第79期 #40

人影

 左手に雨傘。駅に来るまでは降っていたのだ。コーヒーショップが見えた。俺は俺の妹に言った。
「コーヒー飲んでくか」
「座っていくの?」
「いや歩きながら」
 ならいいよと妹は言った。妹は深紫色のカシミヤのストールを顎先にひきあげる。寒い冬の夕方。妹は二十四歳だった。会社員だった。あたりまえだ。俺が三十二歳なのだから。
 俺は抹茶ラテ。妹はソイラテ。すする。温度がここち良い。
 俺は言った。
「親父はでれでれだった」
「うん」
 俺は先ほど駅まで送ってやった妹の恋人の話をもちだした。今日その男が顔を見せに家に来ていたのだ。
 母親からの情報によればだが。事前に恋人は父親に似て物事に執着しない性格だと妹から報告してあったらしい。用意周到。
 妹が言った。
「お父さんと出身大学が同じだし」
 気性にも出自にも共通点があるのならば安心するだろう。親は娘の交際相手に対して不安をぬぐいたくて仕方がないのだ。
 俺は訊ねた。
「結婚するのか」
「その積もり」
「俺は反対だ」
「あほだ」
「あほじゃない」
「助けて」
「え」
「私の兄は結婚前提の妹の交際に嫉妬してます」
 そして妹は胸にしまっておいたという驚愕について告白した。そもそも新幹線で一時間離れたところに住んでいる俺がこの恋人訪問の機会に突然に実家に戻ってくるとは思わなかったと。
 雨上がりの駅前は普段以上の微弱な騒がしさをもっていたかもしれない。それまで、人々はどこかで雨宿りしていたのかそれとも年末だからなのか。
 妹が言った。
「そっちは?」
「なに」
「結婚」
「ごめんおまえのファーストキスは赤ん坊の時に俺が」
「高校の時に聞いた」
「そうだったな」
「彼氏も知ってるし」
「そうなのか」
「実はお父さんに先にされてたし」
「そうだったのか」
 妹が雑誌を買いたいというので駅前の本屋に俺たちは入った。俺は平積みされた主婦向の料理本を見つけた。これを妹に贈れば許される気がした。悪事を働いてもいないのに何を許されるというのか。
 大型の本屋。別行動していたら妹の姿を見失ってしまっていた。本棚の前に佇む人々を探したが見あたらない。いま俺は妹を見つけられなくなっていた。むかし百貨店や遊園地で妹が迷子になったときに探すのは俺の家族内での役割だったのに。
 二分後。携帯電話で呼び出して本屋前で合流した。
 妹が言った。
「人影が多くて見つけられなかった」
 俺もそうだ。と言うのを俺はやめた。
 さみしくなるから。



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