第81期 #39
どのくらい眠っていたのか。屋上から大の字で見ている空は夕暮れ、遠くで蛙が鳴き始めていた。
ふらつく足に喝を入れて立ち上がり、やっとの思いで手摺に背を預ける。そのままビルの山に沈みつつある太陽をしばらく眺めた。
向かいのビルでは逆光に隠れるように人の影が蠢き、手摺は境界線のように思えた。
ふと足元に目をやると置かれたままの肩掛け鞄が目に入る。黒いナイロン製のよくある会社員のそれだ。辺りに人気は無い。
落とし主も困っていることだろうと交番に届ける考えが浮かんだが、ここからだと少し距離があり躊躇う。かといって見過ごすこともできない。
ここはひとつ中身を検め、大事であれば交番、住所が近ければそこへ、ごみなら見なかったことにしようと決めた。
鞄の中には雑多な書類に紛れてウイスキーの小瓶と手帳、厚みのある使い込まれた財布が入っていた。
手帳には日々の恨みつらみが書き連ねられている。
「僕は異物だ。消えてしまいたい。だけど君の事を思うと辛い」
最後のページにはそう書かれていた。財布に免許証と写真が挟まっている。写真には海外の風景の中寄り添う二人の姿が写っていた。夫婦なのだろう。
男の妻は美しい人だった。覚えのないその人。突然燃え上がるような欲情にかられ今すぐにでも抱きたくなった。
免許証にある住所はここの近所だったのでこの人を一目見てやることにした。
そのとき階段を駆け上ってくる数人の足音が響き渡り、にわかに辺りが騒がしくなった。
破るように扉を開け、誰もが自分などには目もくれずに手摺に駆け寄り、身を乗り出して声を上げる。
気が滅入る。まさか飛び降りたとでもいうのだろうか。
手帳に吐き出された愚痴は仕事が上手くいかない、人間関係が上手くいかないなど実にくだらないものだった。
そんな理由で死んだのか。馬鹿馬鹿しい。上手くいかなければ捨ててしまえばいい。
それにこんな魅力的な女性を妻に迎えてなんの不満があるというのか。写真のこの人は情に厚く懐が深いはずだ。きっと力を貸してくれたはずだ。
この鞄はいただいていこう。やつにはもう無用のものだ。
そしてこの女を犯す。そう決めた。
蛙の声にサイレンの音が混じる。それをかき消すような雑踏。これから抱く女の柔肌や嬌声を思うと自然と胸が高鳴った。
ドアノブを握り扉をくぐる。
塗り潰すような影の中、向かう所に帰るという思いが込み上げ目から涙が溢れた。