第8期 #14

猫の背中

 猫の背中は絶えず蠢いている。それは、この丸っこい生き物がいま正に呼吸をしているからであろうが、寄せては返す海面の波頭のように、それは動きを止めることを知らない。
 猫の背中は案外と丸い。出来の悪いひょうたんのような形をしている。ひょうたんの中央にはちゃんと真っ直ぐに背骨が通っていて、その両側には適度な肉が付いている。
 猫の背中は生命に充ち充ちている。膨張と収縮を繰り返し、それが複雑に組み合わさって、完全な一つの動きを為している。この動きなくして、生物はその存在を維持し得ないのである。
 
 ――ああもう我慢ならん。これほどまでに愛らしく、かつ神秘的な対象を前にして、このまま何もせず引き返すことができようか。いやできるわけがない。

 私は猫の背中をそっと撫でてみた。とたん、この丸っこい生き物は背中の毛をゾクリと波立たせ、迷惑げな視線を私に向けた。悪い悪いと私が優しく背中を撫でてやっても、この生き物の機嫌は直らない。ふんと私を鼻であしらい、それっきりこちらを見ようともしない。どうやら嫌われたらしい。
 このままおめおめと引き下がるのも癪なので、試しに今度はわき腹をちょんと突付いてやった。これはなかなかもって効果があったらしい。この生き物は、一瞬起立をするように背筋をピンと伸ばし、それきり動かなくなってしまった。
 まずい、私は本能的にそう察したが、やはりむこうは生粋の野生動物であり私は一介の高校教師に過ぎないわけで、つまるところ、私は右の手の甲を思い切りがぶりとやられてしまった。
 まあ痛いことは痛いのだが、そんなことはさておいて私を魅了したのは、私の右の手の甲に刻まれた鮮明な猫の歯型である。私はその思わぬ副産物に、高々と右手を掲げ、飛び上がらんばかりに心踊ったのであるが、そこは人間ができているから、アスファルトの上で軽やかにターンを決めることで良しとした。近くにいた餓鬼が怯えたような、見てはいけないものを見てしまったような、なんとも複雑な視線をこちらによこしているようだがまあいい。英雄は常に孤独なのである。
 おまけにもう一度くらいターンしてもいいかしらんと考えつつ、実際にそうしてみたところ、そこにはもうあの丸っこい生き物の姿は影も形もなかったわけである。
 まあそんなわけで、今日のところは科学的探求を一旦止めにして、悪妻とドラ息子の待つ我が家への帰路についた次第である。終わり。



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