第80期 #36
袋をもって兄が部屋に入ってきた。
「芋七、夏やし、掛布団つかわんやろ」
「ん」
布団を詰め込んだ袋の空気を、兄は掃除機をつかって抜くといいだして、僕はそんなことできるのか、と参考書を放り出して兄の顔をみた。
空気がぬける。フワフワだったのがあっという間にせんべいになる。
「ほれみてみ。すごいやろ」
「おお!」
「もう一回やったろ」
兄が得意げにファスナーを開けると、みるみるうちに羽毛へと戻り、もう一度同じことを繰り返し、もう一度僕は「おお」と声をだした。
「兄貴は死んでしまったわけでもなく、三年に一度くらいは家族で会うこともあるのに、どうでもいい話が楽しい時間でもあるってことが、いつのまにかなくなったよ」
奈都子は芋七の話を聞いて、芋七の兄さんを想像してみた。ちょうど奈津子と芋七は美術館のワイヤーメッシュの椅子に座って「兄弟」という絵をみているところだったのだ。少年二人が肩をくんでいる。二人とも野球帽と揃いの赤シャツに半ズボンで、小さい方が芋七に似ていると奈都子は思った。
「私はこの絵をみてると、玉子焼とか照焼きとか煮物とか詰め込んだお弁当のことを考えてしまう……」
奈都子はそう言って、しまった、と思った。
(芋七が珍しく兄さんのことを話してるのに食べること考えるなんて私ってば)
「そやなあ。忘れてるたのしいことやおいしい味がいっぱい、きっと、いっぱいあんねやろなあ。コード化されて脳みそにしまいこまれた想い出たまたま引き金ひかれてでてくんねやろ」
「あ!」
関西弁なんか捨てたと奈都子に話した芋七の、初めて話す関西言葉だった。まもなく天窓から淡い光。奈都子は芋七の腕に手をまわし、二人は立ち上がる。
一人の女が公園で号泣する男の背中をみていた。彼氏に裏切られ、やけくそで仕事をさぼっている公園で突然雷雨にあって「人生ままならぬ」とグレていた女は、わけは知らなくとも自分と同じような悲しい人をほっとけなかった。声をかけた。
その男とは、芋七の兄で自称作家だった。散歩中に自作のラスト<女を肩車して銀座を歩く猿の後姿>を想像したら、格好よくて満足で泣いてるだけだった。
「ねえ」
「俺、作家」
「あたし雑貨屋」
あいまいな自己紹介の後、作家は「二人でフジヤマつくろう」と女を砂場へ誘った。夢中で泥の富士山をつくった二人は目茶苦茶に蹴り壊した。まもなく雲間から太陽。女は作家の腕に手をまわし、二人は立ち上がる。