第78期 #25

春はトンカツ

 春の雲はうまそうだった。まるで、早く衣をつけて揚げなさい、ソースをなみなみかけて私をごはんのおかずにしなさい、と誘っているかのようだった。
 俺は商店街の真ん中に立っていた。スピーカーからシューマンのクライスレリアーナが流れている。八百屋のおかみが俺をみている。俺は呆然とキャベツを手にとった。
「さつまいもはいかが? さつまいもごはん、たべたくなくって」
 おかみさんありがとう。でも今日、俺トンカツ食うんだよ。
「それでキャベツなの……」
 袋いらねえよ、俺エコだから。
 千円札をだしてお釣の八百円を受け取る。そうだ、このお釣でウイスキ紅茶を飲もう。喫茶キムタクがこの近くにあるんだ。
 急に花道を歩くようなシャン!とした気分になって、喫茶キムタクへ向っていると、雲と雲のすきまから宣伝気球がゆっくりと喫茶キムタク方向へ飛んでいる。
 よおし俺も負けてたまるもんかっ!
 キャベツを抱えて気球と競争してるうちに店についた。ときどき見かける常連の女と相席とのこと。俺はウイスキ紅茶を飲むつもりだったことを忘れ、珈琲をたのむ。
「コーヒー、ワン!」
 髪をかきあげてボーイが叫ぶ。
「お世辞にも粋とはいえないけど……あのワンってのがいいわ」
 女は汗だくの俺にマーブル模様のハンカチをさしだしてくれる。予期せぬ出来事に俺心臓止まりそうになって。

ハンカチ、わんっ!

 もちろん叫ばない。けれどなぜかボーイがこっちを睨みつけている。
「もしかして、あなたって猿?」
 女から質問。え? 俺が猿。どういう意味だろうか。俺は仕方なしに曖昧に笑う。女も曖昧に笑う。 
「どうしてキャベツを?」
 そうだ。俺今日トンカツ食うんだった。彼女俺にハンカチかしてくれたし、疲れてるみたいだし、トンカツに誘ってみようか。
 俺の家、この先。507号室。5階なのに階段しかない古いとこなんだけど。ハンカチのお礼にトンカツ食べにきませんか。
 キムタクを出てアパートへ向った俺たち。近所の公園の梅が咲いている。きれいだ。女もきれいだ。
 5階まで昇るとさすがに女も息を弾ませていた。俺早速台所へ走っていって、あっ。肝心な肉を買っていない。春の雲のせいだなんて言えない。どうしよう……言おう。
「あらそう。気づかなかった? 私カツカレー食べてたのよ」

 二人で窓の外を眺めた。もう雲はただの雲だった。突然巨大な影が入り込んできて、俺は女の手をつかんだ。影は気球だった。



Copyright © 2009 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編