第79期 #30

前借り

 孝明は今まで前借りをした事がなかった。

「どうしてあの娘だけが」
「ご病気ですね」
「まだ二歳なんだぞ」
「返済はお父様でよろしいですか」
「幸せになる権利は」
「債務発生はお嬢様がご結婚されてからと言う事で」
「誰にでもあるはずだろう」
「返済は同じくご病気になります」
「有紀の笑顔があれば」
「ご利用ありがとうございました」
「俺は他に何も要らない」
「ご利用ありがとうございました」

 子供の頃から欲しいものは自分の貯金から買っていたし、自分で買える範囲の物しか欲しがらなかった。計画性があるという人格は大人になってからも損なわれずに、その所為である程度のローンを組める社会的信用を得たのは皮肉な事だった。

 帰り道では洗車をしている人達をちらほらと見かけた。青い折り紙に牛乳が浸潤していく様に、空は入道雲に覆われようとしていて、ああ今日洗車をしても雨で汚れてしまうな、と孝明は思った。

 孝明は今日、生まれて初めての前借りをした。幸せの前借りをした。
 
 それからはやわらかな時が過ぎていった。病気はその日以来影を潜め、引っ込み思案だったはずの有紀は自分からプロポーズをして結婚を決めてきた。相手は孝明の覚えもめでたく、嫉妬とそれ以上の信頼を感じさせる人物だった。

 孝明はようやく肩の荷が下りた気がした。グラスを傾けると十数年ぶりのアルコールが喉を焼いた。病気に備えての蓄えは十分すぎる程に築いてきたし、受け入れる覚悟は前借りをした日から揺らぐ事はなかった。琥珀に濡れたグラスをコースターに置くと、孝明に労いの言葉を掛ける様に氷がカラン、と鳴った。達成感とアルコールが入り混じって、妙な高揚を孝明にもたらしていた。年甲斐もなく興奮している事に苦笑しつつ、これから入籍の報告に来る二人にどんな言葉を贈ろうか、孝明は考えた。

「お疲れ」
「お疲れっす。早いっすね」
「夜から雨らしいからな」
「じゃあ早めに出ますか。先輩これ見ました?」
「ネットで見たよ。ハッピーローンだろ」
「二人殺す前に娘の事犯してたらしいっすよ」
「げーまじかよ。ビョーキだビョーキ」
「娘殺して幸せもクソもなかろうに……全く計画性のない」
「あ、そういえばお前昨日スロット行ったらしいな」
「……」
「人に金返さないで良い度胸だなオイ」
「さ、雨降る前に行きましょう。急がないと新聞が濡れちゃうや」
「待てコラぁ!」

 まだ雲のない青空に、原付が吐き出す白い煙が溶けていった。



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