第80期 #23

空色

 初夏の山と一体化したかのような木造小屋。扉を開き廊下を進めば直ぐに大きな部屋に出る。相変わらず油の匂いが広がっていた。入って左側の壁は一面ガラス張りになっており、木々が写真の様に切り取られている。床には幾多の筆や油絵具。家具と呼べる物は小さなベッドのみで、その上には服が散乱している。その乱雑とも殺風景とも言える部屋の中心に、カンバスに向かう彼女がいた。

 ゆっくりと彼女に近づき肩を叩く。彼女は驚いた表情を見せた。僕は彼女の顔をしっかりと見つめながら話しかける。
「何を描いているの?」
「色即是空」
「なんだいそれは?」
「わからないけど」
「想像で描いているって事?」
「どちらかというと妄想だね。又は本能」
「成程」
 彼女の肩越しにカンバスを覗き込んでみると、森の中にいる少女を描いた印象主義的な絵があった。色白な少女は、物悲しげな顔でこちらを見つめている。色即是空という物は分からなかったが、それはとても美しい絵だった。何より僕は彼女の絵が好きだった。
 僕はベッドの上に座り、持ってきた林檎を齧る。甘さの中にいくらか酸味が感じられるのは、最近雨が多かった所為だろう。リンゴの香りを感じてか彼女が振り向いた。僕は齧りかけの林檎を見せたが、彼女は「いらない」と言ってカンバスに視線を戻す。ふと自分の周りを見てみると、彼女の寝間着が緑と白の絵具で汚れていた。いつからこの絵を描いているのだろう。尚も彼女はカンバスに絵具を重ねている。

 体を揺さぶられて眼を醒ます。瞼を開くと目の前に彼女の顔があった。「できたよ」と彼女が言う。僕はいつから眠っていたのだろう。外の木々が赤く染まっていた。僕は立ち上がるとカンバスへ向かう事とする。
「これで完成なの?」
 僕は彼女の方を向き直してから問う。カンバスは無数の色で塗り潰されていて、僕がさっき見た筈の森と少女は消えていた。
「本能に従った結果こうなったのよ」
「女の子はどこに行ったの?」
「空になったんだよ」
「じゃあこれが空なの?」
「そういう事になるね」
「成程」
「わかってないでしょ」
「うん」
「まあ私もわからないから」
 そう言って彼女が笑った。顔に付いた絵具が彼女を一層美しく見せている。僕はただそれだけで幸せだった。
 まあこれはこれで良い絵だ。絵だって描かれる過程が大切なのかもしれない。

 色は様々空は一つ、音は無くとも僕らは変わらない。



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