第8期 #2

春疾風

 江戸の町家は弱い陽を受け夕闇に沈もうとしていた。風がきつい。弥勒寺境内の雑木が黒く揺れている。
 堅川二の橋通りに行き交う人影は少なく、皆足早に先を急いでいた。お加代は襟元から吹き込んでくる風に肩をすぼめて弥勒寺橋に向かっていた。笊屋とすれ違う。肩に振り分けて担いでいる笊が風に煽られ、今にも崩れそうに大きく揺れていた。山のように担いでいる笊は一つでも転がれば、たちまち全部崩れ風に飛ばされてしまいそうだった。
 お加代は足を止め笊屋を振り返った。笊が崩れるかもしれぬ危うさが気になったのは確かだが、それだけではなかった。笊が方々に散っていくのを見たいような、そうなったときに親切ぶって手を貸してやりたいような、そんな気もした。きっと今の自分もそうなのだ、とお加代は思い当たった。この危うさに裏店のおかみさんたちや勤めている蕎麦屋の親爺さんは気になって仕方がないのだろう。
 お加代の博打好きの亭主の借金はひどくなる一方だった。別れてしまえと周りから言われながらも、その都度お加代は金策に走りなんとか切り抜けてきたが、それも限度があると思えてきた。今朝も飲み潰れて眠り込んでいる亭主の青黒い顔をちらりと見たきり、すぐに家を出てきた。あれから仕事に行ったのだろうか。いや、あんなに酒浸りでは身体に力が入らずもっこも担げやしない、普請場に出てても使いものにならずに追い返されているかもしれない。腕のいい大工だったのに眼病を患ってからは細かな仕事ができなくなった。下働きでしか稼げなくなり、いつのまにか博打場にいってうさを晴らすようになった。借金で困れば酒に溺れてまた逃げるのだ。
 周りから「お加代ちゃんのためだよ」と前置きされてはやいのやいのと説教され「そんなのでは安心して子も産めないよ」とまで言われている。自分もそれに乗せられているのではないだろうか。亭主はなおさら暮らしに嫌気がさしているのではないのだろうか。
 お加代は、風に逆らうでもなく、上手く身体をかわしながら笊を落とさず歩いていく笊屋の姿にはっとした。腰を落とし、足の裏を擦るように巧みに歩いていく。
 笊屋は常盤町の角を曲がっていった。お加代は弥勒寺橋に向かう。亭主と話がしたい、博打場になぜ行くのかではなく、今日は風がきついね、春だものね、と声をかけたくなった。砂埃で傷む目元を袂で押さえ、お加代は先を急いだ。



Copyright © 2003 小夜 / 編集: 短編