第80期 #25

能面の話

 ――能を舞うときに用いる面のような表情がよいと思います。
 女は口角を上げ、静かに笑っている。
 ――能面のような顔?
 彼が訊きかえすと、女はちいさく、ふふふ、と息をもらしてなにも答えなかった。女はそれっきり黙って、彼のほうを見つめていた。ととのった筋道を立てられない彼も押黙っていた。
 隣のテーブルから、携帯電話のバイブレータ音が振動していた。耳のあたりが痺れているのか。彼はすこしぬるくなった水を飲み、女の顔を見つめかえした。女はなにを見ているのだろう、俺の顔か、いやしかし、背筋を伸ばしてこちらに顔を向けてはいるが、視線の先はどこか他にあるように思える。なにも見ていないのかもしれない。
 通りに面した窓ガラスから、うすぐらい店内に昼下がりの日ざしがはいりこむ。顔の半分だけを照らされた女の顔は、鼻筋を境にしてきっぱりわかれていた。それでも女の顔つきは印象を変えなかった。凝視をつづけているうち、顔のまんなかに裂け目がはいりはじめた。
 傷の類ではない。瓜の表皮だけをまっすぐ包丁で切ったような、うっすらとした一本の線だった。眺めていると、眼差しが吸い込まれてゆくのではないかと思う。
 黒っぽく見えるすき間の奥に、脈打ちながら血が流れているのだろうと彼は思った。血の管をたどってゆけば、心臓につき当たる。轟々と高い熱をもって活動する女の心臓がある。管は手に通り足に通り、また乳房に、顔に通っている。彼はひたいに汗を溜めていた。裂け目へ侵入すれば、そのまままっすぐ進めばいい。
 女の表情が、精気を失っているように感じる。線は時間の過ぎるごとに目を引き込んでゆくが、それでもただの線だった。奥、奥、と彼は心に呟きながら足をゆすりはじめた。彼はまえへ上半身を乗り出し、裂け目に眼をちかづけた。日ざしと陰のあいだにある裂け目の先には、もうひとつ裂け目が見えた。裂け目が襞のようにうねっているとすれば、この視線は屈曲してついに消えてしまう。
 彼は背もたれに身体をあずけた。椅子の軋る音がして、天井の蛍光灯が点いていないのを見た。テーブルの脚に埃がまとわりついているのをつま先ではらいながら、彼はふたたび顔を上げた。女の顔があって、くたびれた壁紙があって、隣のテーブルでは男と女が話しており、窓ガラスの向こうに大型トラックがエンジンをうならせていた。
 ――よい表情だと思います。
 女はゆっくり口角を上げて笑った。



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