第8期 #17
お店で商品を購入し、またはサービスを受けて、割引券を用いる事がある。
そのたびに微かな後ろめたさを感じてしまう。物の値段というのは元来決まっているのに、こんな紙片で代価の幾何かを割引き、あるいは丸々只にしてもらおうとは、何と卑しい心根であるか。
券が手に入るには、その店で以前にも飲食をしたとかの経緯があったり、あるいはチラシを保存して切り抜いて来たとか、当方の努力も確かに存在しているのである。しかし店の側から見れば、売れた、よかった、と思った所へ割引を要求されて、残念がっているかも知れない。そう思うと気の毒である。
しかし実際には、私は割引券をよく使う。しがないフリーターにとって、お金が出ていく量は、とにかく多いよりも少ない方が良いからである。
毎日暇なので、プルーストの『失われた時を求めて』(ちくま文庫)を図書館から借り出して読んでいる。分厚い文庫で十巻もあって、何なんだこの切りのない無駄話はと初めは閉口していたのだが、退屈しながらも三巻「花咲く乙女たちのかげに」あたりまで来て、この頃ようやく少し面白くなった。作者の発想が何となくそのまま体に浸み込んで来たのであろう。
この大長編小説は第一次大戦をはさんだ、フランス社交界の最後の輝きを背景にしている。要するに公爵とか男爵とかいう世界である。話者の「わたし」──作者プルーストの投影であることは言うまでもない──は貴族ではないが、やはり裕福な家の出で、避暑地のホテルで祖母とともに一と夏暮らしたりする少年である。
当然、「どれでも一個百円」という券を後生大事に持って行って、お昼のドーナツを三つ買うような生活とはあまりにも懸け離れている。
せっかく割引券がある事だしと、一個百四十円するので普段は少し抵抗のあるマフィンやデニッシュ類を次々と取り、そして会計を頼む間際に電光石火の早業で券を取り出して、お盆に載せて出すのが、いつもの私の流儀である。
ちゃんと店員さんに手渡せば良いのに、変に格好をつけるのが間違いの元で、某日、レジに打ち込んで袋に詰めて、平価で締めて代金を支払うまで、券の存在を無視されてしまった。
私の方はひそかに、そのまま闇に葬り去ってくれと念じていたのだが、当然そうはゆかず、紙切れを見つけた店員さんは慌てて打ち直し、差額を計算して返してくれた。
割引券など縁のないような、高貴な雰囲気が漂っていたのであろうか。