第78期 #20

景色

 足場を蹴って、反動で見上げたその先には、「蜘蛛の糸」の様にぴんと張る一本の筋が見えた。この伸び往(ゆ)く先は天堂か。只それは蜘蛛の糸と違って、身を任せるに値する、決して切れる事の無い頼もしさを持っていた。
 私の居る丘の周りは緑の山脈が波打っていた。一陣の風が私の背中を押して行った。ここは色の仄(ほの)かに香る三笠山の様になだらかな春の丘の上。眼下は花盛りの梅園だ。もう少し待てば、今度はその中に桜の花が見えるだろう。眼前に広がる景色は、申(さる)の刻の傾いた陽によって映えている。
 山脈に囲まれた静かな景色の中、花をつけた梅の木の影が一つ、もぞもぞと動き始めた。影は木の根っ子から離れると、姿を子供の影へと変えていった。木から離れた黒んぼは、地面に貼り付いたまま梅園を自由に駆け始める。他の影もまた続くように体を震わせ木の幹から離れていく。梅の木から生まれた黒んぼ達が、私も私もと、縦横に走って遊び始める。笑い声が風に乗って丘の上の私の処まで聞こえてきた。眼下の梅園を、笑い声と共に無数の黒んぼ達が走り回る。
 その中に、まだ花をつけていない小さな一木が在った。その姿がふと私の亡くなった息子の姿と重なった。あれは小さな木であるが、確かに桜の木の様だ。枝の先に、尻から一本の糸を出してぶら下がる蜘蛛の姿が見えた。ふいに出てきた涙が、私の頬を撫でてゆく。お前はあの桜の木になったのかな。まだ花をつけない木は、動かずにそこで立っているだけだが、もう見れるはずのない未来の息子の姿の片鱗が、走馬灯の様に頭をよぎり去って行った。
 私の意識が遠のいていく。見える梢がぼやけていく。首の重ささえ疎ましい。棚から花瓶の落ちるが如く、抗(あらが)えずにかくんと力が抜ける。落ちた視界には、地面を覆った草の根を、宙に漂いながら指し示す私の両足が見えた。春の梅園の頂上に吊られた体は、少しの間ゆらゆらと揺れていたが、すぐに重い体は動かなくなった。あぁ、蜘蛛の糸よ、まだ私を引き上げないでほしい。もう少しの間、誰にも見つからずに、あの桜の花がつくまでここに居させてほしい。……



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