第80期 #35

紅玉

 今日こそ厳しく叱り付けてやるんだ。
 隆宏はそう意気込んで扉を開けると玄関には美味そうな香りが立ちこめていた。
 宏幸の泣き声がしないことに少しの違和感を覚えながら暖簾を手で掻き分けるとテーブルには食事が一人分用意されている。真白い皿に一口大のステーキと赤ワインソース。奥のソファに宏幸を子守帯に包んで抱いたまま座っている美幸。傍らにはきちんと畳まれた携帯電話。
 縦に抉れた美幸の手首と子守帯からは赤いものが滴り落ちて床に広がり、眠ったような二人の表情からは何も窺うことが出来なかった。

 僕は何も悪くない。誰だってこうするさ。
 隆宏はそう自分に言い聞かせたが、言い訳は罪悪感を払拭することもなく、免罪符にもならなかった。
 顔を洗うために捲った腕の蚯蚓腫れはひりつき、水を掬うと肩甲骨が割れるように痛む。幸い顔は無事なので出社に問題はない。丸めたタオルの包みを破って濡れた顔を一拭いしベッドに腰を降ろす。
 身包みを一枚一枚剥ぐような執拗な質問攻めに耐え切れず思わず家を飛び出してしまったが、美幸は置き去りにされたことを恨んでいることだろう。
 狂ったように泣き叫んでいる美幸を容易に想像でき胸が痛む。だが帰ったときの報復を考えると同情してばかりもいられなかった。

 発端は上着のポケットに入れたままの新幹線の切符だ。美幸はそれを見て不倫旅行と決め付けた。不安からの疑念とはいえさすがにスケジュールの分単位の空白を全て記憶してあるわけじゃない。トイレか煙草か、コンビニに寄ったのかもしれない。
 そういった隆宏の曖昧さは美幸を激情に駆り立てた。晩飯も取らずに言い合いになったが、隆宏はこれ以上無駄な金を使うつもりはなかった。シーツを引き出して包まると睡魔は緩やかに隆宏を包み込んだ。

 眠りについてしばらく、携帯電話が鳴り、美幸からの連絡だと直感した隆宏はおぼろげな意識のまま慌てて確認した。
「あなたへ。
私があなたの足枷になっていることはわかっていました。でも諦めきれなくて。
宏幸だって元々わたしの我侭で作った子供ですもの。あなたには無理を言ってばかりでした。
でも今日で全て終わりにします。最後にあなたを一度だけ深く傷つけることを許してください。
さようなら。
美幸」
 添付されている画像には、首を締め上げられて玉のような顔を赤く膨張させた宏幸が写っている。
 直ぐに美幸に電話を掛けたが呼出音が鳴り止むことはなかった。



Copyright © 2009 高橋唯 / 編集: 短編