# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | ラン・ホース・ライト | アンデッド | 515 |
2 | 人間観察 | のい | 681 |
3 | 一滴の救い | 葉っぱ | 835 |
4 | 『時を忘れた時計屋の話』 | 石川楡井 | 898 |
5 | 明るい | もてあまし | 339 |
6 | Bライン | 蒼ノ下雷太郎 | 815 |
7 | 紺色のマフラー | テツヤ | 859 |
8 | 水分茶屋 中川口物語-暮六つ | 東 裕次郎 | 982 |
9 | 道 | 笹舟 | 263 |
10 | 尋問 | 群青 | 489 |
11 | ある雨の日 | 水瑚 | 257 |
12 | 観光地異聞 | 山麓 | 997 |
13 | お茶っ葉な女の子 | ひろ | 1000 |
14 | ひとり暮らし(She is a university student) | 腹心 | 949 |
15 | 若き兵器の悩み | さいたま わたる | 1000 |
16 | 続く | 鼻 | 449 |
17 | 叶わない願い | 黒田皐月 | 1000 |
18 | サードラブ | 詩織 | 1000 |
19 | 傾斜 | K | 930 |
20 | (削除されました) | - | 442 |
21 | 二世帯住宅 | 中村 明 | 970 |
22 | 蒸しまんと粥 | クマの子 | 1000 |
23 | 梅に猿 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
24 | 変態 | シミズヒカリ | 999 |
25 | 空間 | ei | 990 |
26 | 嫌 | わら | 1000 |
27 | ホーム・ホーム・ホームレス | 暮林琴里 | 1000 |
28 | R | fengshuang | 718 |
29 | フォークロア | えぬじぃ | 1000 |
30 | 金子口輪社 | qbc | 1000 |
31 | 青空(空白) | euReka | 989 |
32 | とある二月の昼下り | 三毛猫 澪 | 1000 |
薄暗い路地の中、中年の男が伏し目がちでヨロヨロと立ち上がる。
突然降り懸かった恐怖に、男はその身を震わせていた。
体中から脂汗が吹き出し、流れる。口の中も、みるみる乾いていく。
足がもつれてバランスを崩し、またその場に倒れ込んだ。
男は思った。まるで生きた心地がしない。
普段はよく耳にする何気ない雑音も、今の男の思考回路には全く届いていない。
代わりに男の頭の中にあるのは、死に繋がるという発想。不吉な感覚が様々な連想を生み、不安と一緒に男の身体を駆け巡った。
こういう時、人はよく走馬灯のように過去の出来事が頭をよぎると言うが、男の頭をよぎったのは、何もない真っ暗闇だけだった。
そんな悪夢のような自分の人生を、男は誰よりも呪う。
だがその時、絶望の中に一筋の光明が差し込んだ。
落とした愛用の杖を、男はやっと見つけることが出来たのだ。
何よりも大事な杖を、男は愛おしそうに撫でた。
そして杖を器用に使うと、フラフラとした調子で暗い路地から抜け出していく。
そうして通りに出て明るい街灯の下に辿り着くと、男はその顔を上げた。
今も昔も男の盲目の眼には何も映ることはなかったが、その時だけは街灯の明かりが爛々と映り込んでいた。
ハイヒールでケツがでかい気取った女
頭も服も靴も、ボロボロなのに、姿勢だけ無駄にいい男
ケータイ依存症の化粧が濃い、女子高生
それについてくライオンみたいな頭の男子高生
ピーチクパーチク騒ぐ、彼氏居なさそうな、ブスな中学生
男も女も関係なく走りまわっている小学生。
俺はベンチに座って、そうやって心の中で毒をはく、まったくもって臆病者である
それでもいい、臆病者でも生きていけるのだから
俺は空を見上げ、歌った「てーのひらを太陽にすかしてみーれーばーまーっかに流れるぼくのちしおー」
なんだか無性に歌いたくなったのだ、女子高生が変な顔して俺を見た後、公園の中を通るのを断念していた
「ははっ」
俺は笑った
ニコニコとして、頭をカクンカクン揺らしながらまだ少年と呼ぶには、早い男の子が、俺に駆け寄る
「おとーしゃん、ちょーちょ」
そういって息子が手を開くと蝶々が顔を出す
「ん、すごいな」
「へへへー」
俺はちょっとした好奇心で、嬉しそうに笑う息子の目の前で、蝶々の羽を毟った、息子はどんな反応をするだろう
泣くだろうか
笑うだろうか
怒るだろうか
羽はあと一枚、触角を毟る、足を毟る、そのたびに息子の目が濁っていく
そんな気が俺にはした
全てをばらばらにした後ベンチへと、蝶々を並べた、最初蝶々の体はウニョウニョと動いていたがしばらくして、動かなくなった。
「しんだ?」
「死んだ」
俺と息子の会話はこれ以上ないと思い、俺は立ち上がった
だが息子は濁った目で俺を見て「ボロボロちょーちょ汚い…ね」
俺はこのとき、息子を一人の人間として観察したいと思った
この子の目がこれから、どんなふうに濁っていくのかを見たいと思った。
それはお母様のためなのよ。わたくしが、お屋敷の奥座敷でお兄様と、あられもなく絡みあい、抱き合うのを見せたのは。
あとでわたくしの房(へや)にいらして。お母様にそう告げておいたの。お兄様がわたしと、たいそう、むつまじいころを見はからって。
うすぐらい奥座敷には、あまい汗の匂いと、微熱に満ちていたわ。お兄様はわたくしのとりこ。わたしくのすべてを、吸い取り、奪い去り、支配しようと切望し、それが適わぬことに焦れている、かわいそうな獣なの。
天は咎めはしないでしょう。連れ子の兄など、あかの他人。うつくしい女を前にして、恋こがれるただの男。いじらしくも可愛らしい、途方もなく哀しい、あわれな男よ。
わたくしは十五。花の盛りに咲き誇る。だれもがわたくしに憧れる。母がくれたこのかんばせに、だれもが心を奪われるのよ。そう、だれもかれもがわたしくしを……。
「胎(はら)の子は、お兄様のこどもなの」
わたくしにのしかかり、青ざめるお兄様とうってかわり、組み敷かれたわたくしは、あお向けのまま、乳房も髪も散らしつつ、むしろ涼やかに微笑んだ。
ねえお母様、その目で見て、やっと信じてくださったでしょう。
青ざめているあなたは、まるでこの世の不幸をすべてみたようだわ。わたしくの、いやしい姿に絶望したの? 禁忌に触れたつもりでいるの? でも、逃げ道はあるものね。それでも血など繋がってないと。自分は決して奪われていないと。
わたくしは産むつもりよ。手遅れになるまで、隠していたもの。だって愛しんでいるの。お義父(とう)さまのことを。彼もまた、ただの男よ。お母様の疑いのとおりにね。
だから見開かれたその目は、暗い驚きに沈んでいても、その奥に、深い安堵があるのでしょう。
かわいそうなお兄様、はわたくしの上で血の気をうしない、心を飛ばしている。
かりそめの共寝すら、あのひとの影を必要とするわたくしには、その影すらもいとしくて。死人(しびと)のようなその体を、つつみこむように抱きしめた。
柱時計の鐘が12回だけ鳴り響く。
時計屋の腕時計は11時を差していた。
ため息をつき、時計屋は、修理道具を携え、立ち上がる。
古ぼけた柱時計の姿がそこにあった。
木枠、文字盤、真鍮の振子、くすんだ硝子戸、無駄な装飾。
柱時計の前にしゃがみ込んだ時計屋は、年季の入った柱時計のその佇みに、時間の果ての恋人を思い出す。
君のいうとおりだったよ。
時計屋は、ようやく自らを縛る時間の鎖の存在に気付いたのだ。
そう、恋人が散々口説いていたにも関わらず。
だが、今となってはどうすることもできない。この独りには広すぎる静かな屋敷の、広間で、誰かの面影を何処かに感じながら、時計屋は時計の鐘を聞いている。
この時計には時間が詰まっている。かつて、誰かが生きた時間が。
予定調和を崩さないためには、壊れてしまった時計を直さなければならない。
時計屋は、道具を拾い、時計に手を当てる。
指先から時間の稲妻。恋人の声と耳鳴り。
“時間に囚われないで”
一瞬の煌めき。
衝撃に道具を落としてしまう。時計屋の目の前で、時計は輝き震える。腕を伸ばし、時計屋は静かに近付く。
一瞬の煌めき。
“時間に囚われないで”
指先から時間の稲妻。恋人の声と耳鳴り。
時計屋は、道具を拾い、時計に手を当てる。
予定調和を崩さないためには、壊れてしまった時計を直さなければならない。
この時計には時間が詰まっている。かつて、誰かが生きた時間が。
だが、今となってはどうすることもできない。この独りには広すぎる静かな屋敷の、広間で、誰かの面影を何処かに感じながら、時計屋は時計の鐘を聞いている。
そう、恋人が散々口説いていたにも関わらず。
時計屋は、ようやく自らを縛る時間の鎖の存在に気付いたのだ。
君のいうとおりだったよ。
柱時計の前にしゃがみ込んだ時計屋は、年季の入った柱時計のその佇みに、時間の果ての恋人を思い出す。
木枠、文字盤、真鍮の振子、くすんだ硝子戸、無駄な装飾。
古ぼけた柱時計の姿がそこにあった。
ため息をつき、時計屋は、修理道具を携え、立ち上がる。
時計屋の腕時計は12時を差していた。
柱時計の鐘が11回だけ鳴り響く。
ジジジ・・・真夜中の公園ではタバコに火を点ける音までが聞こえる。さっき読んだ漫画のせいかこの季節のせいかは分からないが、なんとなく外にでて白い息を吐きたくなった。
今、僕は公園のベンチに一人腰掛けている。何も考えることがない、悩みがない。あ〜それが今の悩みかと思うと、そんなことを考えている自分に矛盾を感じてせっかく吸った煙を苦笑いと一緒に吐き出してしまった。僕が吐きたかった白い息はこれとは違うんだが、まぁいいか。
時々通る自転車の音に少し耳を傾けて、遠ざかる度にちょっと寂しくなる。雲の一部になった一本文の白い息を見上げて、深くため息。さぁ帰ろう。そろそろ体も冷えてきた。・・
帰り道でふと思い出して笑った。さっきのはいいため息だったなぁ、家に着く頃にはアイツも雲になってるかな。
雲という鳥籠に抑えられながらも、わずかな隙間から零れた陽射しを、僕はキレイだと感じた。
だけど、これを友達に言ったら、びみょうな顔をされた。
「そんなに、すごいか?」
僕は無意味に長く説明したのが問題だったのか。それとも、まるで何々だ、まるで何々だと比喩を使いすぎたのが原因だったのか。
ともかく、彼にはあのキレイを理解してもらえなかった。
美しさは、いつだって共感されるものじゃない。
アリが一列になって巣に帰る姿を、僕はきらいじゃない。
みんながいっしょに一生懸命になってるからだろうか。それとも、こんなに大勢いても帰る場所は一つだというのがよかったのか。
これをうまく言語化するのは僕には出来ない。小説家みたいな言い回しが出来れば、もしかしたら、誰かと僕も、美しさを共感出来るのだろうか。
だけど、僕には今はそれがなく、何度僕が美しい、キレイ、かっこいい、すばらしい、などと言っても、誰にも共感されない。
雲一つない冬の空よりも、僕は雲がいっぱいある夏の空が好きだ。
様々な形をした雲を見られるからか、青空の中を自由自在に姿を変えて自由奔放に動き回す雲に、自由を見つけたのか。
これもまた僕は、うまく言葉に出来ないけど、好きだったんだ。これも、僕があまりに大げさだったのか。苦笑いされて終わったけど。
家に帰る道の途中で、僕はとあるサラリーマンのおじさんを見掛けた。
頭は失礼だけどハゲていた。後ろの方が少し残っているだけで、後はほとんど死んでいた。
細い体をしていた。まるで、つまようじで出来ているみたいだった。
仕事帰りのようで、疲労で今にも倒れそうな顔で道を歩いていた。
その姿を、何故か僕はかっこいいと思った。
友達にその話をしたら、ありえない、バカか、と散々言われた。また、共感されなかった。
髪がうすくなっても、非常にやせていても、それでもがんばって働いてきた人の姿を、何故かみんなは、かっこいいと言わなかった。
今日も聞き飽きた洋楽がスピーカーから鳴り響き、いつものように目が覚める。
カーテンを開けると、「うわっ・・・。」一面眩しいほどの銀世界に驚いた。今年初めての大雪だ。雪は今もしんしんと降り続いている。
銀世界の眩しさに目が覚めると同時に、少年の日の苦い思い出が僕のなかで勝手に再生される・・・。
中学2年の冬、僕は遠くの学校に転校することになった。
女子のなかで一番仲のよかったハルコとは小学校時代からの同級生で、登下校のバスも同じだった。いつもくだらないことをだらだらと話しては大笑いしていたバカな仲だった。別に付き合ってるとかいうわけでもなし、だけど2人はいつも一緒だった。ハルコと冗談を言い合ってる時が楽しくてしょうがなかった。
転校前の最後の日が来た。朝、僕は何となくいつものバスには乗らずに、一つ早い時刻のバスに乗った。その日はハルコと学校で会っても一言も話さなかった。
学校が終わって、クラスのみんなとのお別れもした。校門を出て、ちょっと離れた場所でハルコが僕をずいぶん小さな声で呼んでいた。気が付くと辺りには雪がちらほらと舞い降りていた。
ハルコが恥ずかしそうに差し出したのは、紺色の手編みのマフラーだった。僕の顔は、にわかに真っ赤になった。僕は慌てて「バカヤロー!もうお前とは会わないからな!」って言ってマフラーを無造作に受け取ると、いつものバスにも乗らず、帰り道とは全く逆のほうへと駆け出していた。だけどすぐに息が切れたので、しばらく宛てもなく歩き続けた。
今日はこの冬一番の寒さみたい・・・鼻水が垂れてきた。降り続く雪のかたまりの一つ一つが、さっきよりも大きくなっていた。
途中で公園があった。屋根つきのベンチに腰を降ろして、ハルコのマフラーを首に巻いた。僕はそのとき生まれて初めてマフラーというものを身に着けてみた。
「すげぇ、あったかいな・・・。」
何だかわからないけど、涙がでてきた。
僕は誰にも見られないように、上を向いて涙をそっと乾かした。
雪はまだ、しんしんと降り続いていた・・・。
「逢魔が時をご存知か」
その客は突然主の籐衛門に聞いた
「はい、大禍時とも申します。夕暮れ時まだ明るさが残っておりますのに
町に人影がふっと消えて後ろから足音がひたひたと近づいて、」
「そうその事だ。一昨日実際にあった」
中川口の水分茶屋の縁台には他に二人づれの客がいたが茶を飲み終えている
外は木枯らしが吹き暮六つにはまだ暫くだったが客が引けたら早仕舞いしようと籐衛門は考えかたづけ物をしていた
「此処においておくぜ」
二人づれの客は茶代を置き立ち上がった。
「ちぇっ。夏でもないのに幽霊話かよけいに寒くなっちまう」
店を出ながら話す声がきこえた
「お客様、逢魔が時に逢いましたか」
「そうだ。ちょうど二日前、猿江町の材木置き場のあたりだった
気がつくと昼間の風がぴたりとやんでいて大川の方へ陽が沈んでゆくのを眺めながら
大横川に沿って歩いていると後ろから足音が聞こえた
他に人が歩いているのが当たり前だが、なんとなく気になって振り返ると誰もいない
前をむいても誰もいない妙に静かな中に自分独りだけが其処にいるのに気がついた」
「むじなに騙されましたなそれとも河童でしょうか。本所には昔から河童の話も
ございます。深川や本所には川が行く筋も流れそんな話を聞いたことも何度か」
「よしてくれ。思い出しても背筋が寒くなる」
「申し訳ございません。お詫びに熱燗と漬物などはいかがですか。
いえいえ、もちろん御代はいただきません。さ、どうぞ」
「その胡瓜の漬物は夏のあいだに漬けておいたもの。古漬ですが酒にも飯にもよく合います」
「ん、旨い。酒も上等だな。ところで主、今何時かな」
「はいぼちぼち酉の刻かと」
「そうか、ん、旨いうまい」
「喜んでいただけたら嬉しゅうございます。ちょうど油揚げもございます
炭火で炙って醤油を垂らすとこれも酒と飯にぴったりです」
「これも好い味だな。酒をもう一本くれぬか。なに、金ならある。馳走になるだけでは
申し訳ない。少し金を使わせてくれ」
「お気使いには及びませんが、酒がお気に召したのならいくらでもお出しいたします」
「ただちょっと、」
籐衛門は言いよどんだ
「もうじき暮六つ。陽もくれます。提燈の用意をいたしましょう」と
店の奥へ行き、襖の陰から客を見ていた
その客は、酔っ払った手つきで、腹巻から枯葉を出し、
「提燈はいらん。金は此処に置くぞ」とどなっている
籐衛門は笑いをかみ殺しながら眺めていた。
一人、進むこの道を俺はなんと呼ぶのか知らない。一人、進むこの先に何も無いのは知っている。その道にいつしか、一人、俺と共に歩む影が増え、また、一人。そしてまた一人。いつしか、俺の周りに人は集まって。俺は後ろを振り向きながら歩いていた。
前見てなきゃ、転んじゃうよと言われたが、大丈夫。前に崖があるのなら、君たちが教えてくれるだろう?俺が転んでしまったら立たせに来てくれるだろう?自意識過剰だなんて言わないで。
俺はそう、信じているんだ。皆で、進むこの道を俺はなんと呼ぶのか知らない。でも、皆で進むこの先に、何かがあるのは知っている。
「貴方、マンホールとツクツクボーシではどちらが好き?」
やっぱり変だ。こんなの。
「マンホールです」
「へえ、変ってるわねえ」
どう考えてもこっちのセリフだ。
「じゃ、18割る5は?」
なんなんだ。
「3.6」
「17×9」
「……153」
「じゃあ、11と2ではどちらに意味を感じる?」
ああ、くそ。
「11にはかなり作為的なものを感じます」
「だよねぇ」
畜生。なにがだよねぇ、だ。一体全体なんだってんだ。
「それで、昨日は流れ星を見たの?それとも晩御飯が鍋だったのかしら?」
……。
「流れ星なんて見てないし、昨日の夕飯はカレーでした」
「あら残念。じゃあ貴方、童貞なの?それとも、処女?」
ふざけてる。やっぱり、ふざけている。
「童貞じゃありません」
「ふうん」
「あの、もういいですか」
「いえ、まだまだ質問は残ってます」
彼女はそう言うと、B5サイズの資料のようなものを抱えて持ってきた。ざっと見ただけでも千枚はくだらない。
俺は、文句を言いたくても、悪態を付きたくてもなぜか口から出ない言葉に悶々としながらこの質問に答えていかなければならないと悟った時、
いっそ殺して欲しいと思った。
「次の質問ね」
彼女は口を開いた。
それは、ある雨の日。
下校中のバスの中。
もしかして、ここは終点・・・?いや、違う。
他にお客さんもいれば、バスもまだ走り続けている。
なのに、何かが違う。私を、錯覚させる何かがある・・・。
多分、それは窓ガラス。
外で降り続く雨のせいで窓ガラスは曇っている。
外が見えない。バスの中はひんやりとしていて、音がない。
この窓ガラスが、私を錯覚させるのだろう。
―窓ってこんなに大きかったっけ?
思わず呟いてみる。いつもより断然バスの中が広い。
というより、私が小さい。
気がつくと、そこはいつもの私が下車するバス停。
雨も上がり始めていた。
山では雌猿たちが、雄猿たちに向かって、こんなことを言うようになった。
「私もあれが欲しいわ」
あれとは、人間の女がしている指輪のことである。ある雄猿が、人間の女の手からクッキーを奪い取ったことがあった。そのとき彼女のしていた指輪が外れて、地面に落ちた。雄猿は、
「何だこんなもの」
とまったく相手にしなかったが、眺めているうちに光りだしたので、猿の彼女にやったら喜ぶかもしれないと、持って帰った。
猿の彼女は、その指輪を、撫で擦ってみたり、舐めてみたり、鼻の穴に入れてみたりしていたが、指に填めてみると一番しっくりしたので、そのまま填めていた。
それを見た雌の猿たちが、羨ましがって、自分の彼氏に頼んだ。
「私にもあれを取ってきて。それまでは婚約しないから」
こう言われたのは、一匹、この彼氏猿だけではない。指輪をした雌猿が、仲間に自慢して見せるものだから、猿の間中に知れ渡ってしまったのである。
雄猿たちは山を下り、観光客の多く集まるところに出没するようになった。
はじめ何を目的に狙われるのか、分からなかったが、被害に遭うのが女だけで、食べ物を手にしていても、狙われない女もいたりして、情勢の分析に時間がかかった。
猿の好奇心からであろうということになったが、森林監視員の一人がたまたま山で、指輪をしている猿を見かけて大騒ぎになった。
地元の観光協会では対策会議が持たれ、次のようなチラシを配って注意を呼びかけた。
当地を旅行される方へのお願い
女性の観光客が猿に指輪を取られるという被害が増えております。当地へ入られましたら、指輪をはずして、猿の見えないところに隠してしまわれますよう、お願い致します。
それでは指が淋しくてならないという方は、猿に取られても、それほど惜しくない、ニセの指輪を填められますよう、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
これも猿に本物志向が芽生えてくれば、時間の問題ということになるだろう。早くも指輪に見切りをつけて、ネックレスやイヤリングを物色しはじめたきらいがある。帰ってみると、それらが紛失していた、という情報が寄せられている。
ところがそれから一週間もしないうちに、
次のような怪奇事件にまで発展してしまったのである。
道端に、首をもぎ取られた婦人の遺体が転がっていた。愛する雌猿に与えるネックレス欲しさに、どうしてもそこで噛み切るしかなかったのであろう。
「僕は、ドキッとする」
新製品の緑茶のティーバッグには、『かわいい女の子』というラベルが貼ってあった。
お茶を飲もう。
ティーバッグの袋を千切ると、中に小さな女の子が丸まって寝ていた。小指程の身長。
なぜか、女子高生の制服を着ている。
指に挟んだ袋の中で、彼女と僕の目が合った。
「こんにちは。初めまして」
かわいらしい可憐な声。くりっとした大きな瞳。ハタハタと長いまつ毛。
長い黒髪と、少しだけ短いスカートから出た長い足。白いブラウスが清楚を醸し出す。
彼女は、ティーバッグの切れた口からちょこんと小さな頭を出して言う。
「お茶の時間……?じゃ。早く下ろして……」
僕は、彼女をテーブルに降ろす。彼女は、ちょこちょこと歩いて、僕が用意しておいた湯のみに向かった。
彼女は、湯のみの中にちょっと手を入れて、湯加減をみる。うん……。と彼女は小さく頷いて。
彼女は、制服を脱ぎはじめた。
僕は、ドキッとして目線をずらす。でも、ちょっと横目で見たい。恥じらい、隠す隙間から見えるスタイルの良い体のライン。
一瞬胸元へ視線を向けて、外す。意外と大きな膨らみ。
彼女は、服を全部脱ぎ終わると、ちゃぽんと湯のみの熱い湯の中に、体を入れる。
息を吐き出すように言った。
「くう〜。あっっ熱い〜」
彼女は、身を縮めるようにして熱さに耐える。白い透明な肌が、淡く赤く染まっていく。
「あなたは……。彼女は、居るの?」
彼女は、熱さに耐えながら、僕に話し掛けてきた。彼女の体の周辺のお湯が、緑色にじんわりと染まり始めた。
「うん。そうだね。気になっている女の子は居るんだけど……」
僕は、彼女と恋愛の話しをした。学校のことは、勉強のこと。男友達のことや親のこと。短い時間の中で、色々な話をした。
やさしい微笑みの彼女に、僕はとっても素直になれた。
とっても聞き上手で、親身になって僕の話を聞いてくれる。かわいい女の子に優しくされたのなんて初めてだ。
僕は、彼女に恋をした。
「……」
急に静かになった彼女。それまで直視できなかった裸の彼女を見る。両手をダラリ。彼女は、ぐったりとして湯のみの口の所で伏せっていた。
僕は、彼女の身体を見る。
彼女の身体と皮膚は、しわしわに涸れ果てて、お婆ちゃんになっていた。
僕は、動かなくなった彼女を濃い緑色のお湯から、引き上げる。
僕は、彼女をゴミ箱に捨てた。
「あ〜美味い。やっぱり食事の後は、緑茶に限る」僕は、湯のみのお茶をすすった。
おわり
はぁ、と一つため息をついて、割らないように気を付けながら食器をステンレスのシンクに重ねて置いた。冷静と情熱の間から伸びている蛇口から出る水が適温になるのを待つ間に、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。そのうちに食器に溜まる水が白く濁って湯気がうっすらと立ち始めて、それからお皿を洗って水滴を拭き取り終わるまで、私はずっと彼の事を考えていた。
「ユウキはまじめだなぁ」
「人がせっかく真面目に相談してるのにさぁ」
「ほら自分でも言ってる」
「んむ……」
「ひひ、でもそこがユウキのいいとこだもんね」
中学時代からの友人のトモコに相談してみたけど、他の人はそんな深く考えてないとかユウキは固すぎるとか嫌なら無視しちゃえばいいとか、私がマイノリティな事が判明しただけで、結局は自分がしたいようにするしかないというゴールなのかスタートなのかよく分からない結論に達した。その後、小さな声で、でもこういう事は一度許すと後はズルズルだからねー、と呟いたトモコの横顔がとても大人っぽく見えて、少し寂しい気持ちになる。トモコは昔から自分の話をあまりしたがらない。けどその時はトモコ自身の事を言ってるんだなって何となく分かって、私は何も言わなかった。
コーヒーは味も香りもしなかった。挽く豆の分量を間違えたのだろうか。視線だけを右斜め上に向け時間を確認する。さっき時計を見てから2分も経っていやしない。約束らしい約束もしていないのに彼を待ってしまっている自分に気づいて、今日何度目になるか分からないため息をついた。それと同時にインターホンが鳴り、心臓がどくんと跳ね上がる。モニターに彼の姿が映る。心臓がどくんどくんと飛び回る。彼はいつもと同じ格好で同じセリフを口にする。声が出しづらくて咳き込みそうになるのをこらえて、短く返事をした後玄関に向かった。
私はいったいどうしたいのだろう。
彼を受け入れるのは正しい事なのだろうか。分からない。
チェーンロックを外してドアノブを捻る。音が響いた。
わたしには、おとなになるということが、わからない。
ドアをゆっくり開ける。笑顔が見えた。交錯する。
彼の瞳の中で、私は彼の言葉を待っていた。
一つ息を吸いこんで、彼は言った。
「NHKなんですけど、1月分だけでもいいので……」
海が割れ、新しい大陸が現れる。
私は、旧世界の兵器として誕生した。新大陸を破壊するための存在。破壊と同時に私の命も尽きる運命。しかしこうして倉庫に眠ったままでは、価値を持たぬただのガラクタ。そんな私の元へ定期的に検査に訪れる開発者は、私の肩に手を置き、そしていつも涙ぐむ。
「お前を発動させ敵を壊滅するのが正しいのか、いやいっそ欠陥プログラムを組んで攻撃を失敗させるのがヒトとしての道か。だめだだめだそれでは心血を注いで開発したお前に対して申し訳がたたないか」
私に彼をなぐさめる術はない。所詮私は彼の意識内の産物にすぎず、彼の考えうるそれ以上の言葉など思い浮かぶべくもない。涙を流しその場に立ち尽くす彼に、それでも、声を掛けなければならぬ、それもまた我が宿命だ。
「気に病むことなんて、なにもありませんよ」
勉めて明るく、できうるだけ能天気な声であとを続ける。
「人の噂も七十五日。百年経てば今いる人たちも皆死に絶え、千年もすれば誰ひとりとしてあなたのことを思い出せず、一万年で歴史すら風化しますよ。そして」
「そのうち人類が滅び、四十億年後には地球さえ存在しない」
彼は言葉尻を奪うと、私の背中をポンポンと二度叩いた。頬を紅潮させ少し怒ったような表情をしつつ、「バカだな」と付け足して去っていく。
ひとたびこの世に生を受けたからには、自らのヤクワリを遂げるのが兵器としての本懐だ――と言い切れるほどの信念は、残念ながら今の私にはない。死にたくはない。いずれ死ぬのは分かっているが、それでも死にたくはない。とはいっても、発動の命が下れば、それを拒絶することなどいっさい不可能なのだが。せめてそれが眠っているときなら、朦朧とした意識のなか、開発者の表情を想像しながら、ヤクワリを果たせるのだけどな。逆に命令がないまま、この倉庫内で赤茶けた錆びの餌となり、全身孔だらけのズタボロ姿となって、私に期待を寄せた旧世界のヒトたちに忘れ去られ、開発者も死に、私だけがこの世に残されるその寂しさというのは、死ぬよりもコワイことなのかな。死後の称賛と無用の長物、もしも願いが叶うなら――
翌朝、目覚めると同時にモニターが光り、私の顔を照らす。
「今日は、皆で乾杯だ」
私のために集まった人々のにこやかな顔。私の腹に充填されるお祝いのワイン。モニターの隅にはちらりと開発者の姿。
新大陸は消滅し、旧世界のヘイワがよみがえる。
これはもう、すでに日課となっている。
毎日毎日、自分の左手首を睨みつけては、ため息だか深呼吸だかわからないものを吐き出しているのだ。ただでさえ、こんなにひ弱でなまっちろい肌をしているのに、普段あまり日に当たることのない内手首なんて、全身の皮膚の中でも相当薄っぺらいだろう。そんなところにこのカッターナイフなどが触れようものなら、その傷をきっかけに手首が自らの重みで裂けて、ずるっと落ちてしまいそうだ。そんなことを考えながら、いつものように、暗く埃臭い音楽準備室でひとり脂汗をかいている。
真っ黒いカーテンの向こうでは、聞き覚えのある男子たちの声が弾んでいる。そのカーテンの隙間からは、夏の強い光の筋がいくつも突き出していて、無数の埃がその光の中をキラキラと舞っていた。それをぼうっと眺めながら「もう少し生きてみようか」などと脈絡のない結論が頭をよぎったところで、チャイムが鳴る。教室に戻り、5時限目の授業を受けて、帰宅、テレビを見ながら夕食をとり、風呂に入って寝る。
ベッドの中で、明日こそは、と胸に誓う
「ねえ。良かったら今日、明日でも良いんだけど、一緒に食事しない?」
繁忙期の残務処理がようやく終わった頃、主任から声をかけられた。おかしい、と私は直感した。しかし独身女の性癖か、その直感を顧みることなく私はその申し出を受け、いそいそと帰り支度を始めた。
「良いんですか?」
ずっと一緒の部署で仕事をしてきて形式張ったことなど意味を成さない間柄のはずなのに、私が主任の家族に遠慮を示したのは、直感の名残だっただろうか。何かの折に一度だけ会った顔立ちのはっきりした奥さんと主任の間には、ふたりの娘さんがいる。確か下の娘さんもそろそろ中学生になる年頃のはずだ。
主任の返事はあいまいだった。その上、主任から私を誘ってくれたのに、主任はあまり私に話もせずにコーヒーのお替りばかりしていた。これは調子が悪いときの主任の癖だ。いつもの主任がやや強引で見るのも嫌になることさえあるだけに、こうなるとかえって見ていられない。これが直感の教えたことだったかと合点して、ここが出番と私は口火を切った。
「お家の方は、良いんですか?」
「良いんだ。帰っても、居場所がないし」
主任のため息に、言葉が混ざっていた。カップのコーヒーを空けてまたお替りして、また何度もため息をついた。娘が父親を避ける年頃になってきて家族の中で男一人だけで孤独だと、ため息の中で主任はつぶやいた。
重ねられるため息の重さに時間さえもその流れを妨げられたかのようだったが、それでもいつしか時間は過ぎ、そろそろ帰宅の心配をするべき頃になって、ようやく主任は重い腰を上げた。
「また、一緒に食事してくれるかな?」
「主任……」
自分が認める人に認められることは幸福だ。私だってそんな幸福が欲しいと強く思う。だけど……私の直感はさっきと同じく、危ういものを感じていた。目の前に幸福があるのに、さっきは的中したこの直感が身をよじるほどにいやらしくて憎らしくて煩わしかった。乾いた雑巾をしぼるような思いをしてやっと、私は次の声を出すに至った。
「駄目です。それでも主任はお家に帰ってください」
「そうか」
見るからに肩を落として、主任は私に背を向けた。その後姿に手を伸ばそうとして、私は理由もなく知った。この手が主任に触れれば、私が主任を駄目にしてしまう。幸福をこの手で壊してしまうことになる。私は幸福を手にすることはできないのか。伸ばそうとした手は力を失い、脇へ落ちた。
ファーストラブは初恋。セカンドラブは結婚に発展した恋。そして、サードラブは結婚して何年も年を重ねた後に夫婦が再びお互いを意識し合う恋愛。テレビで誰かがこんなことを言っていた。もしそうなれたら良いなあと漠然と思った。
私とお父さんは大学の同級生で、20数年前に大恋愛で結婚した。お父さんは今よりも体重が15キロは軽く、がっしりした体つきでハンサムでとても素敵だった。なのに、今はもうすっかり中年おじさん。勿論、私だってお父さんのことは言えない。結婚して3人の子どもを産む間に体重は10キロ増えた。
でも、私だってまだ40代だ。テレビにあやかってサードラブでもしてみたい。太った体と、化粧っ気のない顔、昔ほど気を使わなくなった服装、この所帯染みた雰囲気から脱出したいと思った。
私はお父さんにケータイメールを送ってサードラブ宣言をした。口で言うのはあまりにも恥ずかしいと思ったのだ。
『私たちこれからもう一回恋愛したい。昔みたいに』
『馬鹿が』
しかし、お父さんの返事はつれないものだった。
まずは名前の呼び方を変えてみようと思った。子どもたちに合わせてお父さん、お母さんなどとお互いのことを呼ぶことが間違っている。
『私たち、前みたいに洋平、美加子って呼ぶようにしたい』
『馬鹿が』
相変わらずつれない返事だったけれど、私は私の思うままに決行した。
それからと言うもの、いつも昔のあの大恋愛の頃の2人をイメージした。身だしなみに気を使って、毎朝ちゃんと化粧をし、ダイエットも始めた。洋平の服は毎朝、私が決めた。朝晩、洋平にちゃんとねぎらいの言葉をかけた。
日に日に、洋平が素敵に見えて来た。
そして、サードラブ宣言から3か月。
急に洋平からケータイメールが届いた。
『美加子。今夜、銀座のラ・ヴィラにでも行かないか。子どもたちはほって来い。7時』
ラ・ヴィラってまだあったんだと思った。洋平が大昔プロポーズしてくれたフレンチレストラン。思い出す、あの時のことを。
洋平と久しぶりのデータだ。どうしよう? 何着て行こう? 美容室に行った方がいいかな? 心がうきうきしていた。
ラ・ヴィラに行くと、洋平から白い小さな箱を渡された。中身はダイヤのリング。結婚して洋平からもらう初めてのプレゼントだった。
「今日は俺たちの25回目の結婚記念日だろ?」
涙が溢れた。
すっかり忘れていた。
洋平のことを愛していると思った。
どこかがひん曲がっているのか、捻じれているのか、しかしそうではなくきっとさいしょから傾いている。
こまかな格子縞に縁取られた、巨大な、それはもう巨大な図表用紙に俯瞰される一つの小さな点は、まるで夕闇のおしせまった空に霞みながらあらわれるひとつの星のように、それがどこに位置づけられるのかは判然としないが、しかし間違いなくあるのだと、そのような按配にことが運んでいればよかった。
その場にあっては、もはや動くことも、眺めることも、思うこともなく、ただ漫然と点であることができたのかもしれない。
だが、いまあらわれるそれは既に傾きをもっていた。
それは眠っていたのだろうか――目は瞑っていたのだろうか――眠っていたとすればおそらく身を横たえているだろうか。
瞼を開くと、拡がる巨大な空か、茶色く染みのついたいまにもにおい立ちそうな天井か、茂った葉かが見え、つぎにそれはどうするだろう。
ひと息を吐き出して気を落ち着けるか、すぐさまに上体を起こし周囲をみわたすか、あるいはふたたび目を閉じ黙想にふけるのか。
枝葉はその都度分岐し延び続ける――生まれたそのときから傾きをその身に抱え込んだそれは、歩き出せばもう一点に留まることなどかなわずにごろごろと転がっていく。
もはや公正な判断のもとにふり下ろされるハンマーを偽装することはできない。
駅前の雑踏に雄雄しく立ちはだかる宗教家は、唾をしぶきながら声を張り上げ、正しい歩みを主張する。
靴の音にかき消され削り取られた声が、ひとりの青年の心に杭を打ちつける。
青年はくびすを返して宗教家に向かっていくだろうか、下らないと唾を吐き棄てるだろうか、杭を心の隅にしまいこんでそのまま歩き進めるだろうか。
生まれながらに傾きをもつそれは、不完全に統合された「私」か「彼」かになるだろう。
いずれ傾きが巡り巡って、自らの傾斜に思い至ったら、それはどのように転がっていくだろうか。
――神とは何ですか
――私たちを見守ってくださる最高存在です
――あなたにとっても最高存在なのですか
――もちろんです
――ふうん、面白いですね
――あなたも神を信じるのですか
――さあ、もしかすると、信じるかもしれないし、信じないかもしれません
二世帯住宅
「子供の菓子を食べないでよ」
「風呂は最後にしてくださいよ。娘たちが父さんの入った後の風呂は垢だらけだってお湯を入れ直すんですからね。まさか、風呂の中でタオル使っていないでしょうね」
「そのタオル、顔拭くタオルですよ。体拭いてないでしょうね」
「汗止めのスプレーそんなに使わないで下さいよ。息もできないわ」
これは、私が、サラリーマンをしていた時、毎日妻からあびせられた言葉です。
いつも言われていると気にならなくなるものです。
ところで、最近は二世帯住宅が多いですね。
私の子供も女子だったので、家は二世帯住宅にしましたが、子供は出て行き二世帯住宅は無駄になってしまいました。
ところが、意外なところで二世帯住宅が役に立つことになったのです。
それは退職の日に始まりました。
「お母さん今までありがとう」
「何を言ってるんです。お父さん、ご苦労様でした」妻の暖かい言葉に背中を押されて最後の日を迎えることを期待していました。
「なに、やってんですか。最後の日でしょ。遅刻しないように早く行きなさいよ」
退職した夫が部屋にいると妻は落ち着かないらしいんです。
自由に昼寝もできず、夫の前では掃除、洗濯、料理をしているところを見せなければならない。電化されて、そんなに一生懸命やったらすぐ終わってしまいます。それに、好きな昼メロも見れないし、友達と遊びに行ったりすることもできない。
それが、頭のはげたモンスターみたいな生き物が急に居座って、妻の生活パターンを壊していく。妻にとってはこれは理不尽そのものです。
モンスターは、いつも下着か、トレーナーで、冷蔵庫をあさっては、あたりに食い物のカスを散らかす始末です。妻から見れば一日で一週間分汚された思いなんでしょう。
老後の夫婦には3mの距離がちょうどいいというTVコマーシャルが流れていました。
「何言ってるのよ。10mでも我慢できないわ」妻は突然立ち上がってTVに向かって怒鳴りました。
「そうだ、家は二世帯住宅じゃない。子供も出て行ったし、二階は、倉庫代わりに使っておくのももったいないわ」
こうして65歳まで働き続けた私は、不用品の集まった2階に住むことになったのです。
「あなた、書斎がほしいと言ってましたよね」妻の甘い言葉に私は返す言葉がありません。
くれぐれも、二世帯住宅は建てないように
出勤前、鏡に映るスウェットのパジャマ姿の自分がかっこよく思えた今日の朝。寝室へ行ってドアを開け、そこで脚を肩幅に開いて両腕を斜め下に伸ばし袖をクイっと引っ張って、
「美美(メイメイ)」と声を掛けると彼女がゆっくりベッドから顔を出した。何か反応を期待して朝の僕のパジャマ姿を彼女に見せてみるも、おそらく中国人の彼女は日本語が分からず僕も中国語が話せないので彼女はちょっと寝ぼけた顔をしながらいつもの綺麗な笑みを見せてくれただけだった。
その反応に一抹の物足りなさを感じながら洗面台へ戻ってみるも、頬の上でフィリップスを滑らしながらパジャマ姿の自分が今日に限らず気に入っている事を考える。なぜだろう、おそらくこのゆったりとしたサイズがいいのだ。締まらず緩んだ袖口に、見える手首がいいのだ。そして襟がないから首が長く見えるのと適度な寝癖がいいのだと考えた。
しかし、今日の都内、例えこのパジャマ姿で歩いてみても人々は僕の姿をかっこいいと云う前に、なぜ外でパジャマなのだと云う顔を向けるに決まってる。
それに対してこのパジャマ姿を見せられる今や唯一の存在は、会社の岐路、僕が裸足と白いワンピースの上に墨の如く濡れた髪を下ろしていたのを見つけたのだった。所持品がないため身元も何も分かりゃしない。僕はその「チャイニーズビューティ」とも形容できる彼女に、漢字「美」の中国語発音が「メイ」と知ってそれを重ねて「メイメイ」と名づけて呼んでいるのだが、彼女は「メイメイ」が自分の名前として呼ばれている事を理解しているのかどうか分からない。ただ僕が「メイメイ」と声を掛ければ彼女はそっと微笑むのだった。
僕が洗面を終ると既に彼女は蒸しまんと小豆を挽いた粥をテーブルの上に並べていて(これが僕が彼女を中国人だと思う理由である)、彼女と僕は小さなテーブルを挟み椅子に座って食事中も目が合えばいつもの笑みを向けてくる。
炊き上げのご飯と味噌汁がめっきりご無沙汰の朝食だけど、僕は食事を済ませ折り目の付いたスーツに着替えると、彼女の綺麗な髪の下に手を刺し込み頬に触れ、彼女はこそばゆいと目を細めて僕の掌に頬を寄せ、僕はマンションの玄関を出た。
丁度営業マンとして働くことに飽きて来ていた今日の夜。仕事帰りに同僚と
「俺、会社辞めるんだ」と気持ちよくなって一人部屋に戻ってこれば、彼女と彼女の痕跡はもう何もなかったように消えていた。
「うぐひす色の二月ってのに」
トオルスキーは呟いた。毎日つまらんなあ。
静寂がつづいたあと、千太郎が立ち上がり、ベートーヴェンの悲愴ソナタをかけた。
「ことし、何かやろうよ」
千太郎は天井を見上げている彼の背中をたたいて言った。
「裸の女たちを集めてさ。写真を撮ろう」
「裸?」
「ああ。梅に鶯。ぼくらに裸婦だよ」
どうみても金持ちにみえない二人である。だが六畳の、本棚もない木造の、およそコタツしかない部屋で、湯豆腐をつつきながらのんでいた二人は、気分だけは貴族の若旦那なのである。音だけは響く狭い部屋で聴く悲愴ソナタも少し力をかしていたかもしれない。
「女をどうやって集めるんだ?」
「情熱しかない」
「そうだな」
「トオルスキーには肉体がある。ぼくには知性がある」
「そうだな」
一人は力こぶをつくった。もう一人は平家物語の冒頭を暗誦した。だが力こぶは盛りあがらず、暗誦は途絶えた。
「でも情熱がある」
「人には添ってみよ、馬には乗ってみよ、女には声かけよ」
二人は翌朝から行動を開始した。改装中の東京駅付近に立ったのだ。
「俺はあんたの裸をとりたい。うちこないか」
「ぼくは姉さんにとっての皇居のお濠の近衛兵になる。あなたの心は彼氏にまかせるけれども、その裸体の美をぼくに預けてください」
二人はそれぞれに口説いたが、この不況時である。丸の内の女性は実に忙しい。一人、猿に肩車された女性が面白く聞いてくれたが、すでに猿という戦車によって彼女は心も体もしっかり護られているのだった。
「失敗したなあ」
「うん。偉大なる成功の第一歩だよ」
「本当にそうだろうか」
「気晴らしに美術館でもいこうよ」
「ああ」
美術館は巴里の日本人画家特集であった。五人の裸婦と猫と犬が描かれた絵の前で二人は釘付けになる。
「いい絵だねえ」
「俺たちがやろうとしてたことだな」
「僕らの女みたいだね」
「いい体してるな」
「くつろいでる」
「これが絵だなんて信じられんな」
「三次元を二次元に圧縮している、その圧縮加減に画家自身の視線や空間が塗りこめられてる」
「わかる気がする」
「やっぱりぼくらもぼくらの写真を撮ろう」
「どうやって?」
千太郎は友人の三谷サイモンの家をたずねた。
「サイモンは人形づくりが趣味なんだよ」
「君たちの話においらもまぜてくれ」
二人はサイモンの部屋から好みの人形を選び、並べて撮影した。予定とは違ったけれども、いい気晴らしになったのだった。
朝起きたら、栗原宗平は虫になっていた気がしたが、よくよく考えてみるとそんなことはおかしなことだし、ちょっとありえないことだと思って、じっくりと自分のからだというやつをもう一回見直してみたのだけれど、やっぱり虫は虫だったわけで、ただしなんの虫なのかといわれると、イモムシのようなカブトムシのような、あるいはウスバカゲロウのような、一向に判然としなくて、とりあえず個人的な趣向としてぶよぶよした虫は好きじゃないので、その説は除外するとして、かといってまあ何の虫だったらいいんだよと言われても返答に困るわけで、街かどで百人に聞きました、朝起きて虫になっていたら何の虫がいいですか、は、あ、へ、えーと、あの、その、虫ですか、虫限定ですか、なんていう具合で、十七歩ぐらい離れたところで、あ、あれか、元ネタはあれなんだ、と気づいてとりあえず納得することになる、そもそも虫ってなんだよ、昆虫とは微妙にちがうようなんですね、はい、さてこの議論はどこかで聞いたことがあったぞ、よくよく思い出してみれば『虫づくし』だ、あれの冒頭にうだうだあったな、いやさわかったところでこの状況になんら変化はないんだけど、そうなんだ、虫になってるんだ、曖昧だけど、もーそーですよ、虫ですよ、あれひょっとして漠然として虫ぐらいの話なら人間って虫に入るんじゃないですか、そうだ、きっとそうだ、つまりは朝起きて虫になっていたわけではなくて、より大きく我々は虫的存在なのであーると気づいたわけなんですね、コペルニクス的転回なのかもしれない、なるほどそうか、大発見だ、ノーベル賞とかたぶんもらえたりするんじゃないか、何賞か知らんけどさ生理学賞あたりなんじゃないかな、虫、なんだなあ、虫、なんですね、虫以外の何者でもあるまい、高らかに叫びあげるのだ、吾輩は虫である、名前はあるんだけどね、あって悪いかよ、猫はうらやんでくれるだろうか、やっかみはしないだろうか、いいじゃないか君も虫なんだよ、仲良くやろう、そうだ名前を付けてあげよう、なにがいいか、ま、そんなあわてたもんじゃないよね、さあ、これで虫的平和圏の成立だよ、みんな虫です、生きているんです、友達なんです、るーるーるー、らーらーらー、ありがとうありがとう、あけましておめでとうございます、とりあえずもっぺん寝よう、ぐーすかぴーのひょーひゃららー、ぷかぷかぷーぷー、ぴょろろーぴょろろろー。
左頬が熱を帯びている。確かに痛い筈なのだが、今の僕にとっては快楽でしかない。彼が僕を睨みつける。「気は済みましたか?」そう僕は尋ねたが、彼は何も言わなかった。一応確認しておこうと思って発言したのだが、愚問だったようだ。彼は明らかに戸惑っている。何が起こっているのか、自分が何をしたのかが理解できていない筈だ。
僕は彼に歩み寄りながら言葉を続ける。「僕はこうなる事はわかっていました。ここで君に殴られる事までも。僕はこの道を自ら選んだんだよ。もちろん後悔していない」それは予め僕に用意されていた台詞だった。彼の表情が更に歪む。「分からない」小さな言葉だったが僕にははっきりと聞き取る事ができた。彼の目には涙が溜まっている。理由のわからない涙が。「すぐに分かる」努めて明るい表情で言ってはみたものの、その行動は彼を更に不安にさせた。
お互いの身体が震えていた。僕は一旦落ち着こうと煙草を一本取り出だし咥える。火を点けながらも流し目で彼を観察し続けた。横に大きな身体、長く黒い髪、強く鋭い瞳、すべてが僕の持っていない物だ。正直羨ましかった。僕も泣きたくなったが必死に堪える。僕は火の点かなかった煙草を灰皿に捻じ込んだ。彼は動かない。
「これだけは君に伝えておこうかな。僕は明日、デートの約束があるんです。デートと言っても僕の部屋に彼女が来るだけですが。僕は水族館にでも行こうって言ったんだけどね、彼女がいつもと一緒で良いってさ。僕はそれに従った。結局そんなもんなんだよ。人生なんてものは」僕は格好をつけて言った。彼は瞬きすらしない。
兎にも角にも、僕の仕事はこれで終わった。僕はその場に座し、もう一度煙草に火を点けようと試みるが、やはり煙草は湿気ってしまっていた。煙草はすべて投げ捨てた。
季節は夏。空は一面灰色に染まっていた。雨が強さを増す。両脇のビルは今にも朽ち果てそうだ。何度も夢に見た景色。遠くで響く電車の音も懐かしく感じる。臀部が冷えてきたが気にしないでいいだろう。僕は彼女の事を思った。今思えば、彼女はすべてを悟っていたのかもしれない。昨日も変わらぬ様子ではあったが、それもきっと彼女の強がりだったのだろう。いや、彼女は本当に強いのだ。彼女は悲しみ、泣くのだろうか。誰かに縋りつく事があるのだろうか。
僕は静かに涙を流す。彼の手には、いつの間にかナイフが握られていた。
卒業論文に使いたい資料が近場の図書館にはないので、国会図書館に通うようになって二週間が経った。
通勤ラッシュも後半で、中央線ではすぐに座れた。文庫本を読みながら揺られていると、視線に気づいて顔を上げた。一目見てダウン症とわかる少年が目の前に立って俺を見ていた。そんなに弱者面するなよ、俺と違って徹夜明けじゃないんだろう。俺はまた本に視線を落とした。隣に座っていた女性が非難がましい視線をこちらに送って少年に席を譲った。
半蔵門線では座れなかった。暗いガラス窓に映った自分の顔がひどくやつれていて、憂鬱な気分になった。おまけに四方からポマードの臭いが容赦なく襲ってくる。下を向けば脂ぎった禿頭。目のやり場に困っていると創価学会絡みの中刷り広告が目に入ったので、どこかの外人と握手する会長さんを睨みつけてみた。せいぜい俺にできる抗議はこれくらいだ。反対側の広告は青年誌のグラビアアイドルだった。そちらを見ていたら首が痛くなったので正面を向くと、やはり疲れた顔の俺がいた。
駅を出て信号を待っていると、自民党会館から黒塗りの高級車が出てきた。子供の頃大事にしていたカブトムシくらい光を弾いていた。後部座席にカーテンをしたカブトムシ高級車は、国会議事堂の方に消えた。この距離で高級車を使うのか。まあ徒歩で襲われたら大変だから仕方ない。だが公明党と連立している自民党は許せないので、二台目のカブトムシを睨みつけてみた。せいぜい俺にできる抗議は……。気が滅入ってきたので、踵を返して青山通りの方へ向かい、マクドナルドに入った。
店員は耳障りな片言で注文を聞いてきた。韓国人だった。思わず顔を顰めた。差別。人格に欠陥。別に構わない。在日特権は許せないし嫌いなものは嫌いだ。と胸の中で問答しながら階段を登り、喫煙席で煙草に火をつけた。JRが四月からホーム全面禁煙にするらしい。冗談じゃない。
一服しても席を立たず、文庫本を開いた。午後まで本を読んでいようと思った。
論文はどうする。まだ一月あるよ。とまた自問自答。
小説の筋が頭に入っていなかった。ページを逆に繰る。今朝読み始めた文庫本は、丁度真ん中のページを開いていた。
帰りに読むものがなくなってしまう。そう心で呟いて、席を立った。
抜けるような青空は徹夜明けには眩しすぎて、舌打ちを漏らした。理由をうまく言えないが、何よりも自分という男が心底腹立たしかった。
日本の一番真ん中に、保険会社で働く26歳の女がいました。
女はホームで家に帰るの電車を待っていました。ひとりが嫌いな女は、妹の帰りが遅くなることを思い出して家に帰るのを勝手に拒み、電車を何本もわざと乗り過ごしました。
会社の同僚と久しぶりに飲んだせいで女は少しばかり酔っておりました。そして寝不足のせいで頭がぼーっとしておりました。ふらふらとおぼつかないあしどりで駅のホームをぐるぐると回っていると、女と同じように酒の入った中年のオジサンや塾帰りの小学生、携帯メールを打つ女子高生、ケーキ屋さんの箱を持ったサラリーマンが女の前を次々に通り過ぎていき、電車が到着すると乗り込んでそれぞれの家に帰っていきました。その当たり前の光景を女はなぜだか懐かしく思い、そしてベンチに倒れこんでそのまますーすーと寝息をたてて少しの間眠ってしまいました。
はっと気づいて目を覚ますとあら大変、腕時計は夜11時をさしておりました。ところが女はちっとも慌てず、履いていた黒いハイヒールを脱ぎました。そして「仕事めんどくせー」と呟いてからまた眠りの世界に入っていきました。
次に目を覚ましたときは日付が変わっていて、腕時計は朝の10時をさしておりました。いつもなら会社についている時間に女はホームにいて、ただ呆然と昨晩、何が起こったのかわからなくなったように立ち尽くしていました。
気が付いたら、女は少しのあいただけホームレスになっていました。
とりわけストレスがたまっていたわけではありません。少しばかり寝不足で仕事を面倒くさがりはするものの、悩むことなど女にはありませんでした。いたって健康な体で、ひどい頭痛もなくけろりとしていました。何やってるんだろう、と自分を少しばかり疑ってから女はハイヒールを履きなおし、服装を正して次に来た電車に乗り込み、普通どおり会社に通勤して遅刻しましたと言って先輩に怒られてから、女はいつもの一日を過ごしました。
昨日何があったのかをよく覚えていません。
家に帰りたくなかった理由も、本当のところはよく分かりません。家にひとりでいることの寂しさ、ただそれだけではないただの一晩だったのかもしれません。
しかし、もう一度お酒を一口飲んだとき、電車を乗り過ごしたとき、そして家に帰るときに、女は必ず家に帰らなかったことを再び思い出すでしょう。
今日は家にまっすぐ帰ろう、と女は思いました。
Rってガチャピンみたい。
・・・・・・どう思う? 何の前触れもなく言われて、返せた反応は何の面白味もないもので。それを機転を利かせて答えれる人は稀だと思う。
普段使わない頭を高速回転させ、思いついたことといえば、ローマ字で書くとRの文字は入っているってことくらいだ。あとは緑を表す英単語にもRは入っている。でも、だからって納得できるものじゃない。
彼女の中でRのイメージはグリーンで、Rの形そのものがガチャピンだと言う。
じゃあガチャピン描いてと言い、描いてもらったけれど、どれ一つとしてまともに描けていない。
もどかしそうに、ラフ画を何度も描いていたけれど、そう見えるものがない。タコみたいだったり、宇宙人のようだったり。
タコと宇宙人もR?
・・・・・・それは全然違うらしい。
Rのゴシック体、そして緑に塗ってあればそれはもう、ガチャピンそのもだという。
私の中でRはR。しいていうなら、すぐに思い浮かぶRはイタリックのデザイン化されたRだ。色は・・・・・・とくに浮かんだことはない。
他のアルファベットは? と聞くと、あとはとくにないというから、それもわからない。
それでも考えて、あるとしたらとあげてくれた例はわかるものもあればわからないものもある。
Aはしいていえばピンクらしい。・・・・・・ピンクねぇ。。
Cは目の検査で使う形。・・・・・・それはわかる。けれど、開いている方向はいつも右。
Zは居眠り。・・・・・・漫画で寝ている絵のところにあったりするからね。
Rだけ、やけにリアルに具体的に思い浮かぶのは本人にもよくわからないらしい。
それを他人がわかるのは、無理かなと思うけれど、その思考回路の謎を解いてみたい気もする。
部屋を片付けない奴っているだろ。外に出るときは小奇麗な格好してんのに、自室の環境は見るも無残って感じの奴が。
大学の友人にまさにそのタイプがいる。何度か遊びに行ったがひどいもんだ。新しいマンションに住んでいるくせに、ドアを開けたらそこはゴミの山。コンビニ弁当ばかり食べて、容器を捨てずに部屋の角に積み上げてやがる。せめてゴミ袋に入れろ、虫が湧くぞ、と言っても「殺虫スプレーしてるから大丈夫」なんて気楽な様子だ。
そしてそいつの趣味はぬいぐるみ制作。まあそれはいいんだが、作り終わったら片付けろと言いたい。綿やら布の切れ端やらが散乱しまくってる。あいつは作ることばっかりで飾ることには無頓着なのか、手製のぬいぐるみが無造作に積み上げられて埃をかぶっている状態だ。
何度も掃除しろと言ってるんだが、あいつはその度にへらへら笑って適当な答えを返すだけ。性格はいい奴なんだが、あのだらしないところだけは嫌いだったな。
そこである日俺は思ったね。一度あいつの部屋をぴっかぴかにしてやれば、もう汚さなくなるんじゃないかと。だが恩に着せるのもなんか嫌だったので、イタズラをしてやることにした。
まずあいつがゼミで丸一日拘束される日を調べ、出かけたのを見計らってこっそり侵入。新しいマンションなのでドア鍵は暗証番号式だったが、12ケタだと油断していつも隠さずに入力してたのを暗記済みだ。
そして半日かけて部屋をきっちり片付ける。あの大量のぬいぐるみも埃をはらって綺麗に並べてやったよ。
仕上げは一枚の書置き。妹に頼んで「いつもありがとうございます」と丸文字で書いてもらった便箋を机に置いたんだ。女には縁のない奴だから、心当たりがなくて驚くだろう。ふと目に付いたクマのぬいぐるみを文鎮代わりに乗せ、俺は鼻歌と共に帰った。
次の日あいつから電話が来た。天地がひっくり返ったようなパニックの声を聞き、俺は会心の笑みを浮かべた。
いつバラそうかと思いつつも話を促すと、なんとあいつはこんなことを言い出したんだ。
「部屋が一日で綺麗になっていて、普段から大事にしていたクマのぬいぐるみが机の上にいたんだ。これはクマが恩返しをしてくれたに違いないよ!」
俺はあっけにとられ、思わず電話を取り落としそうになったよ。
種明かしが出来る空気でもなく、あいつの喜ぶ声を聞きながらふと思った。
ああ、妖怪ってこうやって生まれるんだなって。
暗闇だと思ったら、それは青空だった。
「あなたのこと、知ってるわ」その女は僕に言った。「遠い昔のことよ。あなたって、何一つ変わらないのね…」
僕は空を見上げていた。雲が一つもなかった。ずっと眺めていたら、僕の眼球に、青空がペッタリと貼りついた。目を閉じると、僕は青空の中にいた…
「変わっていったさ。何もかも」
ついさっきのことだ。僕はその女を、ナイフで殺したような気がする…。確信はない。ただ柔らかい何かに、硬いナイフがグッと押し込まれていった感触だけが、この手に残っている…
「なつかしい気持ち、分かるでしょ?」女は言った。「それは、人が何かを失ってしまったときに感じる気持ちなの。もう二度と戻ってこないものを、いとしく思う気持ち…。あなたには、どうしても耐えられないのよ。何かを失うことが…」
まるで時間が止まったみたいだった。女の腹部には、ナイフが真っ直ぐに突き刺さっていた。でも女は、ただ春風のように微笑んでいるのだった…
「ほら見て…」女は空を指さして言った。「鳥が飛んでる。名前は知らないけど…」
「君は死んでるのかい?」
「あれはきっと渡り鳥ね。一羽だけ、仲間とはぐれたのよ…」
「僕は君を殺したのかい?」
そう僕が尋ねると、女は腹に突き刺さったナイフを手で引抜いた…
「なぜそれを知りたいの?」
「大切なことだからさ。人を殺したら、人じゃなくなる」
女は僕に、ナイフを手渡した。
「人殺しだって、同じ人間でしょ…」
なつかしいな/君と一緒だった頃が…/君は僕で/僕は君だったよね…/僕らは手を放すべきじゃなかった/決して…/僕は次第に君を忘れていったけど/あるときふと気付いたんだ…/どうしても埋まらない/大きな空白に…/もしこの世に希望があるなら
僕を殺してくれ
「人を殺すことは、世界を殺す希望なの?」
「悪魔になる希望さ。悪魔には不安も、迷いもない」
孤独な悪魔/孤独な人間の/希望?
「違う」
女は言った。腹部の傷口から、赤い血を流しながら…
「人は絶対、悪魔になんかなれない。人は弱いの。人は柔らかくて、あたたかくて、せつないの…。誰だって、どんな人だって、帰るべき場所はあるのよ。それでもあなたの空白は、埋められないかもしれないけど…」
僕は、手に持ったナイフを見つめた…
「ねえ見て…」女は言った。
僕は眼球に貼りついた青空を、ゆっくりと、はぎとった…
あなたにも、見える?
「範囲は何ページから」
どうしよう。ノートの文字が暗号のように私を拒む。いくら指でなぞっても、ただの模様にしかみえない。隣に座る彼と触れた肩から温もりが伝わってくる。華奢にみえて意外とがっしりしているのね。いけない、またノートがうわの空になってる。
どうして今日なのか解りますか。勉強をみてもらおうと部屋まで押しかけてきたのはただの口実で本当は鞄の中のものを渡したかったのです。
「伊藤先生はノート中心でテスト作るから楽勝だよ」
ここまで辿り着くのに、どれほど勇気が必要だったか……でも無理。私なんかが先輩とつりあうはずないもの。あれほど思いつめた決心だったのに、先輩の笑顔を前に脆くも崩れてしまいました。たぶん、もう勇気を使い果たしちゃったんだと思います。今日の先輩を独占できただけで満足です。せっかく作ったチョコ君なのに、ごめんね。
「そうそう、ここの公式は俺らのとき出題されたんだぜ」
耳元で響く先輩の低い声に、瞳が潤んでしまいそうになる。
黙り込んだ私を不審に思ったのか「どうかしたの」と、顔を覗き込んできた。
「頬が赤いよ。風邪ひいたの」
そう言うと、いきなり私の前髪をかき上げ、手のひらで額を覆った。
あたたかくて大きな手。その温もりに平衡感覚が乱され天地がぐるりと回りそうになる。
跳ね上がる鼓動が痛いくらい胸を叩く。私の心臓って、なんて正直なんだろう。
「熱はないみたいだけど。今日はこの辺にしとこうか」
いやっ! もう少しふたりっきりでいたい。
凶暴なまでに揺さぶられる私の理性。なのに追いつかない行動力と空回りするチョコレート。
たった一言「これ貰ってください」の言葉が声にならず溜息にかわる。
そんな煮え切らない私を横目に、先輩はケータイを取り出した。
「もしもし俺。なんだよお前かよ」
友達からなのかな。
「駄目だって。今年もチョコゼロ個。笑うなって」
嘘。ゴミ箱の銀紙はなによ。
「じゃあな」
電話を切った先輩は「誰かチョコくれないかな。めっちゃチョコ欲しいよな」と、ひとり言を呟く。
優しい先輩の優しい嘘。針が落ちる音だって聞こえるくらい静かなこの部屋のこと。マナーモードでも着信があればバレちゃうのに。沈黙したケータイ相手にひとり芝居を打ち、チョコを渡すチャンスを与えてくれた先輩。
震える手で鞄を開け、一生分の勇気を振り絞って声にかえる。
「あの……恵まれない先輩にボランティアです」