第8期 #19

侵食

 風景画を描いていたのだがくたびれてきたので手を止める。森の匂いを大量に吸い込み深呼吸、そのついでに絵の対象である沼を覗き込むと、燦燦と輝くお日様が僕の顔を映し出し、ああ水仙にはなれそうにないな思った。
 その時ざぱあと水面の僕の顔が浮き出て、僕そっくりな奴が沼から這い出してきたのである。気になったのは彼が水に濡れて寒そうだということだったのだが、本日下ろしたての僕のジャンパーを羽織らせるには抵抗があり、ただただ二人してぼけっと突っ立っていた。
「なあ、僕と一緒にワルツを踊らないか?」
 やがて開口一番彼がそう言うものだから僕は吹き出して、「やだよ相手が女の子でもないし、ましてや僕の姿をした奴なんて」と答える。すると「分かってないな」と溜息を吐かれた。
「自慰と和姦を同時にできれば気持ち良いじゃないか」
 何だか気味悪いなあ。
 僕は気分改めて絵の続きを描くことにしたのだが、その僕の姿をした奴はなかなか消えてくれないどころか、僕以上に饒舌だった。
「あのなあ、言い方がちょっと可笑しかったようだけれどな。君は普段絵を描いてそれを道端で売っている。しかしこの不景気の世の中ではなかなか売れない、悲しいことに。でもそれでも良いと君は思っている。何故なら君は絵を書くことそのものが物凄く大好きだからだ。言ってみれば自慰で満足しているわけだ。な?」
「煩いよ」
 僕は段々といらいらしてきた。なんで沼から出てきた奴にいきなりこんなこと言われなきゃならないのか。
「まあ厳密に言えば僕と君の立場は違うけれど、でも生活のためとはいえ君も今の状態に和姦が付けば更に良いだろう? 僕は踊りが大好きなんだ。独りでステップなんか踏んだりもできる。でも僕そっくりな君とワルツ踊って軽く汗を流せばより恍惚感が得られると思うんだ、どうだい?」
「黙れよ、もう!」
 僕は無性に腹が立って、怒鳴ったついでにパレットの端の方にあった白い絵の具をぐしゃぐしゃと紙に叩きつける。すると静寂が訪れ、直後に森の中に仄かに甘い匂いが漂い始めた。ふと前方を見ると沼の色が僕の絵と同じように茶っぽい白になっている。指をつけて舐めてみるとそれは確かに居酒屋の安っぽいカルーアミルクだった。
 木立の匂い消し去り、僕の体中染め替えるような甘ったるい匂い。それに痺れて意識が急速に閉じていく。僕は最後の瞬間、ああやっぱり一緒に踊ってやればよかったかもなと思った。



Copyright © 2003 朽木花織 / 編集: 短編