第81期 #38
「本日は神戸肉を用意しました」
音声と共に、ある視覚情報が私に飛び込んでくる。それは、美しい霜降りの走った一級品の牛肉。生のままでも私の空腹を呼び覚ますには十分だった。
「これを溶岩プレートで旨味を逃がさずに焼きます。お客様、焼き加減は?」
「ミディアムで」
「かしこまりました」
『彼』は綺麗な色をした牛脂をプレートの上に走らせ、それを刻み隅に寄せてから肉を塊のまま乗せる。瞬間、脂の弾ける音と肉本来の香りが私を襲う。こうして目の前で実際に焼いているのを見るのはやはりたまらない。最高の贅沢だ。
肉が見る見るうちにその色を変えていく。『彼』は次にやたら刃の長い包丁とヘラのようなものを取り出す。そしてヘラで肉を固定し、包丁で肉を切り始めた。素早いその動作を目で追う内に、不思議な感動が甦ってくる。
――これは、あれだ。
母が林檎の皮をあっという間に剥いて皿に並べていくのを目の当たりにしたときと同じだ。あの、鮮烈で謎めいた衝撃。
やがて全ての肉が一口大にカットされ、何度かヘラで返された後、私の皿に盛られる。
「お待たせしました。塩で軽く味付けをしてあります。勿論そのままでも結構ですが、当店特製のソースか挽きたての胡椒でも美味しく召し上がれます」
私はすぐにフォークとナイフを手に取る。
まずはそのままで食べる。美味い。
次はソースで食べる。これも美味い。
さらに胡椒で食べる。これが一番美味い。「いかかでしょうか」
「美味いよ」
「ありがとうございます。来月は米沢牛などいかかでしょうか」
「是非お願いしよう」
そうして至福の時間は終わりを告げた。私は装着していたヘルメット型擬似五感デバイスを外す。そして指定された投入口に一万円札を入れる。
「またのお越しを」
『彼』の声が私をそこから追い出す。
前世紀末に某ウイルスで牛が地球上から死滅して以来、我々はヴァーチャルの世界でしか牛を食すことができなくなった。月に一度の贅沢、それが我々にとっての『牛肉』なのだ。
しかしながらいつも思う。私達が本当に食べたいものは『牛肉』なのか?
ぐぅ、と唸る腹。
私が指を鳴らすと立体映像の時計が表示される。
もうこんな時間だ。妻が夕食を用意して待っているに違いない。今朝はカレーカプセルだった。だから今夜もカレーカプセルだろう。