第79期 #8

春と食欲

「ねえ、味噌汁変えたでしょ」
 サヤカの不機嫌な声がした。僕は頼まれたケチャップを冷蔵庫から取り出そうとしていたのだが、サヤカはすぐ後ろに来ていた。
「袋は? もう捨てた?」
 今朝開封したばかりのインスタント味噌汁のパッケージを差し出す。36食入り980円。近くのスーパーでおすすめされていた。
「ふうん、PBねえ」
 プライベート・ブランドのことをPBと呼ぶんですか、と思ったことを口に出そうものなら、むくれてしまって大変なことになる。僕は黙り、サヤカが朝食のテーブルへとおとなしく戻ってくれることをひたすら願った。でもそうはいかないようだった。
「製造所固有記号って知ってる?」
 袋に書かれた文字を指差しながらサヤカが問う。残念ながらもしくは幸運なことに知らない。首を振った。
「ふうん、そんなことも知らないんだ」
 サヤカはそう言い、そして少し機嫌を良くしたようだった。僕の顔をのぞき込んだ後、キッチンから揚々と出て行った。


 実際問題、家計は悪化しているようだった。浪人を続ける予備校生のサヤカと彼女の姉、ヒナコの生活はヒナコの株取引による収入に頼っているからだ。サヤカは人間であるが、ヒナコは猫の姿をしており、その辺の事情は僕は詳しく知らないのだけれども、色々大変だと思う。僕はただの『お手伝い』なので、毎月のバイト代さえきちんと入れば詮索する必要などない、のだ。多分。けれどもサヤカとヒナコに食事を提供するのが仕事である以上、お金のことが気にならないわけでもなく。


「また春が来たね」
 朝食の後、窓の外を眺めながらサヤカが言う。ソファーに深く沈みこむように座っていて、そして目を少し細めている。リビングには日差しがあふれ明るい。僕は濃く作ったコーヒーを飲み、サヤカが通う予定の予備校の申込用紙に目を通す。僕は後でそれに記入しなければならない。ヒナコは隣の和室にいて、こちらに丸い背を向け新聞を読んでいる。時々しっぽが揺れる。
「……花見」
 サヤカが小声で言った。僕はコーヒーを一口飲む。
「は、な、み。聞いてる?」
 聞いています。
「お姉ちゃんと一緒に花見に行きたいな。桜ってさ……そうだ」
 何でしょう?
「どんなお弁当がいいかなあ」
 サヤカのクイック話題チェンジ。僕は食欲が満たされていて食べ物のことを考えられない。
「今年は中華弁当! というわけでおいしいの作って」
 ヒナコも聞いていたようで、にゃーんと鳴いた。



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