスコーニュは勇者を多く生んだ土地です。そのためかリクガメもウナギもとても勇敢で、いつも国王と祖国フランスのために戦いたいと思っていました。
ある日、領主のカステルモール伯爵がマラソン大会を開催しました。
「この大会で優勝した者は、わしが銃士隊に推薦してやろう」
銃士になることは若者たちの憧れだったので、たくさんの若者が参加しました。もちろんリクガメとウナギも駆けつけました。
大会が始まりました。リクガメはのろのろと歩を進め、ウナギは桶から滑り出てウネウネと身をくねらせ、栄光のゴールを目指しました。
三日経ちました。若者たちはみんな大会当日にゴールしましたが、伯爵は完走した全員と握手したかったのでまだ待っていました。若者たちも待っていました。
丘の上にリクガメの姿が見えました。すると若者たちは応援歌を歌い始めました。リクガメはその歌に勇気づけられ、力を振り絞りました。
歌が二百回目に突入し高らかなしゃがれ声が鳴り響く中、リクガメはゴールラインにたどり着きました。あたりは歓喜の声で溢れ、伯爵は若者たちに言いました。
「君たちの姿を見て大切な言葉を思い出した。『ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために』銃士隊の合い言葉だよ。銃士に推薦できるのは一人だけだが、君たちの心は立派な銃士だ」
若者たちは感動し、互いに抱き合いました。彼らはリクガメを胴上げしようとしたのですが、リクガメはでかいし重いので諦めました。
「伯爵!」
輪の中から一位だった青年が出てきました。
「俺の代わりにリクガメを推薦してください」
「そうだ、それがいい!」
若者たちから賞賛の声が上がり、伯爵もにっこりと頷きました。リクガメは喜びと疲労で身を震わせていました。
翌日、パリへ発ったリクガメを三時間かけて見送った後、伯爵はウナギのことを思い出してルートをたどってみました。するとスタートライン付近でウナギがひからびていました。国王に仕える一心で命も投げ出したウナギの勇敢さに感動し、伯爵は大聖堂を建てました。ウナギはガスコーニュの英雄伝説に新たなページを刻んだのです。
さて、鶴は千年亀は万年と申しますが、リクガメがパリに到着した時、すでにフランス革命が勃発し、ルイ16世は処刑されて王朝は崩壊。銃士隊も解散していました。
わからない。ああ、俺にはわからない。たとえ永遠だと誓った愛でさえ、いともたやすくその火を消してしまうものなのだろうか。ああ、なんという無常のはかなさよ。
「私のこと、愛してるって言ったじゃない」
森の奥ふかく、月夜に照らされた沼のそばで、全裸の美女が叫んだ。悲痛な叫びは、しかし俺の心を揺さぶらない。それを信じられないとばかりに、彼女はことさら声を荒げる。
「あれはうそだったの?」
俺はうつむいたまま、貝のように押し黙っていた。
彼女は波うつ金髪をふり乱し、うめきながら、その美しい顔を涙で濡らす。冴え冴えとした白い肌が、月光を照り返すように輝いている。こんな時でさえ、彼女を綺麗だと思うのに、愛しさはもはや微塵も感じられないのだ。
「ごめん」
「あやまらないで!」
彼女は俺の言葉を必死ではねつけようとしている。けれど、もうどうしようもない。
「あなた、私のすべてを受け入れるって言ってたでしょう?」
「うん」
「ほんの、ちょっと前のことよ」
「うん」
「私の正体が人魚だとしても」
「ああ」
「それなら、どうしてよ……」
俺だって、自分を、救いようもなくひどい男だと思っている。
彼女が自身を人魚だと言い出したとき、その電波ぶりは受け入れられた。ただ、へんなところのある子なんだな、と思ったのだ。
でも、彼女はほんとに人魚だった。すくなくとも人じゃなかった。数ヶ月まえ、沼から上半身を浮かせたまま、上下に揺れることなく水平に右往左往してみせたり、二時間ほど泥に埋まって生還してみせたりした。
当然俺は逃げ、彼女とは距離を置いた。混乱のあと、悩み、苦しみ、そうしてみて俺は気がついてしまった。彼女がたとえ人でなくとも、やはり俺には彼女が必要なのだと。俺、なんとしても彼女を受け入れられる。妙な高揚すらもあった。
月明かりに、美麗な上半身を惜しげもなくさらし、打ちひしがれる彼女は退廃的な魅力に満ち溢れている。
「なにが、いけなかったのよ……」
意を決して、俺は声を張りあげた。
「結局、ストライクゾーンの問題なんだよ!」
月の光にうつるのは、ぬめぬめとしたドジョウの尾。
俺の愛はドジョウに負けた。
張り裂けんばかりの無念さに俺は涙する。
「コイならたぶん、ギリでいけたのに」
しんとした森の奥、俺の声がこだましていた。沼のほとりには、重い闇がのしかかっていた。
月がかげるのも、気付かなかった。
きっと始めは些細なことで、だから今でも理解できないのだと思う。
教室を二分してしまっている現実。その両端にいるのが、私と美紗。
休み時間、美紗はクラスメイトたちとお喋りをしている。それは私も同じだ。笑い声が聞こえる。私も笑う。でもそれは見せかけの安定。天秤の両側に分銅が乗っているときのような、触れれば揺れてしまうような状態。ふと向こう側と目が合っただけで笑い声が途絶えてしまう、それが今の私たちの教室だ。
耐えられずに、ごめんなさい、と言ってしまいたくなるときもある。でも美紗の隣にいる子は私が悪いと言ってとりあわず、私の前にいる子は美紗が悪いと言って譲らず、それは叶わない。動けない私たちの代わりに仲をとりもってくれようとした子も同じ目に遭って、仲間はずれにされることを怖れてやっぱり動けなくなる。そのうちに緊張は通常になって、でもやっぱりそれは見せかけの通常だ。
その証拠に、私はつまらないという感情を覚えた。それは私の顔から笑いを消す。そんなときは何を見ても面白くないし、何を聞いても耳に障る。そしてそんなときに限って、美紗の笑い声がよく聞こえる。よく聞いた、でも多分違う笑い声。視線を合わせないように目の端で美紗を見ると、それは私に向けられている。私の前の子が気づいて向こう側に威嚇の目を向けて、また笑い声が途絶える。
下校が遅くなった夕方、早足の帰り道で美紗の後姿を見つけた。数軒先が美紗の家で、美紗は一人で歩いていた。見つかっては気まずいと歩調を緩めた私の目を、何かに反射された夕日の光が刺した。かばんに留められた、まだ新しい缶バッジ。そうだった。これが始まりだったんだ。たったこれだけのことで、と後悔と憎悪の目で私はバッジをにらみつけた。でもバッジが応えてくれるはずはなく、美紗はそのまま家に入っていった。
美紗に電話をしたくなった。でも何を言えば良いかわからなくて、私は美紗の電話番号を抹消した。もう忘れよう。バッジのことも、仲違いしたことも、美紗を嫌っていることも、それから美紗が好きだったことも。
二分された教室。両端にいる私と美紗。天秤の皿は下に降ろされ、見せかけと思っていた通常はいつしか本当の日常になり、私は私、美紗は美紗で気兼ねなく笑えるようになった。これが大人の態度というものだろう。いつか誰かがけんかしてしまったときは、今度は私が忘れることを教えてあげようと思う。
冬は嫌いだ。どんなにぬくぬくと暖かな車の中にいても、寒々しい窓の外を眺めると、雪の降る公園で低体温症になりかけながら必死に耐えていた夜のことを思い出す。
河川敷の公園に寒々とした冬の夜の光景が広がっていた。7,8人の高校生が走り回って騒いでいる。赤や白のカラフルなダウンを着て、中には髪を染めていたりキャップをかぶっている奴もいる。何を言っているのかわかりにくいが、哄笑だけが一番大きく聞こえる。少年たちは外灯に照らされて、浮かびあがっては闇の中に少し沈む。
泥に汚れた一人がうずくまっていていま立とうとしている。その前にひょろ高い奴がじっと立っていて、残りの4,5人はそのまわりで騒いでいた。制服を着た少女が一人、その輪の外に立って甲高い声で何か叫んでいる。制服の上に暖かそうな白い上着を着ているが短いスカートから出た足は寒そうだ。ここからじゃよく聞こえないがおそらくこんなことを言っている。
「イヤー二人とももうやめて、どうしてこんなことをする必要があるのよ!」
一方のっぽ
「これは、俺達二人の問題なんだ。止めないでくれ」
「だめよ!二人ともけがしてるじゃない」
一方汚い男
「……男には戦わないといけない時があるんだ」
汚男が立ち上がったところにのっぽがドロップキックを仕掛ける。ジャストミートはしなかったが、かろうじて右側によけた汚男はよろめいて、見えないリングの円を出かけて蹴り戻される。そこを狙ったのっぽのフックが汚男の顔面にジャストミートする。さらに後ろから羽交い絞めにされなんぱつか殴られる。
「ヤめて−ヨッ君も、右手けがしてるじゃない!」
見ると確かに、殴った方の手の甲から血が出ているようだ。風呂に入るとしみるだろう。
「どっちかが負けを認めるまでやめるわけにはいかないんだよ」
さっきからずっと、リング役の少年たちは、面白くて仕方がないという風に笑っている。その声が聞こえる。
「負け、、負け、、負けるわけにはいかない…」
と汚男、這いつくばったままで言う。腹を何度もインステップキックされ、砂をつかんで投げつけるとさらにキックが激しくなる。
女はもはや言葉にならない泣き声を出すばかりである。
ハハハアハハハハハハハハハハ
胸糞悪くなって俺は煙草を揉み消し、ライトを消してギアをドライブに入れ、川に向って突進する。
まるで自殺だ。
全部終わると、女だけが残っていて、ものすごい形相で俺のことをにらんだ。
芋虫は考えた。
「今すぐ蝶の姿へ、とはいかないものか」
常日頃から生き急ぐ性分のこの芋虫にとって、繭の中にて数日間じっとしていることは我慢のならないことだったのである。
そこで、自らの口から分泌する粘糸を以て、背中に落ち葉を二枚張りつけ羽根に見立てるも、その不格好は同じ木に住むカブトムシ達からの嘲笑の的にしかならなかった。
もしここで心に一本筋が通っているものならば、「今に見ていろ」と周りを見返す努力をするのだが、あいにくこの芋虫の心は、自らの身体同様ぐにゃりぐにゃりとしていたので「ひとに笑われるくらいなら」と、あっさりとあきらめてしまうのであった。
急ぐことを諦めた芋虫は普通の芋虫になり、他の者がするのと同じように、自らの体を粘糸で包み、窮屈な繭の中で蝶へ変わる日をおとなしく待った。
数日後、繭から孵った芋虫は驚愕した。
蛾だった。
自分が変態したのは、街灯にたかり鱗粉をまき散らす蛾だったのだ。
悔しく思った蛾は、近くの花畑へと飛んで行き蝶の群れに交じることにした。
しかし、そこでも蛾は蝶たちに笑われた。
「ひとに笑われるくらいなら」
蛾は、ゆらりゆらりと夕陽色の街灯へと引き寄せられていった。
ガタン、と郵便ポストに何かが入れられた音がした。
郵便ポストを開けると、「解脱」と書かれたラベルの巻かれたペットボトルが一本横にしておいてあった。
疑問よりも先に好奇心が腕を動かした。手に取り、ラベルをはがし、中の液体を確認する。
薄い灰色、言うならば工業廃水のような、つまり、飲むには値しなさそうな液体が揺れていた。
キャップを開け、中学校の時に習った塩酸を嗅ぐ時のような恰好で手で扇いだ。線香。瞬時にその単語が思い浮かんだ。
まさに線香そのもの。この、実家の仏壇の前で飽きるほどに嗅いだ、この匂い。キャップを締め、振ってみる。
どうやら粉末のようなものが溶かしてあるらしく、液体の中を濃い塊がうようよと移動した。
コップに注ぎはしたが、どうしようか。
誰かの面白半分の悪戯である可能性は九分九厘。しかし、もし、そうでなかったとしたら。
誰がこのペットボトルをポストに入れたのか。そしてこれは何の液体なのか。
……どうやら、これらの疑問を取り払うには、飲んでしまうのが一番手っ取り早いようだ。
俺はコップを手に取り、埃を溶かしたような水面を眺めて一気に流し込んだ。
「新家さんっ。新家さん」
大家が部屋の戸を叩いて自分の名前を呼んでいる。
「新家さん、入りますよ」
鍵がまわる音がして、大家が部屋に入る。シギリ、と床が音をたてた。
目の前に、大家が現れた。
「新家さん、二週間も部屋から出てこないなんて、何考えてるんですか?」
言って、大家は目を見開いた。おそらく私の恰好に驚いたのだろう。
無理もない。長かった髪の毛を剃って坊主にし、
麻物の着物のようなものを来て坐禅を組んでいたのだから。
大家は怪訝な顔を隠そうとはせず、続けた。
「……お家賃、頂けます?本当は一週間前には払わなきゃならんのですよ」
「まあまあ、わざわざどうも。座って、お茶でもどうですか」
私は坐禅の体勢を解いた。
「何言ってるんですか。早く払ってくださいな。まあ、頂きますけれど」
大家はそう言うと自分の出したものを飲み干した。
「おいしいですか」
「これ、なんですか?とてもおいしいですわね」
「まあ、いいじゃあないですか、何でも。それで、お話はなんでしたかな」
大家は、ほっこりとした表情で言った。
「ああ、お家賃の催促に来たんですのよ。でもまあ、よろしいですわ。
人には人のペースというものがありますものね。ゆっくり、自然に身を委ねて、お待ちしてます」
「ええ、承知致しました」
「先生、私、痩せられますか?」
ダイエットに悩んでいたシャルロッテ婦人。
彼女が思いあまって相談した友人に紹介された医者でのヒトコマである。
「大丈夫です。私の言いつけを完璧に守っていただいたら、100%痩せられます」
医者は、胸をドン!と叩き、自信満々で答えた。
「わかりました! それでは私は何をすればいいですか?」
婦人の問いかけに、医者は噛んで含めるように説明した。
「では婦人、以下の3つを実践してください。一つ、食事は3食摂る事」
「3食、食べてもいいんですか?」
「はい、ただし炭水化物は摂らない事です」
「炭水化物、ですか……」
「ええ、ですから、パンやパスタは控えてください。フルーツは摂ってもいいですが、量は控えて下さい」
「あ、はい…わかりました」
「そして3つ目、夕方の6時以降は水分以外のものは摂らない事。守れますか?」
「はい! 頑張ります!」
婦人は、覚悟にも似た表情でうなずいた。
それから数ヶ月、友人は再び婦人のもとを訪れた。しかし、あれから医者の言いつけを守っているという報告を受けていたのにもかかわらず、婦人はまったく痩せていなかったのだ。
「どうして痩せないのかしら……」
そう呟く婦人の悲しそうな顔をみて友人は同情した。
「ま、まあ……きっと、これから効果が現れるのだと思うわ? ……もう少し、気長にやってみたら?」
「そうね。。。ありがとう。頑張るわ?」
婦人は、少し元気を取り戻したように、ほほ笑んだ。
「あ、そろそろ夕食の時間だわ? ねえ、うちで夕食食べていかない?」
「でも、あなたダイエットしているのに私だけ食べるの悪いわ」
「大丈夫、3食きちんと食べるという決まりだから」
婦人はメイドを呼ぶ。ほどなく、二人の前に分厚いステーキが運ばれた。
「炭水化物は摂っちゃだめだから、毎日お肉しか食べてないわ」
婦人は、そう言いつつ、ぶ厚いステーキにナイフを入れ、モリモリと口へ運んだ。
「あ、いけない! もう少しで6時だわ? ちょっと!」
再び婦人はパンパンと手を叩いた。すぐさまメイドがケーキを持ってやってきた。
「6時以降は何も食べちゃいけないから、あと10分で食べないと……」
婦人は、ケーキを口にほおばった。
「ボーンボーン……」
やがて時計は6時を指した。
「6時以降は、水分しか摂っちゃいけないのよねえ……夜が長く感じるわ。。。ダイエットってほんとに辛いのよねえ……」
婦人はそう言って、ワインのコルクを抜いた。
足場を蹴って、反動で見上げたその先には、「蜘蛛の糸」の様にぴんと張る一本の筋が見えた。この伸び往(ゆ)く先は天堂か。只それは蜘蛛の糸と違って、身を任せるに値する、決して切れる事の無い頼もしさを持っていた。
私の居る丘の周りは緑の山脈が波打っていた。一陣の風が私の背中を押して行った。ここは色の仄(ほの)かに香る三笠山の様になだらかな春の丘の上。眼下は花盛りの梅園だ。もう少し待てば、今度はその中に桜の花が見えるだろう。眼前に広がる景色は、申(さる)の刻の傾いた陽によって映えている。
山脈に囲まれた静かな景色の中、花をつけた梅の木の影が一つ、もぞもぞと動き始めた。影は木の根っ子から離れると、姿を子供の影へと変えていった。木から離れた黒んぼは、地面に貼り付いたまま梅園を自由に駆け始める。他の影もまた続くように体を震わせ木の幹から離れていく。梅の木から生まれた黒んぼ達が、私も私もと、縦横に走って遊び始める。笑い声が風に乗って丘の上の私の処まで聞こえてきた。眼下の梅園を、笑い声と共に無数の黒んぼ達が走り回る。
その中に、まだ花をつけていない小さな一木が在った。その姿がふと私の亡くなった息子の姿と重なった。あれは小さな木であるが、確かに桜の木の様だ。枝の先に、尻から一本の糸を出してぶら下がる蜘蛛の姿が見えた。ふいに出てきた涙が、私の頬を撫でてゆく。お前はあの桜の木になったのかな。まだ花をつけない木は、動かずにそこで立っているだけだが、もう見れるはずのない未来の息子の姿の片鱗が、走馬灯の様に頭をよぎり去って行った。
私の意識が遠のいていく。見える梢がぼやけていく。首の重ささえ疎ましい。棚から花瓶の落ちるが如く、抗(あらが)えずにかくんと力が抜ける。落ちた視界には、地面を覆った草の根を、宙に漂いながら指し示す私の両足が見えた。春の梅園の頂上に吊られた体は、少しの間ゆらゆらと揺れていたが、すぐに重い体は動かなくなった。あぁ、蜘蛛の糸よ、まだ私を引き上げないでほしい。もう少しの間、誰にも見つからずに、あの桜の花がつくまでここに居させてほしい。……
ダークマターと呼ばれる物がある。宇宙に存在する目に見えない物質のことで、見えないのだから当然正体は不明。俺はこれの研究にもう十年以上費やしているが、未だに尻尾を掴めていない。まあ、これさえ発見できれば宇宙の成り立ちの謎が解け、ノーベル賞間違いなしという代物だから、一生を賭けるぐらいの意気込みがないとだめだろうが。
ところが最近は腹立たしいことに「ダークマターは存在しない」などと言う奴らが勢力を伸ばしている。プラズマ宇宙論だの修正ニュートン力学だのを崇めている連中だが、あいつらは後付けのこじつけを理論だと主張しており、愚かとしか言いようがない。だが奴らはこちらの成果の乏しさにつけこみ、確実に賛同者を増やしているのだ。
それに焦りを感じていたのか、近頃俺の研究にミスが多くなってきた。些細な物なので同僚達が修正してくれるが、こうも誤りが目立つとますます焦る。
そんな様子を心配した同僚が、俺に休暇を取れと勧めてくれた。最初はもちろん渋ったが、疲れを自覚していたこともあり、結局は休みを取ることに決めた。そういえば最近は妻と過ごす時間も少ないし、ゆっくり休養すれば画期的なアイデアが出るかもしれない。
そんなわけで俺がのんびり自宅で過ごしていると、妻が頼み事をしてきた。
「あなた。お休みのところ悪いんだけど、これを天井につけてもらえる?」
そう言って、紐のついた水晶のインテリアを差し出す。これはなんだと聞くと、妻は笑顔で説明してきた。
「あのね。クリスタルを天井から吊るすと気の流れが良くなって風水的にいいって、テレビで言ってたのよ」
バカかお前は。なにが気だ。なにが風水だ。仮にも科学者の妻が迷信を信じるな。そんな物は捨ててしまえ。
そう怒鳴りたかったが、休暇中に夫婦喧嘩をするのも嫌だと思い直し、俺は何も言わずに頷いた。
俺が登る脚立の脚を押さえながら、妻は上機嫌のまま世間話をしてくる。
「そういえば隣の奥さん、変な霊感商法に騙されたらしいわよ。なんでも、狐の霊がとりついてると脅されて、何十万もする数珠を買わされたとか」
お前の信じてる物も大して変わらんよ、と心の中で呟きながら作業を進める。
「バカよね。目に見えないものを信じるなんて」
その何気ない言葉を聞いた瞬間、俺は脚立から転がり落ちた。
妻が慌てて助け起こしてくる。傷一つないというのに、俺は妻の一言によってまだ立ち上がれずにいた。
お母さん、僕はここにいるよ
東京の下町に4人の家族がいました。長男の10歳のノボルは小学校4年生。次男のアキラは、5歳でした。
ある日、母は、ノボルの夏休みに兄の実家に行くことにしました。東京から列車に乗って、3時間ほどの所です。
三日後、4人は目的の駅に到着し、20分歩いて兄の家に着きました。
母の兄の3人の子供が外で、カエル捕まえて遊ぼうとノボルに言いました。カエル?ノボルは目を輝かせました。僕も連れてってよと、アキラが慌てて付いてゆきます。
30分して子供4人が慌てて家に帰ってきました。
「アキラがいなくなっちゃった」
両親、母の兄の家族も慌ててアキラの捜索に飛び出しました。
20分位探していると、遠くの信号機の無い線路に、後ろ向きの子供の姿が見えました。
母は半信半疑でアキラと叫びましたが、遠すぎて聞こえません。
すると、不運なことに3〜4時間に1本しか走って来ない列車が走ってきました。
アキラは足元の小石がぐらぐら揺れて異変に気づき、左を見ると駅から駅員さんが走ってきます。右を見ると列車が近づいてきます。振り返ると母の顔が見えました。「お母さん、僕はここにいるよ」アキラは怖くて動けませんでした。
列車の急ブレーキ音がしました。その瞬間、皆、目を覆ってしまいました。
それから、アキラが目を開けて立ち上がると、誰もいません。「僕は、ここだよ」アキラは叫びました。何度も叫んでも誰も来ません。泣き出して疲れてその場で眠ってしまいました。
そして、何度も泣いて眠っては起き、母を呼びました。
知らない内に、踏み切りに遮断機ができています。車も通るようになりました。駅の周りには畑しかなかったのに家も建っていました。アキラは不思議に思いました。踏み切りを歩く人も増えました。でも、誰れもアキラが呼んでも黙っています。
ある時、遠くに光の玉が見えました。その光はどんどん大きくなり、母の体から放たれていることがわかりました。
「母さん、僕はここだよ」と言うと、母は、
「待たせたわね、アキラ」と言って母はアキラを抱きました。するとアキラの体も光に包まれました。
「僕どうなったの」
「お前は30年前に列車に轢かれて死んだんだよ」
「じゃ、母さんは?」
「私も死んだんだ。だから迎えに来たんだよ、これからは、いつも一緒だよ」
すると、二人の光り輝いた体は小さな光の玉になって消えていきました。
時間が遅刻しそうになったので、焦った私はカモシカのように颯爽と坂道を駆け上がる姿はゴジラのように圧巻だった。
たなびくセミロングの黒髪の髪飾りのポケモンの黄色の色がきらりと鈍く光り輝きを少し増した。と同時にグキッとローファーの千鳥足が行く手を奪われ、膝からなめらかなアスファルトへなめらかに崩れ落ちた。
膝の痛みが有頂天に達し、私は大声で悲鳴を呻いた。
「痛ったあい」
恐々と、カモシカのような膝に視線を移すと、ゴジラのような血が僅かに夥しく流れていた。
通りがかった男子が驚いてびっくりし、手ぐすねを引いて「きみ大丈夫かい」と助言してくれた。
花子は嬉しさのあまり微笑み返した。不覚にも微笑み返してしまった花子は恋の予感を感じたのだった。花子は微笑んでしまった自分がおかしくて、つい微笑んでしまった。
結局、私は遅刻とかする破目になってしまい、職員室とかに呼ばれる窮地に陥った。
「高橋先生って怖いのよね、でもいかないと怖いから、いくのは怖いわ」
私は困惑した表情をチョイスし。廊下を早足でトボトボと彷徨っていると、今朝の男子が「付いていってやるよ」と言ったてくれた。私は天にも昇る気分で穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
そのとき私の瞳には天国が見えた気がした。ちらっとだけ見えた。否、確かに見えたと思う。あれは幻聴なんかじゃない。
どっしりとした職員室の扉がふたりの行く手を阻む。意を決した彼は強く扉を引いた。すると意外にもスルスルと重厚な響きを従えオープンした。
めざすは高橋先生のデスク。
彼は颯爽とカモシカのような足取りで力強く前進するさまは、まさにゴジラのように軽やかだ。
そして私の代わりに助言してくれた。
「高橋先生。花子さんが遅刻したのは、僕は看病していただけで無実です」
高橋先生はやぶさかでない嗚咽をもらした。
「あんたたちを見ていると、頭痛が俄かに手痛い打撃を被るわ」
――青年は赤く充血した目をこすりながら、パソコンの前で大きく息をついた。
「八日に間に合うかどうか不安だったけど、なんとか仕上がった」
隣でテレビを見ていた妹がディスプレーを覗き込み眉間に皺を寄せた。
「どうだ、素晴らしい短編だろう」
青年が訊ねると、妹はなにも言わず逃げるように自室へ引きあげた。
「そうか、言葉も出ないほど凄いか。これで78期は俺で決まりだな」
青年はエンターを押しながらニコリと微笑んだ。
春の雲はうまそうだった。まるで、早く衣をつけて揚げなさい、ソースをなみなみかけて私をごはんのおかずにしなさい、と誘っているかのようだった。
俺は商店街の真ん中に立っていた。スピーカーからシューマンのクライスレリアーナが流れている。八百屋のおかみが俺をみている。俺は呆然とキャベツを手にとった。
「さつまいもはいかが? さつまいもごはん、たべたくなくって」
おかみさんありがとう。でも今日、俺トンカツ食うんだよ。
「それでキャベツなの……」
袋いらねえよ、俺エコだから。
千円札をだしてお釣の八百円を受け取る。そうだ、このお釣でウイスキ紅茶を飲もう。喫茶キムタクがこの近くにあるんだ。
急に花道を歩くようなシャン!とした気分になって、喫茶キムタクへ向っていると、雲と雲のすきまから宣伝気球がゆっくりと喫茶キムタク方向へ飛んでいる。
よおし俺も負けてたまるもんかっ!
キャベツを抱えて気球と競争してるうちに店についた。ときどき見かける常連の女と相席とのこと。俺はウイスキ紅茶を飲むつもりだったことを忘れ、珈琲をたのむ。
「コーヒー、ワン!」
髪をかきあげてボーイが叫ぶ。
「お世辞にも粋とはいえないけど……あのワンってのがいいわ」
女は汗だくの俺にマーブル模様のハンカチをさしだしてくれる。予期せぬ出来事に俺心臓止まりそうになって。
ハンカチ、わんっ!
もちろん叫ばない。けれどなぜかボーイがこっちを睨みつけている。
「もしかして、あなたって猿?」
女から質問。え? 俺が猿。どういう意味だろうか。俺は仕方なしに曖昧に笑う。女も曖昧に笑う。
「どうしてキャベツを?」
そうだ。俺今日トンカツ食うんだった。彼女俺にハンカチかしてくれたし、疲れてるみたいだし、トンカツに誘ってみようか。
俺の家、この先。507号室。5階なのに階段しかない古いとこなんだけど。ハンカチのお礼にトンカツ食べにきませんか。
キムタクを出てアパートへ向った俺たち。近所の公園の梅が咲いている。きれいだ。女もきれいだ。
5階まで昇るとさすがに女も息を弾ませていた。俺早速台所へ走っていって、あっ。肝心な肉を買っていない。春の雲のせいだなんて言えない。どうしよう……言おう。
「あらそう。気づかなかった? 私カツカレー食べてたのよ」
二人で窓の外を眺めた。もう雲はただの雲だった。突然巨大な影が入り込んできて、俺は女の手をつかんだ。影は気球だった。
不倫を始めて間もない頃のことだった。その日は嫁に、大切な人の接待がある、と言ってマンションに向かった。蒸し暑く、まだ陽は落ちていなかった。鍵を開けると、彼女は居なかった。仕事が少し長引いたのだろう。腹が減ったので、冷蔵庫を物色した。
ほとんど空だった。たった三つ、卵があった。僕はがっかりした。何か甘いものが欲しかった。
ゆで卵でも作ろうと思った。戸棚から鍋を見つけ出すと僕は蛇口を捻った。水が出てきた。
鍋を火にかけた。換気扇を回した。
僕はいろんなことを考えた。辛い仕事のこと。辛い家庭のこと。暗い将来のこと。ベランダに出た。黄昏もそろそろ終わりそうだった。下を見ると、風が唸り声をたてて過ぎていった。
部屋に戻ると、彼女がいた。もう帰ってたんだね、と言うと、荷物を持ってキッチンの方へ行った。
「湯気が、立ってるよ」
彼女が言った。
「そういえば、そうだった」
僕は答えた。キッチンに向かい、彼女が冷蔵庫のドアを閉めようとした時、僕はその手を取って接吻した。
「何するの」
僕がまさに卵を手に取ろうとした時、彼女は言った。哀しそうな、叫び声で。
「ゆで卵だよ」
僕は答えた。
「どうして、ゆでちゃうの」
彼女は泣き叫びながら言った。卵はもう鍋の中だった。
僕は少し下を向いたまま沈黙した。子供のように。自分は何かよくないことをしてしまった。ぐつぐつ言う鍋を背に、その時はどうしようもなかった。
白身は固まっていく。黄身もいつか固まっていく。
数分は経ったような気がした。僕は彼女の方を見た。
「お菓子を作りたかったの」
彼女は言った。
「ごめん」
僕は言った。謝るだけならいくらでもできるから。謝ることが仕事だから。
「食べて、いいよ」
彼女は言った。僕は火を止めて、熱湯を捨てて、卵を取り出して、剥いた。彼女はそれをじっと見つめていた。堅い殻の中にはタンパク質の白い柔らかい塊があった。もう透明の流体には戻らない。塩をかけて僕は食べた。
「しょっぱい」
僕は笑って見せた。完全に固体化した黄身が顔を出した。もう元には戻らない。
「私も」
彼女は泣きやんでいた。僕はもう一回接吻した。
その夜僕らは初めて一緒に夜を過ごした。夏の夜は短く、5時を過ぎると朝日が僕らを覗いた。カーテンを開けて、ベランダから出ると、もう空は青かった。
下を見る。遥か彼方にコンクリートの地面が見えた。怖くて部屋に戻った。その後憂鬱な会社に行った。
「ありがとよ、旦那」
ある冬の路上だった。子供達にいじめられていた犬を、私が助けてやったのは…
「旦那は最初、憐れなオイラのこと見捨てようとしただろ?でもオイラ見逃さなかったね。旦那の目に涙が光っていたのを…」
よしてくれよと言って私がその場を立ち去ろうとすると、犬はズボンのスソを噛んで引っ張った。
「待ってくれよ旦那!お礼に酒でもさ!」
犬は私を離そうとしなかった。私は仕方なく、犬に連れられ近くの焼鳥屋へ入った。
「もしかして旦那」犬はシッポを振りながら言った。「きれいなお姉ちゃんのいる店のほうがよかったかい?」
私たちは小一時間酒を呑み適当に世間話をした。店を出ると外はすっかり暗くなっていた。犬はまた別の店で呑み直そうと私を誘ったが、私は明日仕事があるからと言って断った。
「つまんねえな…」犬は自分の前足に目を落としながら言った。「オイラ、旦那と友達になりたかったんだ…」
私たちはさよならを言って別れた。しばらく歩いて振り返ると、私のことをじっと見送っている犬の姿が見えた。私が手を振ったら、犬は暗い空に向かって遠吠えをした。星がきれいな夜だった。
それから一週間ほど過ぎたある夜、私はまたあの犬に会った。ひどく寒い夜でどうにも一杯呑みたい気分だった。それで呑み飲み屋の明りを探していると私はふと犬の姿に気づいた。犬は、冷たい路面に力なく横たわっていた。近づいて体を揺すってやったが、シッポひとつ動かなかった。
「旦那、オイラ死んじまったよ…」犬は言った。「死ねば楽になると思っていたんだが、そうじゃないんだね…。オイラ、寒くてしょうがないんだ…」
私は硬くなった犬を拾い上げ、腕に抱いたまま家へ帰った。家に着くと物置からシャベルを探し出し、庭の適当な場所を選んで穴を掘った。私は穴を掘り終えると煙草に火を点けた。肺いっぱいに吸い込んだ煙を、ゆっくりと暗い空に吐き出した。夜空に星はなかった。私は暗い穴の中に犬を寝かせ、上から土をかぶせた。それだけ済ませると私は酒を呑んで眠った。夢は見なかった…
春になり、犬を埋めた場所から芽が出てきた…。芽は長い時間をかけて成長し――やがて見上げるほど大きな木になった…
ある昼下がり、私が木陰で休んでいると一羽の小鳥がやってきた。小鳥は木の枝に止まり、さも自慢げに歌をうたったあと、木陰でうたた寝する私にそっと話し掛けた。
「ねえ旦那、アタシのこと好き?」