第8期 #21

散桜花

 スズ子は不器用な教師だった。それでも彼女の下手なオルガンに合わせてうたった歌は、少年の宝物になった。
「よくできましたね」
 そう言って女が、教え子の坊主頭をなでると、たちまち轟音が響く。両翼の巨大なエンジンが間断なく唸り、プロペラが切り刻むのは九州の南、沖縄へと続く洋上の雲海。搭乗員は各々の持ち場から天空をにらむ。
 ひとり腕を組んで瞑目し、椅子に腰かけていた青年は、彼ら最期の恩人に黙礼して足元の愛機に降り、新兵器の一部と化した。
 青年は「桜花」に魂を捧げたのだ。爆撃機の寸胴に吊り下げられたこの小型飛行機は、国産初の実用ロケットだ。しかし自力では離陸できず、その機体の前部を満たすのは、一・二トンの火薬。
 やがて母機が前傾し、降下を始めた。
「敵機!」
 誰かが叫んだ。青い戦闘機の群れが列を崩して、この特別攻撃隊に踊りかかる。護衛の零戦はない。
 敵と味方、双方の機銃が大気を破った。母機から突き出した銃身が、青い鳥を追う。数度、被弾の音に続いて、機体がかすかに揺れた。爆発音は僚機だ。桜花を抱いたまま火球となって海へ還ってゆく。
 青年は小さな操縦席から仲間を見送った。じきに再会できるだろう。母親とも会えるだろう。母の面影は粗末な墓石だ。だから彼の胸に流れるのは、あの歌だった。脳裏によぎるのは、駅で万歳を叫んだ人。その頬。
 僚機がまた落ちてゆく。一機、また一機。青い鳥たちも必死だ。桜花が母機を離れたら最期、その速力には追いすがる術がない。
「見えた。見えるぞ」通信良好。雹のように打ちつける被弾音の向こうから、機長のだみ声が言った。「頼んだ。俺たちの仇を討て」
 母機は安定を欠いている。青年は操縦桿をにぎって、はるか前方に艦隊の影を見た。
 桜花がふわりと母機を離れた。爆薬の重量に任せて滑空し、大型空母を見定めて飛んだ。ロケットが火を吐いて純白の機体が加速する。遠ざかるその後ろ姿を、最期の恩人たちが水柱で見送った。
 必中、必中、必中――新兵器に宿った若い魂が、繰り返し念じる。弾幕の先に敵の甲板が迫って、声を聞いた気がした。
「よくできましたね」
 銃弾の嵐に片翼が吹き飛んだとき、眼前の空母に代わり、桜花は白く渦巻く海面を一瞥した。
 そして疎開先のスズ子は、川べりで大樹を見上げた。風に散った花びらが一枚、手の甲をかすめて落ちた。不器用な教師は、頬伝うものの意味を知らず、それを拭えもしなかった。



Copyright © 2003 紺詠志 / 編集: 短編