第80期 #16
私の祖父は母の話の中にのみ存在していた。
「この国が独立して、こんなにも私達が豊かに生活できているのは、あなたのおじい様のお陰なのですよ。三百年前、おじい様の書いた一冊の本が、この国の民を奮い立たせたのです」
私はかつて彼の肖像画を見たことがあった。家系図も確認したことがある。しかし彼の存在意義は、すべて母の語る昔話の中に収束されていた。そして彼の一族もまた、その各々の存在を、まとめてその中に収められる。つまりは、今まさに、この私もその中へ吸い込まれつつあるのだ。
しかし、そんな哀れな末裔たちが解放される日が、ようやくやってきたようだ。
帰宅した父の顔はいつにも増して白かった。私は窓の外を見た。私達の宿舎を囲むようにして、数え切れないほどの目がこちらを見据えている。憎しみでも、興奮を湛えるわけでもなく、ただ何か、何か時を待っているような目。
父は何も言わずに壁のサーベルを取り、柄の紋様をうつろな目で見つめた。
サウザン・オーシャン・カンパニー。
貿易会社という名のこの征服者集団の命は、もはや風前の灯だった。ここ十数年の劇的な産業革命、世界市場の移動、世界各国の盛衰の結果、今や内外の圧力に押しつぶされた国家のもとで、この離れ小島の存在は、もはや人々の記憶から消え去っていた。あとに残されたのは、数代前から酷使され続けた原住民、そして私達。お互い、背後に存在するものはもはや何もないと言ってよかった。互いに孤独だった。しかしそれを、非を理にねじまげる詭弁だと言われれば、返す言葉がなかった。返す意味ももはやなかった。
父は無言で剣を磨く。無理だ、父さん。もう私達を助けてくれるものはない。
しかし弱い私は希望を捨てきれなかった。その私がようやく希望を捨てた時、私は地を這っていた。大地、そして私を踏み鳴らす数え切れない程の足が通り過ぎていく。彼らは一体、何処に向かって走っているのか。何を思っているのか。怒りか、喜びか。そして何故私は地に伏しているのか。わかるようでいて、私は結局何一つわかってはいない。
耳はとうにつぶれていた。
しかし、どういうわけか、母の声が聞こえる。
「この国がこんなに豊かになったのは、あなたの……」
間違いなく聞こえる。
しかし耳をつぶされた私には、それがどこから聞こえてくるのか分からなかった。遥か空の彼方からかも知れないし、遥か地の底からかも知れなかった。