第79期 #34

桜散る頃に

 あの日不意に差し出された手を思い出す。真白く、弱々しい手。微かに震えていた。美しかった。しかし、その時彼女がどんな顔をしていたのかは思い出せない。


 川辺の遊歩道を歩く。まだ咲き始めの桜。雨に打たれて散る。足元の花びらが虚しい。僕は立ち止まった。
 彼女に会いに行く筈だったのにと、僕は溜息をついた。これで何度目だろうか。自分の弱さが腹立たしかった。


 重病を抱えている彼女にとって、僕が唯一の支えだった。あの日差し出された手は、彼女にとって最後の足掻きだった。彼女は僕を愛していた。それは最近になって気づいた事だ。
 もちろん、僕には彼女を救いたいという気持ちがあり、実際に力になろうとした。彼女に友達はいなく、父親もいなかったので、会いに来る人は母親と僕だけだった。母親は仕事をしていたので、実質、彼女にとって話し相手は僕だけだった。
 しかし、僕には他に愛する人がいた。同級生の恋人だ。僕も思春期なので、色恋には勝てなかった。会いに行く回数は徐々に減っていった。

 重大な任務を背負わされた気持ちだった。僕は苦しくなって逃げたのだ。必死に彼女の事を忘れようとした。自分は悪くないと思いたかった。
 それでも罪悪感は僕に付いて回った。学校にいる時も、恋人といる時も。どこにも逃げ場所はなかった。


 ジョギングをする青年が僕を追い越していった。ただ走っているだけなのに、とても幸せそうに見えた。花びらが潰されていくが、彼は気に留めていないのだろう。
 人は知らないうちに誰かを傷つける。傷つけざるを得ない時もある。僕にとって、重く辛い事実だった。
 僕は歩き出した。花びらが汚れていく。心は痛んだが、それでも歩くしかなかった。僕は弱いのだ。

 歩きながら恋人に電話をし、簡潔に別れを告げた。恋人は冗談だと思ったのか、明るい口調だった。僕が黙っていると、それが次第に泣き声に変わっていく。僕は謝る事なく電話を切った。悲しくはない。これで踏ん切りがつく。


 僕が彼女を愛しているのかはわからない。それでも、僕は彼女の下に行く事にする。たとえ苦しくても、彼女の手を取って笑ってやる。そして、ずっと彼女と共に過ごしていく。
 この行動は正しいのだろうか。結婚できないという事実を、彼女は受け入れているのだろうか。本当にこれで、彼女は幸せになれるのだろうか。


 雨は勢いを増す。花びらが散る。僕が踏む。
 それはとても自然な事に思えた。



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