# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 黒い羊 | アンデッド | 994 |
2 | カラーコンタクト | 藤舟 | 953 |
3 | 蜘蛛 | 腹心 | 996 |
4 | 歪み | のい | 815 |
5 | 乾燥胎児 | Azu | 863 |
6 | エイミー | yasu | 997 |
7 | パワーストーン | 暮林琴里 | 1000 |
8 | 春はめぐる | 葉っぱ | 999 |
9 | 『レッドキングの結婚』 | 石川楡井 | 664 |
10 | 写真班員と市場 | クマの子 | 1000 |
11 | 新しい神様 | euReka | 994 |
12 | 糸電話 | 森下萬依 | 1000 |
13 | 晴れ時々曇りのち晴れ | 和泉 | 616 |
14 | 家路 | 眞鍋知世 | 997 |
15 | 霧 | K | 1000 |
16 | 押入れの独楽 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
17 | 目覚めたとき | 芥川ひろむ | 902 |
18 | アカシック・レコードをめぐる物語 暗闘編 | 黒田皐月 | 1000 |
19 | さよなら | 三毛猫 澪 | 1000 |
20 | ワン | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
21 | カタマタクラ男爵のトースト | えぬじぃ | 998 |
22 | 檻の中の仔猫 | qbc | 1000 |
「テレビが壊れた」
同僚の友人が笑顔で自分の頭を指差しながら彼にそう呟いて、翌日蝶のように姿を消した。
遊星が大地に挨拶を交わして光り輝く三日前。
彼は会社の近所の踏切の前に立っていた。
人の心はどす黒いのに、夕刻の鳥はみなに名残惜しく別れを告げて飛び立ち、空と建物は穏やかな黄昏色で染まっている。
人の生気のない閑散とした平和を謳歌している踏切。内と外を境界線で切り結ぶその外側で、男はズボンにあるポケットの中の希望をまさぐった。
ポケットの中にあったのは、五十円玉硬貨一枚。
彼はその銀色を見つめると、真ん中にある秘密の穴から世界を覗き見た。
胸に抱いた一抹の希望は完全に砕け散り、泡沫となって飛散すると、視界がぐりんと暗く歪む。
彼には鮮明に見えた。闇の帳に隠された、世にも恐ろしく醜い真実の世界が。
絶望が、壊れたリモコンをこちらに向けて、しつこくボタンを何度も押しながら「やあ、こんにちは」と醜悪に笑う。
カンカンカン――。
警報機が叫んで、黒と黄色の遮断かんが泣きながら男の行く手を遮った。
彼は遮断かんの感触を手のひらで愛でるように撫でて味わうと、素早く下に潜って、未来に向けて足を踏み出した。
「人生は糞だ」
線路の中央で、生涯最高の台詞を過去と一緒に吐き捨てる。
手の中で握り締めていた銀色の希望を、天高く投げ捨てた。
そして五秒ほどしたのち、高速で動く鉄の塊が脆い命を横殴りにして、光よりも速く、彼を未来へと導いた。
遡ること、僅か一秒前。
彼の脳内の電気信号が止まる、その直前。
対面の遮断かんの向こう側に、黒い羊が立っているのが視野に入った。
渦巻く漆黒の鎧を身に纏い、突如として現れたその羊は、微動だにせずそこに立ち尽くし彼を凝視していた。
そして、彼は見た。
黒い羊のその眼を。
青黒く濁った瞳の奥にある、絶望と、全ての真理を。
人の死の意味と、それに呼応する何か。生命の終わりの真実を知っても、それは誰にも話すことが出来ない。人がそれを知ることは、永遠にない。
満足感と後悔の中で、彼は友人を思い出した。秘められた恐怖と狂気を共有出来た。友人も同じものを見たはずだと、彼は感じた。
一瞬にして長大な体感時間に、まどろみながら漂った。しかしこの世界に、永遠は存在しない。
黒い羊の深く澱んだ宇宙は、彼の恐怖に歪んだ魂を捉えると、そのままぐにゃりと引きずり込んだ。
最近、道を歩いていても人の顔を見ない。落ち葉が風に吹かれるのを目で追ったりしている。バス通りの坂道を上ると神社の隣にコンビニがある。そこまではなかなか急な坂だ。朝から僕は疲れている。人の顔を見るのが厭になったわけではない、と歩きながら考える。人に見られるのが厭になった。昔から他人の目ばかり気にしてやってきた。親や友達や先生たちの顔色をうかがって、何かすればいつもまっさきに言い訳を考えていたので、頭の回転の早さには少し自信がある。
周りを見ないので周りがどんな目で自分を見ていても関係ない、同時に周りを気にしていないのだなという風に見てほしいというシグナルを出してもいる。矛盾しているけど、それはそうに違いない。周りが見えていなければ恥ずかしい格好をしていても気にならない。サングラスを付ければ注目を浴びても安心できる。女装しても元が誰だかわからなければ恥ずかしくない。
彼女はどういう種類の人間なのだろうか。髪を薄い色に染めて、ぱっと見、全身で十万以上するんだろうなという感じのハイブランドばっかり載っている雑誌から出てきたみたいな恰好をしていて、いつもクラスに全然友達がいないと嘆いている。「テストのときノート見せてくれる人がいなくて困る」
そのくせ自分から友達を作る気は全くない。
しかし話してみると、彼女は趣味は多少偏っているが、ずいぶん真っ当な、普通の人間なのだった。むしろそこらへんの真面目そうなやつよりよっぽどしっかりしている。というのはサークルの行事の取り仕切りを一緒にやっていて知ったことだ。
それはおそらく珍しいことじゃない、でも僕は変わりたいと思った。違った人間になりたいという風に。だって僕はもう人に見られるのが耐えられなくなりそうだった。もういっそ消えてしまいたかった。夜、暗闇の中に逃げ込んで今日は終わったと自分を慰める日々は、大げさなものじゃない。ただ僕は自分がよりよく生きるためにこういう性格を選んだのだと勘違いしていた。
他人の目が気になるのは自分のことばかり考えているからだ。彼女のことを考えるのはいい傾向だと思う。というかこの時期地面が凍り始めるから、実際下を見て歩かないと危ないのだった。
バス停には人がたくさんいた。誰の顔も見ずに通り過ぎると、犬と目が合った。
ベッドの下で見つけた「ひとつなぎの財宝」の魅力に抗いながら俺は机に向かう。ニコロビンの「生きたい!!」に対して「任せろ!!」とコブシを高く突き上げ答えたい気持ちをグッと押さえ、そのグッを運動エネルギーに変えてデスクトップのOSを机から下ろした。危うく板橋区で海賊王になるところだった。OSはその文明の利器としての尊厳を失い代わりに誇りを、ではなく埃をその身に纏っている。ジーザス。エアコンで言うところの室外機、通風孔、ダクト??正式名称は分からないが裏側の色々線をつないである近くに蜂の巣みたいに穴が空いていておそらく中でフル回転している頭脳の熱を外へ放射しようとしている(と俺が勝手に予想している)所に埃の塊が体育の時使う薄っぺらくて汚い体操のマットみたいに張り付いていて、そこに埋もれて蜘蛛が死んでいた。
蜘蛛は俺を見ている。気がした。
なんだよ。何見てんだよ。確かに俺は掃除をしばらくと言うか一度読んだ事のあるマンガがベッドの下でまた新鮮な面白さを取り戻すまでしなかったがお前を殺したのは俺じゃないだろ。そもそもお前が埃にまみれて死んでいったのかそこで死んでから埃にまみれていったのか分からないじゃないか。クリストファーロビン「ねぇプーさん、そこで何をしているの??」プーさん「何もしないをしているんだよ」そうなのか。俺が掃除をしないをしていたからお前は死んだのか。少なくとも俺が二人のロビンと戯れている間に蜘蛛が死んだのは間違いない。合掌。
もうなんかヤル気を失ってしまってユニットバスにお湯を張って罪と罰を読みながら湯船に浸かる。180cm近い俺が狭いユニットバスに浸かるとさながら胎児のようになり母の胎内で安らぎを得ようとしているように見えないでもない。ラスコーリニコフはアホだ。ヘタレなのは勝手だが最愛の妹の幸せをぶち壊してまで罰というカタルシスを得たいのか??壮大なマッチポンプ物語だ。腹が立って5ページも読まずに風呂から上がった。つーかもっと登場人物を分かりやすい名前にしやがれョーヴナ。くそ。俺は服を身に付けると髪を乾かさずにビールとついでにコロコロ(コミックではない)を買おうとコンビニへ向かう。湯冷めをして風邪をひけばそれが俺に対する罰だ。「え、俺なんもしてねーんだけど」がもはやエクスキューズとして機能しなくなった事を悲しみつつ、掃除が終わったら次は芥川を読もうと決めた。
「ママ?」
くぐもった息子の声がクローゼットから聞こえているというのに、私はクローゼットを開けようとはしなかった…。
−−−夫が浮気をする人だと知っていながら、私は結婚をした、わかってはいてもやはり夫から女性物の香水のかおりがすると、どんな女を抱いてきたのだろうか?と考えずにはいられなかった。
私は夫を待つのが段々と嫌になっていた…
いくら待っても夫は私を愛してはくれない。わかっているはずだった…それでもどこかで私は夫に期待していた、いつかは私だけをみてくれる…
そんな夢物語…叶うはずがないのに。
「ねぇ…あなた、今日は何時頃になるの?」
「いきなり、どうした?」
夫は不思議そうに私を見た、私が普段そういったことを聞かないからだろう。
「なんでもないわ…」
本当は、結婚記念日だから…でも、これは夫が気付かないと意味がない。
「そうか?じゃあ行ってくる」
「えぇ、いってらっしゃい」
帰ってきて…私の元に…
−−−「ただいま」と言う声をついに私はその日聞くことは出来なかった。
私の心はその日、壊れてしまった。
−−−夫が帰ってきたのは次の日の早朝、私は平静を装って夫を出迎えた。
「残業?」
「あぁ…ちょっと…」
嘘つき…首からキスマークがのぞいているじゃない。
「お茶、飲む?」
「あぁ」
私は睡眠薬入りのお茶を差し出す。
一気に飲み下す夫…
「すまん…少し寝てくる。」
「えぇ」
しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてくる…私は肉切り包丁を手にし夫の元へ行くと、ロープで手足を縛り、ベットへと繋いだ、そして…足の肉が切れたところで夫が目を覚まし、信じられないという目で私を見ながら暴れ、叫んだ。
「あなたが悪いのよ…」
私は切れにくい骨を何度も何度も肉切り包丁で叩き切りながら言った。
夫が気絶してしまったころ、息子が私を見つけ、泣きじゃくった、「パパどうしたの?ねぇ!ママーやだー」
私は息子をクローゼットへ押し込み耳を塞いだ…
この家から人が出てくることは二度となかった…。
もう戻れない。涙は音もなく流れて、見える世界は歪んでいる。叩かれるドアの音に耳を塞ぐ手に力が入る。もう選ぶべき道は一つしかない気がしていた。授業の度に胸が苦しくなる。でも四限目の途中で息も出来なくなった。思わず席を立っていた。足には力が入らなかったが、とにかく教室から出ようとした。呼ぶ声を振りきって、気づいたら階段を降りて、トイレに入ると内側から鍵をかけた。「頑張らなくていい。」そう言ってくれた担任は私がトイレの中にいると気づいてしまったようだ。でも頑張らないと、この学校ではやっていけないんだよ、先生。扉の外の声に私は決して応えなかった。優しい声をどうしてもこれ以上困らせるわけにはいかなくて、泣きながら鍵を開けた。見えなかった、何も。涙で霞んでいただけではなくて、顔を上げることが出来なかったから。もうだめなの。一緒に私を探してくれた先生は私を中庭に連れ出してベンチに座らせてくれた。誰も私を責めたりしなかった。叱りもしなかった。優しさが痛かった。傷に塩を塗るように、心がずきずきと痛んだ。こんなに優しくされても決して私は何も返せない。それがつらくて目を見ることもできなかった。それから私は学校に行くのが怖くなった。スクールバスを無理やり途中で降りてしまうこともあった。階段は苦痛に続いていて、一段上がる度に足は重くなり、呼吸は苦しくなった。喉が渇いて、息が出来なくなる。教室は四階。3階とちょっと昇るとどうしても足が動かなくなった。なんで私はこうなんだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。なんで普通に過ごせないのだろう。自分に腹が立った。進めない。戻れない。道は一つ。死。私はそれしか考えられなくなっていた。追い詰められていた。家にも学校にも居場所なんてなかった。頑張らなきゃこの世界では生きていけない。でももう私は頑張り続けてきた。頑張ることにもう嫌になっていた。解決のない道をこれ以上進む方法を私も誰も知らなかった。十七年間の間に頑張っても無駄なことがあると知ってしまった。私は絶望だけを抱いて泣いていた。
絵美さんは結婚していたはずだ。少なくとも左手薬指に指輪をしていたのは確認済みだった。なのにどうして今月の社内報の“結婚おめでとう”欄に名前があるのだろう。しかも相手は第二製造課の遠藤くんになってるし…
「知らなかったの!?遠藤くんとエイミーのこと!」
パートの塩澤さんに聞いてみたところ、いつもの甲高い声を更に2オクターブ程上げて捲し立てた。そもそも絵美さんのことを、周りがエイミーと呼ぶようになったのは僕が原因だ。
絵美さんが総務課から異動してきた時期と、エイミー・ワインハウスがグラミー賞を受賞した時期が重なっていたこともあって、あの日本人離れしたスタイルと、長く癖のある髪型から仲間内でエイミーと呼び始めたのがいつの間にか広まってしまったのだ。
パートの塩澤さんによると、絵美さんが結婚していたのは本当らしい。ということは、離婚してすぐに遠藤くんと再婚したことになる。独身の僕にはわからないけれど、結婚するより離婚するほうが体力が要ると聞いたことがある。絵美さんほどの奥さんなら、旦那さんが簡単に離婚届に判を押すとは思えないが、そこまでして絵美さんは遠藤くんと結婚したかったということか。
「遠藤くんかっこいいからねぇ。エイミーの気持ちもわからなくもないわぁ。」
パートの塩澤さんは年甲斐もなく瞳をキラキラさせて呟いた。確かに遠藤くんは男の自分が見てもかっこいいと思う。しかも僕みたいに普段からニヤニヤしてる軽い男と違って、いつもクールでポーカーフェイス。いつ切られるかわからない派遣の僕と違って、正社員で若くして第二製造課の班長だ。将来の出世も約束されたようなものだ。
この際、どこでどう出会ったなんてどうでもいい。パートの塩澤さんに聞けばすべての種明かしをしてくれそうだけど、この休憩時間内では済みそうにない。ただ二月に異動してきて、七月に結婚っていうのがどうしても腑に落ちない。第二製造課と総務課に接点がないわけではないけど、二月以前に出会っているということは考え難い。二月の時点ではまだ結婚していたはずだ。女性は離婚して半年は再婚できないというのも聞いたことあるぞ。
「あれよ。今多いじゃない、事実婚っていうの。そうよね、入籍してないんだから再婚って言わないのかしら?」
パートの塩澤さんはまだまだ話したい口ぶりだったが、無情にも始業のチャイムが鳴り響いた。
また来たか、と私は大きなため息をついた。
私の仕事場に、最近変な客が寄り付いている。というのは少し失礼かもしれないが、彼は本当にそうだから大変なのだ。商売をする人間からすれば客は神様のような眩しい存在であるはずなのだが、彼の場合はいくらお世辞でもそうは言い難い。
「これは何の石?」
今月新しく仕入れたラピスラズリのポップを作っているときも彼は遠慮なしに話しかけてくる。しかも運が悪いのかそれは決まってバイトの子たちが休憩中や買い出しに行っていてひとりで店番をしているときなのだ。
彼は薄い紅色の石をじーっと見つめながら、友達にでも尋ねるように気軽な感じで問うてきた。彼は問うてくるばかりで毎日店に足を運んでいるにも関わらず一度も石を買ったことがない。
「ローズクォーツ。女性にすごく人気」
「あ、そ」
「素敵な恋愛を運んでくれるの」
「ふぅん」
せっかく人が答えてあげてるのに何だその面倒くさそうな返事は、と内心思いながらも私はボソッと言ってみた。
本当に鬱陶しいと感じれば、無視してしまえばいいのだが、彼が時折子供のような無邪気な笑顔を見せるので何となく答えてしまう。このときもそうだった。話し相手の私には目も向けないくせに目をらんらんと輝かせている。
そしてふいに問うてくる。
「あんたさ、何でこんなとこで働いてんの」
「は?」
見ず知らずの客にあんた呼ばわりされる筋合いはないわ、と一瞬頭にきたがそういえばなんでだろう、という疑問の方が大きかった。
何でなのだろう。特にパワーストーンに詳しいわけでも好きなわけでもないし、パワーストーンの意味や効果には少し胡散臭いとさえ感じている。
「こんなちっぽけな石なんかに本当に効果があると思うか?」
私はむっと顔をしかめた。はっきり言ってそうは思わない。
「この仕事、楽しいか?」
楽しいとか、楽しくないとか。そんなことは考えたことない。ただ何となく毎日カラフルな石に目を輝かせる客に石を売っているだけだった。でも石を買っていく客が元気になっていくのを見るのは嫌いじゃない。
「…大事なのは、この石の効果とか価値とかじゃなくて、石を持ってることによって気持ちが軽くなることでしょ」
自分でもこんな言葉が出たことに驚いた。おそらく自分はこの仕事が嫌いじゃないんだろう。
「…じゃあ、これ買う」
彼は千円札を乱暴に置いてたった160円のおつりも受け取らずに駆け足で店を出た。
血のように赤い着物をひらめかせ、不吉なほどに美しい少女が歩みよる。春の激しい風に、さくらが舞い、その長い髪に纏わりついている。歳のころは十二ばかり。私は桜並木の小川の堤防に腰掛けて、彼女を見上げた。
「兵隊さん、わたしを綺麗とお思いでしょう」
上から降ってきた言葉と裏腹に、その声音におごりはない。素直に、私が思ったことを言い当ててみた、というだけの、ただそれだけの言葉。
「ええ、お綺麗ですよ」
ゆるやかに微笑むと、少女はどこか、苦い笑みをうかべて小首を傾げてみせる。
「お父様のおかげなんです」
こんどは私が首を傾ける番だった。
「お母様は、さしてお美しい方ではないので」
「そう……ですか」
私は少女をまじまじと見てしまった。少女のきらきらとした瞳は、よくみれば奥にほの暗さを帯びているのだ。
「でも、お父様もちっとも美しくはないわ。わたし、お父様のこどもでもないのです。だからお父さまは人殺しなんだわ」
私は彼女の話が飲み込めず、あいまいに笑んだ。少女が焦れたように下唇を噛んだ。そのとき、私は胸の奥に、なにか詰めものがあるような感覚にみまわれた。なにか、あるはずなのだ。大切な、何かが……。
「そろそろお暇(いとま)せねばなりませんね」
口がそう勝手に動き、少女にそう告げていた。少女の目が赤くうるみ、みるみる涙がふくれ、零れおちる。
「兵隊さん、また行かれるの? まえはわたしが微笑みかけたらサヨナラしたわ。そのつぎは、わたしを美しいとおっしゃってから。その次は、わたしを美しいと言ったあと、お母様がお元気か聞いてから……。五度目にお会いしてもこれだけよ」
「あなたとは、初めてお会いしたような気がしますが」
いいえ、と激しく首を振る彼女を見て、私はもう、思いださねばならない、思い出して伝えねばならないと、私の心ではないような、俯瞰する私の心が告げた。
「お嬢さん、それならばお聞きなさい。あなたはこう思っているのですね。あなたのお父様は、お母様への愛情のあまり、それまで夫であった、ほんとの父を殺して彼女を奪ってしまったと。いいえ、私は、戦争に行きたくなくて自害したのです。あなたのお父様は、そのうえ私の尊厳すら守ろうとし、私の死についてのいっさいを、口止めしてくださったのです」
それを伝えるために、私はこの世に残り、この世に残りたいがために、真実を忘れた。
春がめぐれば、愛しい娘に出会うために。
少年の小さな掌に握られた、かの有名な暴君の人形。名前とは裏腹に黄金にテカる(そう、黄金怪獣にも負けず劣らず!)、その雄姿。宇宙忍者の二つの鋏も、磁力怪獣の巨きな顎も、深海怪獣のドリルのような角も、伝説怪獣の長い毛も、四次元怪獣の前衛的なフォルムも持たないその格闘主義の出で立ち。狂暴性を表すような、先細りの頭となけなしの牙。へこんだ眼咼と合わせれば、まさに髑髏の顔を持っていた。少年に操られ、その剛腕は銀色の巨人を完膚なきまでに痛め付け、ブラウン管では果たせなかった死闘の勝利を演じ、銀色の巨人を倒した宇宙恐竜でさえも、彼の前では火球も出せずそのパンチに沈む。
彼は、王だった。彼の前に現われたどんな怪獣も星人も彼を倒せない。そんな彼が唯一手を出せなかったものがいる。少年の女友達が忘れていった着せ替え人形だった。彼は少年が仲人となり、彼女と結婚した。名字を持たない彼が婿入りという形で、香山を名乗ることになった。彼は幸せだった。愛する者の傍らで、そこに暴君の姿はない。だがある日彼は、少年に操られるがまま、ミニスカートの彼女を弄び、服を剥ぎ取り、悦に浸る様になった。少年は面白がり、何処かで仕入れた知識を元に、色々な体位を彼で試した。少年には聞こえない彼女の悲鳴と彼の雄叫び。
彼の幸せにピリオドが打たれる。彼は湿気のある玩具箱の底に詰め込まれ、押し入れの奥で息を潜めるようになった。久しく愛する彼女を見ていない。
忘れ去られた彼が雄叫びを一つ。
愛する彼女の所在を彼は知らない。少年もまた、二人の幸福を思い出すことはない。
昨日の進軍により総統府を占拠し、大広間では祝勝と新年の乾杯の儀が行われた。戦況記録の任を受けた私は、首から下げた写真機を持って焼けた町の中を歩いていた。
人気のない町を歩きながら、時折遠写を幾枚か試みた。途中、トンネルがあった。中に黄色い光が並んでいるかと思えば、そこには煤けた市場があった。
まだ人が居たかと思い、トンネルの中へと入っていった。両肩には野菜や食肉、まだ孩語う沼魚が並んでいた。水の撒かれた地面。人々は軍服を着る私が目に入らないかのように、瓜等野菜を切り、肉を並べ、茶葉を揉む。そして人が集まれば、そこで花札に興じるのだった。
肉屋の台には、牛や豚の部位ごとに切り分けられた肉が無造作に並べられるか、または吊られていた。脇には重さを計るための天秤が、極端に肩を斜めにしてぶら下がっている。嗅いでみれば湿った肉と、市場の生活の臭いがした。肉屋の店の奥では家族が小さな鍋を囲んで椀を啜っていた。
奥へと進んでいくと一軒の本屋が目に入ってきた。元来の本好きと、資料になるものはないかと思い覘いてみた。
店の隅には一人の老爺(ろうや)が椅子に掛けていて目が合った。私を捕らえ続ける彼の目に、私は居た堪れなくなって顔を背けたが、目の縁で老爺が手を伸ばしてきたかと思うと、一冊の本を差し出してきた。彼は手を伸ばし、戸惑う私に、端の縮れた本を渡そうとする。じっと見据えるその両眼に、半ば強引に受け取らされ、小銭を探る私を彼は制止して、私はそのまま本屋の前を去っていった。
市場の更に奥へと進んで行けば、鳥屋の前では鶏と家鴨がひしめく籠が並んでいる。籠の前に立てば、彼らは小さな頭をじっと私へ向けてくるのだが、自分の行く末に気づかないのか、その眼には微塵の影も映っていない。鳥屋の向かいは饅頭屋で、店に置かれた大きな蒸し器からは、湯気が幾筋の帯になって立ち昇っており、主人がその蓋を外すと、むわっと大きな白い湯気の塊が吐き出され、私のぐるりを覆い囲んでしまった。
すると怒涛のような喊声と、幾発もの発砲音に突然背中を襲われた。私は体を翻し写真機を構えてみたが、さっきまで白い湯気だったはずの霧が去った向こうには、ただただ焼けた町が広がるだけで、そこにはさっきまでの市場もトンネルも何もない。何があったかと云えば、途方にくれる私が脇に挟んでいた、いつ消えるか知れない一冊の本が、今もここに残っている。
「神様の話を聞きに行きませんか?」
女は、道端で僕を引き止めるとそう言った。
「すぐ近くなんです。時間ありませんか?」
「時間はあるけど、神様には興味ないね」
そう言って僕が歩き出すと、女は僕の腕を掴んだ。
「ねえ、ちょっと待ってよ」と女は言って、蛇のように腕をからませてきた。「一緒にお茶を飲むだけだったらいいでしょう?」
僕は女に手を引かれるまま喫茶店らしき建物へ連れて行かれた。店の奥では、牧師風の黒服を着た白髪の男が一人で酒を飲んでいた。他に人は居ないようだった。
「先生、連れてまいりました」と女は言うと僕の背中を軽く押した。
「まあ座りたまえ」と男は赤ら顔で僕に言った。「君、酒はイケるのかね?…そうか、ダメか…」
男は酒を一口飲むとシャックリした。
「ヒックゥ…。ところでつかぬことを訊くが、君は神を信じるかね?」
「いいえ…」
「ほほう、君はいい筋をしている。なあ、ユミコくん」
男がそう言うと、女はええそうですね先生と言って頷いた。
「我々の宗教はだな」と男は言った。「神というものを持っておらんのだよ。神は死んだと言われて久しいが、我々の宗教は神が死んだところから始まるのさ。つまり我々の宗教は、新しい神を探すことを目的とした宗教なんだよ…。ユミコくん、酒を持って来てくれ…」
女がカウンターの奥で酒を探していると、男はア〜とかウ〜とか言いながらソファーにごろんと横たわり、そのままイビキをかいて眠ってしまった…
女は微笑んで、男に毛布を掛けてやった…
僕と女は店を出ると、しばらく歩きながら話をした。
「変なことに付き合わせちゃったわね」と女は言った。「先生はね、私の働いてるスナックの常連なの。だからたまに先生のこと手伝ってあげてるのよ」
僕たちは、疲れた顔の会社員や自転車に乗った学生と擦れ違った。
「私これから仕事なの」と女は言うと僕にピンクの名刺を渡した。「今度うちの店にも遊びにきてよ。じゃあね」
女は人込みに紛れてすぐに見えなくなった。手を開くとピンクの名刺が、なぜか緑の葉っぱに変わっていた…
僕はその葉っぱを家に持ち帰り、読みかけだった本のページに挟んだ…
数年後、僕の妻が本を開いてあの葉っぱを見つけた。僕は彼女に新しい神様の話をした…
「で、そのユミコって女と何かあったわけ?」と彼女は僕を見ないで言った。
僕は笑った。
「だから、その女は狐だったんだよ」
「馬鹿みたい…」
伊達さんが遠くへ行ってしまう。それは私の本意ではない。しかし行かないでと縋るのも私の本意ではない。第一、私と伊達さんはそんな関係ではない。
伊達さんは私の働いているバーの店長だった。伊達さんは自分のことを多く語らない。というより私は伊達さんのことをまるで知らない。ただ、伊達さんと私は、何かで繋がっていると思う。いや、繋がっているというのは嘘だ。例えば伊達さんと私が片方ずつ糸電話を持っていて、気が向いたときに伊達さんはそれを手にする。私はそれにいつでも答える。
そんなことを言うと私が伊達さんのことを好きなようなのだが、それは全く違うのだ。正しく言えば「好きと勘違いしていた」のだ。
勘違いは肉体関係からだ。伊達さんと寝たのは暑い夏のことだった。私と伊達さんは仕事の後、始発を待つ間に店で酒に手を出していた。二人きりだった。店内は無音。時折伊達さんのロックの氷がカランと鳴った。
私は酔っていた。でも理性はあった。悪戯心が働いて、伊達さんの肩にもたれて「手相見てあげますよ」と右手を取った。伊達さんは明らかに嫌そうな顔をして「それって女の子が男にボディタッチして喜ばそうっていう常套手段」と言った。それから「手相なら左手だよ」と笑った。その後伊達さんは「早く脱いだら?」と言って私の顎を持ち上げ「やりたいんでしょ」と意地悪な顔をした。
ソファの上で遊戯した後、私は伊達さんに「好き」の気持ちを持った。それも、偽者の。伊達さんは靡かない。暖簾に腕押し、とはこのことだろう。私は一人相撲をとっていたのだ。はっけよい、のこったのこった。一人ぼっちの土俵。
「恵子ちゃんは、もっと大人になった方がいい」
秋が来る頃、伊達さんは言った。
「空気読んでよ」
私はあれやこれや言い返した。私だって大人です、空気くらい読んでます、私のどこが駄目ですか、私だってもう26歳なんです。
「頭の中は16歳だね」
伊達さんはそう言うと、
「俺が恵子ちゃんの気持ち面倒くさいって思ってるって気付いてる?」
ショックなりに、それから考えて悟った事。私は伊達さんへの気持ちを脳内消去した。好きではない。嫌いではない。ただ「気ままな相手」。
楽だった。そうやって、平行線上で生きることが。今までの気持ちが馬鹿らしくなった。
伊達さんは明日アメリカへ行く。私は伊達さんの居なくなったバーで働き続ける。そう、それだけ。
ただ、伊達さん。
糸電話、まだ繋がっていますか?
「星、見えないね。さっきまでは晴れてたのに……。」
「この天気じゃあ、仕方ない。ま、こんな日もあるさ。」
頭上には星空の代わりに灰色の空。今日は丘の上で天体観測をする予定だった。だが、あいにくの天気のため、中止になってしまった。楽しみにしてたのに……。望遠鏡を片付ける彼の横顔を見つめてみる。多少残念そうではあるが、たいして落ち込んでる風でもない。楽しみにしてたのは私だけ?
「何?」
「あ、えっと……なんでもない。」
気付かれてしまったのであわててごまかす。彼は知っているだろうか。私が単に星を見ることだけを楽しみしていたわけではないということを。
「あのさ……、」
黙々と片付け作業を進めてた彼が唐突に口を開いた。
「そんなに気にすること、ないと思うよ。」
「……なんで?」
「今日がダメでも明日があるじゃん。明日は晴れる。快晴だよ。絶対。」
「なんでそんなに確信持って言い切れるの?」
「ま、天才だからさ!……あ。」
見て、と言って彼は眼下の街を指さした。そこに広がっていたのは、一面の光の海。
「綺麗……。」
「地上にも星はあるんだなぁ……。ね、せっかくだからもうちょっと見ていこうよ。」
本当に、綺麗だった。ふと彼を見ると悪戯っぽい笑みを浮かべ、私の耳に口をよせて言った。
「本当は二人でいれさえすれば、天気なんて関係ないのさ。」
たとえ曇りの日があったとしても、二人でいるときは何時だって心は晴れ模様。
翌日の夜に彼の「予言」が現実になったのは、また別の話。
「雪、少ないでしょ?」
空港からの車の中、久しぶりに感じる肌を刺す寒さを紛らわすためにラジオのスイッチを入れた。
懐かしいラジオ番組、昔流行っていたCD、車の中は懐かしいにおいでいっぱいだ。
「今年は全然雪降らなくてさぁ。逆に道路がつるつるで危ないのよねぇ。」
母は今年五十歳になるらしい。確かに髪が少し白くなった気がする。
車は真っ暗な田舎道を通り過ぎて、ちらほらと灯りの見える道へと出た。がりがりと氷が削られる音がするので、車内から外を眺めてみる。車のタイヤは、寒さで凍りついた雪の塊を勢いよく削っている。空はただ暗いだけだ。
「あの人、今どこにいるのかな」
「え、誰?」
「なんでもない」
声に出したつもりはなかったので、母に返事をされて驚いてしまった。なんでもないというふりをして、後部座席のシートをあさると、小さなふにゃふにゃの紙切れが出てきた。
「もう耐え切れないくらい(笑)になったらさぁ→
メールしちゃいなよ!
アドレスわかるっけ?」
手紙交換をしていたのだろう。しかも授業中に。ルーズリーフの切れ端に、前後の内容がつかめない主語のない文章、懐かしくて綺麗とは言えない字。友達のあの子の文字だ。
あの頃、私は恋をしていた。
ささいな会話で仲良くなった、ななめ後ろの席の背の高い男の子。誕生日はいつか、血液型はなにか、兄弟はいるのか、将来はどうしたいのか。
好きな人はいるのか。
毎日毎日、くだらないメールをした。
しかもケータイなんか持ってないから、受信が遅くて絵文字もないパソコンだった。
この手紙は、そんなくだらないメールをするきっかけを私に与えてくれた手紙だった。
ふにゃふにゃだしノートの切れ端だけど、私にとっては大事な手紙だったから、ずっと捨てられなかった。
そんな大事なもの、こんなところに放って置いたんだ。
だめだな、私。
もう耐え切れないくらいメールしたいよ、今。
だけど、もうわからないんだ。
あの人のアドレス。
車はまだがたがたと揺れる。本当に雪が少ないんだ。
また空を見上げると、小さな白い塊がぽつぽつと近づいてくる。
「あ、雪降ってきたね。あんたが連れてきたみたいだわぁ」
母が笑って言った。私の家へと続く長い一本道に、どこまでも続く信号機の灯りが、まるでイルミネーションのように輝いている。
ポケットに手紙をそっとしまった。
「ほんとだね」
今、どこにいるんですか
戸が開くと、ひらかれた田圃の先に見える山のふもとに、発生している白く濁った霧が中腹からの上部を覆い隠しそのまま灰色の空に溶けつながっていた。空は重く塗られ、風の音ひとつ男の耳には入ってこない。濃い霧があたりを浮遊しながら、ものを見えにくくしている、男は思いながら、歩みを進めていく。
どこになにがあるのかさえ男にははっきりとせず、道路わきに生える雑草に目をやると束ねた髪のような細い草先がうっすらと白くぼやけて、男の持っている青々としたイメージは半透明のビニールがかぶさったように曖昧になる。早朝人通りのないまっすぐに伸びた道路の、その幅が一点に収束していくであろう風景の先は男には見えない。記憶を頼りにしていけば、霧の奥に連なっていく民家や十字路や信号機が一瞬現れもするのだが、いまやその日常のなかで出来あがった地図さえも朧にもろく端のほうからかすみ、次ぎ次ぎに崩れはじめている。
犬の鳴き声が聞こえた。
取りまく霧を貫くような声は不自然に生々しく、男は一息をついて辺りを神妙な顔つきで眺めたものの現前するぼやけた風景と霧以外にはなにもみつからなかった。霧は濃く、犬の、鳴き声を発した地点は分厚い霧に隠れて判別がつかない。それでも名も知らない犬が外部から一足飛びに駆け寄ってきたような印象が男にはあった。
いくら歩いてもいっこうに晴れることのない霧を、しだいに男は興味深く思い、その霧を注視しようと努めていた。空中に溶けた白は、待っていても純粋な色を男に与えず、薄まって見える屋根のペンキやコンクリートに混じっており、男は首をかしげる。ふと、振りかえった男はそれまで歩いてきた道がすでに、数秒前の固いアスファルトとはちがったやわらかい色を発していることに気がついた。
四方から強く押さえつけられているように感じた霧は、歩くたびすこし前方に晴れてはまた後方に立ち込めるのだろうと男は納得し、もしかするとこのまま歩いていれば霧のなか誰かと出くわすのではないかという期待の感覚が虚しさで詰まった身体に溜まりはじめる。
「おうい」男は誰に向かって言うともなく言葉を投げかけてみる。
声はまたたく間に霧に吸い取られ、しばらくの後、音のない霧の向こうから呼応するように犬の鳴き声が周囲を裂きながら響いてきた。男は身体に霧をまとっているような気持がして、思わず走り出し、足音と共に深い霧のなかに紛れ込んでいった。
うかりける 人を初瀬の 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを
百人一首の歌である。好きな相手に「こっちむけ!」と初瀬観音に祈ったのに、まさか初瀬の山嵐のようにもっと激しく嫌われるなんて……という意味である、と鳥飼は解釈している。
鳥飼は子供のころ、ボーイスカウトの正月合宿で百人一首をやらされた。この歌が嫌いであった。周りのみんなが、この首をウカハゲとよぶからである。
ウカとくればハゲ!
ウカイのハゲ!
鳥飼は顔を蛸にして怒ったので、ウカといえばタコ、ウカタコ! とあだ名までついてしまった。その結果ウカリケルでタコを探す混乱が生れたのも今は昔である。
会社の昼休みに公園で弁当をつかいながら、鳥飼はときどきウカハゲの歌を心で詠んでみることがある。のみならず、百人一首そのものが今は好きであった。
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
衣かたしきひとりかもねむ
「虫が鳴く寒い夜に着物に片袖を通してひとりかあ、と思った」という歌など、鳥飼はなんとなくいいなあと思うのである。
鳥飼は年始を独りで迎え、仕事が始まると次の三連休を待つことがせいぜいの楽しみと期待であった。休みには日本民藝館に行こうと一人計画をたてた。こういう時間が好きであった。
連休を迎え、手帳通りに渋谷の喫茶「猿」へ寄る。この薄暗がりの店に昔の思い出がある。いつもの珈琲を飲んでいたら、隣に芸能人らしい男が座った。詳しく名前を知らないが「ラーメンひやむぎボクいけめん」というキメ台詞を使う芸能人であるらしい。深刻に「ラーメン…」と呟いていた。病人のようであった。鳥飼は自分の肘や膝を眺め(ぼくGメンは?)と書いて手帳を破ったが渡しそびれて店をでて、駒場へ歩いた。
計画は裏切られるものである。鳥飼はそのまま民藝館によるつもりが、つい近代文学館にふらふらと向かった。このひきしまった建物がみたくなって、引き寄せられたのだ。庭の玉砂利を子供のように手でその感触を楽しんでいると、驚いた声で呼び止められた。
「あ鳥飼さん? どうしてこんな所に」
「ええまあ」
「しかも石触って何してんですか」
「いやまあ」
「文学好きなんですか」
突然の、後輩の女子を前にして鳥飼は覚束なかった。僕は文学そのものになりたかった……と鳥飼は思ったが彼氏が待っているらしい彼女はお辞儀をして足早に行ってしまった。
鳥飼はこんなとき、亡き妻のことをどういうわけか思い出すのである。
山根俊郎は、重い頭を振った。
目覚めた時、一瞬なにが起きたのか?判らなかった。
ここは、どこなのか?いつなのか?なぜここにいるのか?頭の中がパニックになっていた。微かに憶えているのは昨日、谷口壮一郎と飲みにでかけたところと飲み屋で女と合った。その後が思い出せない。ただ、楽しかった記憶が蘇る。
それにしても、今自分が居る場所は、なんとも得体の知れない空間だ。ベットに上半身だけ起こした。起きる時にバランスを崩しそうになる。支える手がベットに沈みそうだ。広さは、20畳ぐらいはありそうだ。天井は、高く広々した感じがある。正面には、大きな水槽があり熱帯魚が泳いでいる。水槽はとても大きい。何という大きさだ。特別に注文しないとないくらいの水槽なのだ。泳いでいる熱帯魚も小学校の頃見た図鑑にでてきそうなものばかりだ。熱帯魚か。
左側には、らせん階段がせり上がって頭上に伸びている。その先は薄暗くて見えない。らせん階段の横には、観葉植物がらせん階段に絡みつきそうな感じで伸びている。植物の名前は思い出せない、とにかく大きい葉が印象的だ。部屋の出口は、らせん階段にはないようだ。その位置から手前の白い机の上にパソコンが置かれている。
花柄のカーテンレース越しにささやかな明りが差込んでいる。
懐かしい風景。
「おはよう」綺麗な声。懐かしい声。
女の声。昨日の女の人?「おはよ」俊郎は思わず答えてしまった。どこかで聞いた声で記憶をスクロールする。昨日の女。
「ココは何処なんだ。」
女は「あなたの居場所よ」と答えた。
俊郎の前には水槽の中の熱帯魚が泳いでいる。
女は、目の前の姿は見えない、まさか魚が話しかけているのか。馬鹿げている思考が麻痺している。夢か。
そうだ、夢なんだ。昨日飲み過ぎて今は夢を見ている。
俊郎は「居場所って、どういうこと」と聞いた。
「・・・・」答えない。やっぱり、夢だと俊郎思った。ふと無性に、昨日の女に会いたくなった。
「君に会いたい」と俊郎は言った。カーテンが開いて女が現れた。「ようこそ私の家へ」と女は微笑んだ。
女とは昨日初めて会ったが何年も何十年も前から知っているような感じがする。暖かい気持ち。
「君が僕の居場所?」
世界を支配するために必要なのは権力か、財力か、あるいは武力か。古来多くの者がそれぞれの方法で支配をもくろみ、しかし未だ誰も完全な支配をなしえていない。それは方法が間違っているからだ。支配に必要なのは、未来を知り、それを握ることだ。だから俺は、アカシック・レコードと呼ばれるこの世界のすべての事象の記録を探していた。
異郷の街、あるいは秘境の地を、一人で、あるいは仲間と組んで求め歩いた。危険など元より承知の上だ。最も油断ができないのは、同じ目的を持つ仲間だ。誰もが他人を利用するだけ利用して最後に葬り去ろうとしている。数え切れないほどの死を見、俺自身も多くを殺してきた。罪悪感など、世界の支配には無用のものだ。支配とは生殺与奪を握ることに他ならない。
人を殺すことばかり上手くなった。俺はすでにその筋では名が通っており、接触を試みる者、つまるところ俺を殺そうとする者がごまんといる。しかし手がかりを得るためには、そのような者に俺の方から接触しなければならないこともある。そのすれ違いざまのひらめきの中、俺は辛くも生を拾い続けていた。
ある村に予言の祭壇があると言う。よくある話だ。予言などと言うのは大抵、適当に言ったことを事実にこじつけるものだ。しかし俺は村へ向かった。確実な情報などあるはずがない。しらみつぶしに当たるだけだ。夜影に紛れて、俺は村の祭壇へと忍び込んだ。
祭壇にあったのは、夜の闇よりもなお暗い、漆黒の小さな球体だった。手に取ると、情報が血液のように俺と球体の間を循環しだした。俺はその中からこの瞬間の事象を探した。本物ならば俺がアカシック・レコードを手にしたことが記録されているはずだ。
あった。間違いない、これが本物のアカシック・レコードだ。これで俺は未来を握ったのだ。手始めにここから無事に脱出するために、村人の行動を読み取ろう。俺はこの村の直近の未来の事象を探した。人が死ぬ。またいつものことか。誰が……俺?
瞬間、喉から噴き出したものが球体を持っていた手にかかり、俺の中を流れていた情報も、それと一緒に噴き出してしまったかのように途切れた。ようやく俺は間違いに気がついた。たとえアカシック・レコードを握ったとしても、アカシック・レコードの支配からは逃れられないのだ。俺はその絶対の真実をすべての者に知らせたかったが、その方法はアカシック・レコードには記録されていなかった。
夕日が差し込む教室は茜色に染まり、昼間の喧騒が嘘みたいに静かでよそよそしい。見慣れているはずの黒板が他人行儀な顔をして放課後を見下ろしている。
私の席から、ひとつ左でふたつ前のこの机。
「いいよね」と呟き、椅子を引いて座ってみる。
すると、いつもより少しだけ高い位置で辺りを見渡せた。
「ふうん。こんな感じなんだ」
彼に近づきたくて、同じ目線に自分を置けば、なにかが変わると思った。でも彼の素心までは解らない。
手もとに視線を落とすと、落書きが幾つかあった。ここは彼の時間そのものなのね。ぼんやりと眺めていた机の端に、小さく刻まれた名前をひとつ見つけた。ほんとうに目を凝らして探さなければ見落としてしまうくらいに小さく、その名前は刻まれていた。
「紗希」
見たくなかった名前。いちばん聞きたくなかった名前。幼馴染で唯一の友達。
授業中も昼食時間も、彼はこの名前と一緒なのね。
私は、この憎たらしい名前をぐしゃぐしゃに塗りつぶしてやりたくなった。でも、よく見ると、とても丁寧に書かれている。きっと、想いを籠めて書いたのね。この落書きを汚すことは、なんだか彼自身を辱めるような気がして。手に持った鉛筆は床をころがった。
なにやってんだろ、私……。
振り返り、斜め後ろへ目を向けた。そこは私の居場所。彼からは、こんな感じに映っていたんだなあ。
自分の席を見詰めていると、今日あった様々なことが思いだされてきた。がらんとした教室に再現フィルムが上映され始める。無人の教室に、半透明なイメージだけの人間が行き交う。ふざけあう男子に、ゲラゲラ笑う友達。なにがそんなに可笑しいのかな。暖色系の空気に充ちた教室。なのに、ひとりだけ褪めた瞳をした生徒がいる。それは私。
誰とも話さず独り、もみじの葉をつまみ眺めている。鮮やかな色に染まった葉は、弛んだ指の隙間を滑り、真っ白なノートの上を舞った。どこか、滴り落ちた涙の跡のようにも見える。
それは、流れた私の血そのものだったのかもしれない。
不意に、廊下から足音が響いてきた。
まどろみかけた幻想は粉々に霧散し、慌てて立ち上がろうとしたが足がもつれ思うにまかせない。
振り向くと、ドアの外にアイツが立っていた。
「そこ……俺の席」
とたんに頬が熱くなり、胸の鼓動が跳ね上がる。もう言い訳なんてできない。
私は直視することもできず「さよなら」と、ひとこと残し、教室をとびだした。
すごく可愛いなこのナイフは。きっと少女たちの自殺用としてバカ売れなんだろうな。このソファもすごいな。こんなに死体を美しく寝かせるソファを考えてつくんだなイタリア人は。そんなことばかり考えてるイタリア人ってやっぱすごいな。
「ところでさ、これ知ってる?」
「なあにこれ」
「パンダメーター」
「ふうん」
「使った人のパンダ度が解るんだって」
「パンダ度?」
「その人がどれくらいパンダなのかが解るんだって」
「へえ」
「このボタン押してみて」
「あ、なんか光った」
「0824だって」
「なにその数字。0824ってどうなの? 低いの? 高いの?」
「1200がマックスだって」
「ふうん、じゃああたしはけっこうパンダだね」
「ぼくもやってみよう。えい。よし、いくつ?」
「0522って出てるよ」
「え、マジで? ちょっと見せてみて」
「はい」
「ほんとに0522だ。えー、おかしくない? 低いよ絶対」
「そうだね、ごめんなさい」
「いや、きみがあやまること無いよ。もう一度やってみることにしよう。えい。どうだ?」
「0442だって。下がっちゃった」
「下がっちゃったの? おかしいな下がっちゃうのは」
「ごめんなさい」
「いやだからあやまらなくていいって。しかしおかしいな。こんなに低いのは絶対おかしいよ。おかしい」
「ごめんなさい」
「ああもう、パンダメーターなんて買うんじゃなかった」
無言のまま街を歩く。ぐるぐると回る。吐くまで踊る。
犬と、その番犬がぼくらを見ていた。
犬はわん、と鳴き、その後に番犬がわん、と鳴いた。
わん。
わん。
がやがて
わん。わん。
を経て
わんわん。
になっていき
わわん。
になってまた
わん。
わん。
や
わん。わん。
や
わんわん。
になったり
わわん。
になったりを繰り返して
わん。わわん。わわん。わんわん。わんわん。
わわん。
となり、
わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。わわん。
がずっと続いたあと犬とその番犬は同時に鳴いて
わん。
になった。
一つになるってこういうことか、と思った。
あるところにカタマタクラという名前の男爵がいた。男爵は学も金も無いがそれに悩まず、日々のささいな幸せをかみ締める、実に結構な暮らしを送っていた。
毎日の朝食も質素で、ジャムかバターを塗ったトーストと熱いお茶だけ。トーストにバターを塗ったら次の日にはジャムを、前の日がジャムだったら今日はバターを。というように一日ごとに交互に塗るのが癖だった。
さてそんなある日。男爵はいつも通りの朝食を始めようと思ったが、トーストを掴んだ手が途中で止まった。昨日はどちらを塗ったかが思い出せないのだ。
ジャムだったような気もするが、バターだったら大変だ。記憶を探ってみたものの、食べた記憶は出てきても、それがいつのことかがわからない。
さあ男爵は弱り果てた。どっちを塗るべきか不明なのにトーストを食べることはできない。このままでは永久に朝食を摂れないではないか。
右手にバター、左手にジャムを持ったまま唸り声を上げて悩み、やがてトーストはすっかり冷め果てて給仕に下げられてしまった。空腹では仕事もまったく手につかず、男爵はお昼まで上の空で過ごした。
昼食はトーストではなかったので迷わず平らげ、少しは元気を取り戻した男爵。止まっていた頭脳も再び回りはじめ、自分の屋敷に生き字引と呼ばれる齢百の老園丁がいることを思い出した。そうだ、彼なら解決策を教えてくれるに違いない。さっそく男爵は老園丁を大声で呼んだ。
老園丁は庭の片隅で午睡を楽しんでいたが、稲妻のように響く男爵の声で起こされた。不満げな顔でやって来たが、男爵がいかにも深刻そうな顔で、ジャムとバターのどちらを塗るべきかわからない、などと悩みを相談するのを見て、たちまち呆れ顔となった。だが寝起きとはいえさすがは生き字引、すぐに答えを返した。
「明日から両方塗るようにすればいいのでは」
男爵はこれを聞いて大喜び。それは実に名案、さすがは生き字引、と賞賛の言葉を浴びせ続け、老園丁のその日の昼寝をすっかり駄目にした。
さて次の日の朝。爽やかな顔で目覚めた男爵は、さっそく朝食のテーブルについた。さあ今日は両方を塗ってやるぞ、と意気込んでトーストを手に取ったが。はて、どちらから先に塗ればよいのか。
バターを先に塗れば油でジャムを弾きそうだし、ジャムの上からバターを塗るのは難儀な作業に思える。またしても男爵は弱り果てた。
そして老園丁は今日も叩き起こされる。