第81期 #18

母の十字架

母がカトリックということを、私はあの日まで知らなかった。あの日というのは、もともと体が弱く働くことができなかった父がついに体調を崩し、最後の入院をしてから二ヶ月ほど経った、あの日である。
あの日、私は夕方のアルバイトを終えてから、病院へ向かった。その頃の父の容体は重く、体に刺さった色々な管が父の命を支えていた。
エレベーターを父のいる3階で降り、目の前にある自動販売機でお茶を買っていた。ガタンという音と共に現れたペットボトルを取り出そうとすると、ガラガラッとドアのあく音が薄暗い院内に響き渡った。一瞬、母が来たのかと思ったが、ここに来る前に電話で、今夜はパートで遅れると言っていたのを思い出した。ここから出たくないと強情に言い張るペットボトルを力ずくで取り出し、父の病室へ向かった。
ドアを開けて目に入ったのは、静かに眠る父だった。口元が笑っているようにも見えた。薄暗くついている電気はそのままに、そばに置いてある冷たいパイプ椅子に腰掛け、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。そしてもう一度父に目をやったとき、私はやっと異変に気づいた。父の命を支えている管が、一本残らず全て抜かれ床に垂れていたのだった。立ち上がった私は驚きで固まってしまった体を力づくで動かしてナースコールを押し、大きな声を出した。
「誰か来て!」
視線は椅子の足元に取られた。自転車の鍵が落ちていた。一瞬、呼吸を忘れた。
バタバタと近付いてくる足音を聞きハッとすると、すぐにそれを拾いジーンズのポケットにしまった。
蛍光灯が煌々と付き、いつのまにか医師がきて、初めは一人だった看護婦も何人か増え、父を囲って何か慌ただしくしていたが、私は一歩退いたところでぼおっと立ち尽くしていた。無意識に助からないことに気づいていた。
握っていたペットボトルをつい落としてしまったとき、ハッとした私は、呼吸を意識した。
息を吸うと、いつも優しい父が、頭を撫でてくれたときの感触を思い出した。そして息を吐くと、台所で私たちのやり取りを微笑ましそうに眺める母の姿が思い出された。それから先程の、笑って横たわる父の顔がわたしの視界を支配した。もう一呼吸した私は、医師たちを横目に病院の外へ向かった。
 向かった先は駐輪場だった。母が立っている。十字架を両手に持ち、背中を丸めながら。母の体は震えていた。



Copyright © 2009 井上新雪 / 編集: 短編