第78期 #26

 不倫を始めて間もない頃のことだった。その日は嫁に、大切な人の接待がある、と言ってマンションに向かった。蒸し暑く、まだ陽は落ちていなかった。鍵を開けると、彼女は居なかった。仕事が少し長引いたのだろう。腹が減ったので、冷蔵庫を物色した。
 ほとんど空だった。たった三つ、卵があった。僕はがっかりした。何か甘いものが欲しかった。
 ゆで卵でも作ろうと思った。戸棚から鍋を見つけ出すと僕は蛇口を捻った。水が出てきた。
 鍋を火にかけた。換気扇を回した。
 僕はいろんなことを考えた。辛い仕事のこと。辛い家庭のこと。暗い将来のこと。ベランダに出た。黄昏もそろそろ終わりそうだった。下を見ると、風が唸り声をたてて過ぎていった。
 部屋に戻ると、彼女がいた。もう帰ってたんだね、と言うと、荷物を持ってキッチンの方へ行った。
 「湯気が、立ってるよ」
 彼女が言った。
 「そういえば、そうだった」
 僕は答えた。キッチンに向かい、彼女が冷蔵庫のドアを閉めようとした時、僕はその手を取って接吻した。
 「何するの」
 僕がまさに卵を手に取ろうとした時、彼女は言った。哀しそうな、叫び声で。
 「ゆで卵だよ」
 僕は答えた。
 「どうして、ゆでちゃうの」
彼女は泣き叫びながら言った。卵はもう鍋の中だった。
僕は少し下を向いたまま沈黙した。子供のように。自分は何かよくないことをしてしまった。ぐつぐつ言う鍋を背に、その時はどうしようもなかった。
白身は固まっていく。黄身もいつか固まっていく。
数分は経ったような気がした。僕は彼女の方を見た。
「お菓子を作りたかったの」
彼女は言った。
「ごめん」
僕は言った。謝るだけならいくらでもできるから。謝ることが仕事だから。
「食べて、いいよ」
彼女は言った。僕は火を止めて、熱湯を捨てて、卵を取り出して、剥いた。彼女はそれをじっと見つめていた。堅い殻の中にはタンパク質の白い柔らかい塊があった。もう透明の流体には戻らない。塩をかけて僕は食べた。
「しょっぱい」
僕は笑って見せた。完全に固体化した黄身が顔を出した。もう元には戻らない。
「私も」
彼女は泣きやんでいた。僕はもう一回接吻した。
その夜僕らは初めて一緒に夜を過ごした。夏の夜は短く、5時を過ぎると朝日が僕らを覗いた。カーテンを開けて、ベランダから出ると、もう空は青かった。
下を見る。遥か彼方にコンクリートの地面が見えた。怖くて部屋に戻った。その後憂鬱な会社に行った。



Copyright © 2009 マロン / 編集: 短編